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キールの薔薇

 さわやかに澄み切った青い空。

 その空を、桃色の鳥の一団が編隊を為して横切っていく。羽を広げると3メートルにもなる大形の鳥、ユレキニア。この世界ではよく見かける鳥の一種ではある。

 しかし、この地域のユレキニアは少し違っていた。

 通常白い雪のような羽をしているユレキニアだが、この城周辺の水辺に暮らしているユレキニアは、鮮やかな桃色をしているのだ。

 キール王国の王都マロニアの丘の上に立つマロニア王城。

 テラスで朝食を取りながら、リサフォンティーヌは、その群が眼下に広がる街を飛び越えてナルル湖の方へと降りていくのを目で追った。ナルル湖周辺は広葉樹が広がる森だ。朱に黄色に染まった森は少し盛りを過ぎ、そろそろ落葉をはじめる頃だろう。落葉してしまう前に、森を散策に行きたいものだとリサフォンティーヌは思った。黄金色に輝く柔らかな髪は、彼女が動くたびにさらさらと陶器のような肌に零れていく。

 鳥たちは毎朝、まずはじめにナルル湖へと降りて行き、そこで餌を食べる。ナルル湖の水は鮮やかな赤い色をしていて、そこの魚やプランクトンを食べているユレキニアは、水の色を移しピンク色になるのだ。

「お飲み物のおかわりはいかがでしょうか?」

 傍らに控えていた侍女が声をかける。

「えぇ、いただくわ」

 さわやかな笑顔で侍女の顔を見上げる。目が合った侍女は、同性であるにもかかわらずパァッと頬をバラ色に染めた。

 美しいのだ。

 目の前で優雅にお茶を飲むその人は、この世のものとは到底思えないほどに美しく可憐で、神々しい。同性であるはずの彼女たち侍女が、嫉妬するゆとりもないほどに。

「ミルクティーを」

 何になさいますか?と聞くべきことすら忘れていた世話係は、その言葉ではっと我に返って、ワゴンの向こうに立っている給仕係に合図をする。ティーサーバーを持った給仕の女性が前へ進み出て、厳かな手つきでカップに紅茶とミルクを注ぎ入れる。

「お食事中、失礼いたします」

 給仕が下がったのと入れ違えに執事がテラスへと降りてきて、恭しく礼を取った。

「なんです?」

 入れ立ての湯気の上がるカップに口をつけながら、ちらっとそちらに目をやった。

「本日のご予定についてです。至急でお伝えいたすべき案件がございまして」

「どうぞ」

 執事は手元の紙に書かれたタイムスケジュールを順番に読み上げていく。

「各大臣より、新人事についてのご確認とご承認をいただきたいという書類、及びウキレイ駐留軍よりウキレイの街で起きている暴動に関する報告書が届いております。予算案は本日中にドレイファスへとお送りするご予定になっておりますが、その前に再度ご確認をいただきたく、お部屋にお運びしてございます……それから……」

 言い淀んだのは、言いにくいことの証だ。リサフォンティーヌの顔色をうかがうように、チラッと手帳から目を上げた。

「それから?」

 受け皿の上に戻されたティーカップが、カチャリと小さな音を立てた。

「はい。先ほどカラキムジアの王宮よりご使者が参られまして……」

 執事がそう話しはじめるとすぐに、彼女は席を立った。

「あの……陛下……」

 無言で執事の脇をすり抜けてテラスを出ていこうとする。ベルベットの深紅のロングドレスの裾が、彼女の動きに合わせてふわりと揺れる。テラスの脇に控えていた侍女達が、一斉に頭を下げ、出ていく彼女を見送っている。

「お待ちくださいませ。陛下、リサフォンティーヌ陛下……」

 初老の執事は、小走りになりながら、慌てて彼女の後を追いかけていく。そして、彼女がエレベーターに乗り込んだところでようやく追いつき、ドアが閉まる寸前に中へと滑り込む。

「……姫……お待ちくださいませ」

 かわいそうな執事は、息を切らせている。

「お預かりした親書を……」

 ハァハァと息を弾ませ、手に持つ黒い皮の書類ケースから一通の封書を取りだして主へと差し出した。

「私は受け取りません。そう言ったはずです」

 一瞥すらせずに冷たく突き放した。

「しかしながら、これは親書にて……」

「親書であろうと、私は受け取らぬと言っている。そう父上にはお伝えすればよい。そもそも、ドレイファスからの親書は、当分受け取らぬようにと言ったはずだが」

「申し訳ありません。しかし……」

 彼女の口調が変わったので、執事は一歩下がって、控えめに抵抗した。エレベーターは音もなく静かに下へと降りていく。

 水圧を動力源として動くエレベーターは、彼女の居室棟であるクリスタルウイングと執務室のあるサファイアウイングとを結ぶもので、最新の科学力が導入されている。

 リサフォンティーヌは科学研究分野にも積極的に予算を投入しており、彼女がこの国の王となってから、科学技術は大幅に進歩した。エレベーターもそのうちのひとつで、二年前に改築を終えたこの城に導入されたのだ。

「どうせまた例の件なのでしょう?」

「はぁ……まぁ、それは……おそらく……」

 執事の弱々しい答えを背中に聞きながら、エレベーターを降りるとそのまま執務室へと入っていく。

「お待ち下さいませ、姫〜」

 その後を、忠実な執事は早歩きで追いかけていく。

「父上は弱腰だ。娘を政略結婚させねば維持できないほど、ドレイファス王国は衰退しているとでもいうのか?」

 リサフォンティーヌは執務室の椅子に深々と腰を下ろし、大きくため息をついた。

「それとも、私一人でキールを治めることは無理だと、そう申されるのか」

 右手で額を押さえて、苦々しく口にする。

「そんなことはございません。ただ国王陛下はお父上として、姫のお幸せを祈っているだけなのです」

「会ったこともない隣国の王子と政略結婚させることが、幸せだというのか?」

「いえ、あの、それは……」

「国民のために、国を守るために結婚させる、結局そう言うことではないのか? 女には国の統治は出来ないと、そう言うことではないのか? 父上がどうお考えかは知らないが、私はこの国を治めてみせる。政略結婚など為さずとも、私一人で見事に治めてみせよう。そしてこの国を、元の、調整者として君臨する、強いキールに戻すのだ。それが亡き母上と交わした約束なのだ」

 荒々しく一気にそう吐き出してから、

「いや。すまない……言葉が過ぎたな」

 冷静に執事の顔を見た。わかっている。父の心配も。それが優しさであることも。自分はただ、それを受け入れられないだけだ。執事にあたっても仕方がない。「悪かった」とリサフォンティーヌは表情を緩めた。怒らせてしまった主にどう接しようかと悩んでいた執事の顔に、ようやく安堵の表情が浮かんだ。

 彼女は静かに椅子から立ち上がり、街を見下ろすことが出来る大きな窓に歩み寄った。窓からは、柔らかな朝日がきらきらと射し込んでいる。

 大きな窓を開けてベランダに出た。

 彼女の輝くような金色の髪が、そよ吹く風になびいていく。雪のような白い肌に、糸のような髪がこぼれ落ち、澄んだ音楽を奏でるかのようだ。

 リサフォンティーヌ・ファン・ル・キール・ドレイファス。

 親しい人達には、リサの愛称で呼ばれている。

 空の青さを映し込む水色の瞳に整った鼻筋。侍女達がついつい仕事を忘れてみとれてしまうほどに美しい姫だ。

 ドレイファス王国の王女であり、キール王国の王である。父王との約束で、リサが成人するまでは、ドレイファス王国の庇護を受ける形になっているが、軍事、政治、経済など、全ての決定権はキール王であるリサフォンティーヌに委ねられている。まだ十八歳。王と呼ばれるには若い年齢だが、リサがキールの王となることは、彼女が生まれた時にすでに決まっていた。

 それは、この国に、遙か神話の時代から脈々と受け継がれている伝説によって定められていた。

 そもそもこのキール地方は、彼女の母であるエリザベート・ル・キールの出身国で、元々はリサの祖父が治める王国だった。

 三十三年前の薔薇戦争の最中に、父王、母、兄を失い一人取り残されたエリザベート王女は、その国を持参金としてドレイファス王国の王子と結婚したのだ。本来、ドレイファスに併合され、地方行政府のひとつになってもおかしくない状況だが、キール王国には独立を維持すべき理由がある。伝説では、キールは、「ル・キール」家の血族の中で「龍の血」を受け継ぐものが代々引き継ぐことと、キールの独立を脅かす者は、その命を奪われる。と伝えられている。

 その経緯で、『神話の国・キール』は、一時的にドレイファスに併合されたものの、現在は王国として独立国家としての体裁を保ち、「龍の後継」であるリサが、女王としてこの国を治めている。

 リサは、就任当時から驚くべき政治手腕を発揮した。そして何よりカリスマ性がある。

キール公国の王女であった母エリザベートに生き写しと言われ、生まれた時から、ドレイファスの宝石、キールの希望と称えられてきた彼女だ。国民の信頼も厚い。

 初めは半ば象徴のつもりで据えたドレイファス王メンフィスも、彼女の見事な統治ぶりに舌を巻き、今では完全に、キールの統治を任せている。ドレイファスの「後見」としての役目の方が形式的なものになってしまっている。

「母上と父上のことは、特別だと思っています。父上はこれ以上ないほどに母上を愛しておられたし、母上も最期まで幸せそうに笑っておられた……だがしかし……ガイザースベルンの王子が、父上のような方だという保証はないのです……」

 カイザースベルンの王子のことは、何も知らない。

 会話をしたことどころか、顔を合わせたこともないのだ。カイザースベルン王ディートリッヒとは、カラキムジアの王宮にいるときに、国賓晩餐会で何度か顔を合わせている。最近では、キール王としての戴冠式の時にも出会っているから良く知っている。王子が2人いて、父王によく似た美男子という事も知っている。二人がマキシミリアンとアレキサンドロスという名前だと言うことも知っている。第2王子が、元服後すぐに臣下に下ったと言うことも知っている。しかしどんなに美男子であろうが、どんなに声がきれいだろうが、どんなに剣の腕が立とうが、リサフォンティーヌの願っている「愛」には関係ない。リサが知りたいのは、その人となりだ。作られた噂ではなくて、真実の姿を。

「陛下……」

「わかっている。政略結婚も仕方ないのだ。王族である以上。だが…私は、…私はそれが、怖いのかも知れない」

 リサは呟くように弱々しく告白した。しかしすぐに、いつもの凛とした声に戻って、

「とにかく、パークデイル。父上には、改めて、結婚の意志はないと返答を」

 実直な執事パークデイルを振り返った。

「…承知いたしました」

 執事はついに反論を諦めた。

「仕事をしよう。下がってくれ」

「承知いたしました。陛下」

 深々と頭を下げて、執事は執務室を出ていった。

「またメンフィス国王陛下からですか」

 すれ違うようにして室内に入ってきたのは執政官。王の執務を補助する王佐だ。

「随分と疲れた顔をしていましたよ」

 執政官は、次のドアを開けて廊下に出ていこうとする執事の背中を同情の視線で見送ってから、椅子に身を埋めて大きくため息をついていた王に向き直った。

「疲れているのは私の方だよ。もう、勘弁していただきたいよ、父上には」

 ここ最近、カラキムジア王宮とはこんなやり取りばかりだ。

「まぁそうおっしゃらずに。メンフィス王は陛下のことが心配なのですよ。宮廷晩餐会くらい、ご承諾して差し上げては? 先方の王子様と直接お話しされたら、案外……」

「もうその話はやめてくれ。フェリシエール」

 リサのため息混じりの言葉に、若き執政官は、深緑の瞳で、

「わかりました」

と微笑んだ。穏やかなその笑顔は、泣く子どころか獰猛な獣でさえも、手なずけてしまえそうだった。

 兄の幼馴染みというフェリシエール・カール・ビエラは、濃い深緑の髪とその色を溶かし混んだような緑色の瞳が美しい、すらりとした長身の青年だ。わずか12才で政務室にとりたてられたほどの天才で、現在では、政治経済に関する一切を取り仕切り王の執務を補助する、執政官を努めている。それほどの優秀な男でありながら決して偉ぶることはなく、誰にでも気さくに接する穏やかな性格の持ち主だ。

 心配性の父王の計らいか、妹にべた惚れの兄の謀略かは定かではないが、リサがキールの王に就任してからずっと、その右腕としてその政務を支えてくれている。彼女自身、幼い頃から何度も王宮で顔を合わせており、政治経済に関する講義の多くも、彼から受けていた。部下というよりむしろ、兄、教師に近しい存在で、彼女は彼に、全幅の信頼を寄せている。

実際、執務室にいる時間は常に彼と共にいるのだ。

 キール国民はみな、リサを為政者として尊敬している。それは王宮内においても同じで、王宮内の誰もが、リサの味方だ。それでも、就任当時まだ十六歳だった若き王に、世間は、期待と言うよりもむしろ不安を抱いていた。あたりまえだ。しかも王は女性。わずかな部下を従えてこの王城に入った当時は、ただのマスコットとして見る人も多かった。

フェリシエールは、そんな彼女を最初から支えてきた。

 重厚な一枚板で作られた執務机に向かい、リサは書類の山に一枚一枚丁寧に目を通す。

慣れた手つきで羽ペンをインク壷に浸して、予算案に手早くサインをし、軍の人事を承認する。王の仕事というのは、公式行事や地方の視察などで外遊したりしない限り、執務の大半はこのようなデスクワークが主な仕事だ。国務大臣との会議や政務官からは定期的に報告があるが、特に重要案件がない日などは、午前中で執務が終わってしまうことだってある。ここのところ忙しかった新年度からの予算案がまとまったため、ようやく一息つける時期に入っていた。

 彼女が最後に手をつけた書類は、ウキレイの街で起きている暴動に関する報告書だった。

「どうしたものかな」

 すぐに彼女は顔をしかめ、そう呟いた。

 何か、嫌な予感がする。

 彼女の勘がそう告げていた。

 ウキレイの街は港町だ。交易が盛んなこの街は、新しい人や物が頻繁に行き来する、キール随一の商業都市だ。経済活動が活発なのは喜ばしいことだが、それに伴う暴動も頻繁に起きる。また、隣国からの不法侵入を食い止めるために派遣している軍による統制が、どうしても市民の反発を呼んでしまうのだ。

 夜間の外出の制限。酒場や盛り場に科せられるルールの多さ。身分証明書の携帯義務。などなど。治安維持のために必要不可欠な行為だと分かっていても、その中で毎日の暮らしを送っている人々にとっては迷惑この上ないのだ。特に、夏の祭りが終わってから治安が悪くなっており、夜間外出禁止令を出してあるのだ。

 今回の暴動は、またしてもそのうちのひとつが引き金となった物なのだろう。

「困ったものだな。ウキレイも」

 法令の数を増やすだけでは解決できない問題に、何か良い打開策はないかと思いを巡らしてみる。

 そもそも今回の暴動の原因はなんなのだ?

 リサは、ついに行き詰まった思考の、その先端部分が不透明だということに気がついて、大きくため息をついた。

 脇の机で同じくペンを走らせていたフェリシエールが、その気配に気がついて顔を上げた。

「ウキレイですか?」

「また暴動だ……」

「えぇ。それに、ウキレイについては、よからぬ噂も入ってきているのです」

「よからぬ噂?」

 執政官は机の引き出しから一冊のファイルを取りだしてリサの元へと寄った。

「少し前から、不老不死の妙薬が高値で売買されているという噂が飛び交っていたのですが、最近は更に物騒なものが、売買されているようなのです」

 リサはファイルに記載された文字を目で追っている。

「遺伝子組み換えによる変異体!?」

「はい。切っても死なず、燃やしても死なない。そんな化け物を売りに来た男達がいる、と」

「それはどんな化け物だ?」

 思い切り振り下ろされた斧のような迫力を持った言葉を真っ正面から受け止めて、執政官は主の瞳を見つめ返し、

「わかりません」

と首を振った。

「持ちかけられた男も現物は見ていない、と。男達は、今は話を持ってきただけで、もし買う気があるなら取引をしよう、と、そう言ったそうです。それに…」

「それに?」

「どんな動物でも、要望があれば改良できる、と」

「なに!?」

 執政官の次の言葉に、リサは言葉を失った。「どんな動物でも」。その言葉の持つ意味は大きい。

「先週、ウキレイ近郊のビーズーの海岸で、奇妙な生物の死体が上がりました。リュウマトクスのような大きな鰭を持ち、大きな口にはバラトゥーダのような鋭い歯が生えていた、と」

「先週? 私は聞いていないぞ」

 ぶっきらぼうに言いながらも、半ば腐りかけたその海洋生物の細密画に、背中が凍るような感覚を覚えていた。

 キールでは、生態系をぶち壊すような新たな生物の『創造』は固く禁じられていた。もちろん、本国ドレイファスでも、隣国カイザースベルンでも同様だ。

「現在、トリステルの研究所で、この生物の解析をさせております。陛下には、結果が出てからまとめてお伝えするつもりでおりました」

 フェリシエールは申し訳なさそうに軽く頭を下げた。針葉樹の葉が風になびくように、深緑色の髪がさらさらと揺れた。

「それと先の商人風の男達との関係も、ただいま調査をさせて……陛下?」

 いきなり立ち上がった彼女と目が合った。

「気を利かせすぎだ」

 こういう時、リサは改めて、自分はまだまだ力不足だと思い知らされる。自分の知らないところで、部下達が奔走している。足りないところが多すぎるから、その分部下達に負担をかけてしまっている。自分は何と未熟な王なのだろう。

「陛下」

 彼女の瞳の中にあるその劣等感の欠片を溶かそうと、執政官は優しく彼女の肩を抱き、開いている窓からベランダへと促した。

「陛下。すぐにお伝えしなかったことは謝ります。ですが、あなたをお助けするのが、私達の仕事です。あなたの愛する、この国を守るために」

 眼下に広がる王都マロニアの街。家々のオレンジ色の屋根が重なり合うようにして連なっている。今日も平和な日常が、そこに息づいている。

「なるべく細々したことで、あなたを煩わせたくはありません。私達に出来るようなことは、私達で…」

「フェリス……」

「過保護だと、おっしゃりたいようですが…あなたのことは、ウインダム殿下から、くれぐれもと頼まれておりますから」

 やっぱりフェリシエールが執政官として同行したのは、兄ウインダミーリアスの指金か。リサは苦笑を浮かべながらも、彼の言葉にはいつも助けられる、とそう思った。

「それでも私は、民と共にありたいし、全てのことを知っていたい」

「承知しております。陛下」

 体から少し力を抜くと、フェリシエールの腕がしっかりとその体を支えてくれる。「あなたはいつも、一人で頑張りすぎます」そう言ってくれる有能な執政官のぬくもりに、リサは心強さを感じた。

「良い天気だ」

 リサは思い切り深呼吸をして、青い空気を体いっぱい吸い込んだ。

 街を取り巻く城壁の向こうに広がる緑の森。

 巨大な桃色の鳥ユレキニアが住む豊かな森とナルル湖を中心として点在する湖沼群。

 遙か彼方に広がる雪を被った山脈。

 その山脈の中に聳える神話の山・ドラゴンズネスト。

 キール地方は自然の宝庫である。

 マロニアの街壁の外に広がる森の向こう。街道沿いに点在する森を辿っていった先に、港町ウキレイがあるはずだった。

 のどかな景色とは裏腹に、なにやら怪しげな事態が進行している。この青い空のどこかで。この愛する我が国のどこかで。

 ネックレス代わりに胸に下げているキールクロスに軽く手を触れた。キールの紋章である、剣の形をした十字架にドラゴンが絡みつくそれは、キールの王権の象徴で、最愛の母の形見だ。母の愛したこの国を、守っていかなくてはいけないのだ。

「姫。ウキレイには、アランを派遣してあります。フルバの宿屋で、出会えるはずです」

 耳元に、囁くような執政官の声が聞こえた。

 コンコンコン

 部屋の扉をノックする音が、二人の会話を中断した。フェリシエールの目配せに、リサが小さく頷く。

 フェリシエールはすぐに室内に戻り、重厚なオークの扉を開く。控えていたのは、先ほどの執事長、パークデイルだ。急いで走ってきたのだろう。少し髪を振り乱し、息を弾ませていた。

「どうしました? パークデイル」

「はい。失礼いたします。門番より連絡がありまして、カイザースベルンよりご使者が参られているそうでございます」

 慌てた様子で例の皮の書類ケースを開いて、間に挟まれたメモを差し出した。

「カイザースベルン王宮の早馬…ディートリッヒ王からの親書をご持参とのことです」

 フェリシエールは、メモを持ってリサフォンティーヌの元へ歩きながら、記されている文字列を読み上げる。

 やっぱり今日は厄日だ。

 リサは、今日何度目かのため息をついた。

「陛下」

「わかっている、フェリス。受け取りに出てくれるか。それから、パークデイル。至急、父上に確認してくれ。返答次第によっては、それは開けるわけにはいかない」

「承知いたしました」

 執政官と執事長が、ほぼ同時に頭を下げる。

「まったく。このような私事に煩わされている場合ではないというのにな」

 呟くように愚痴ったリサに、

「はい……申し訳ありません」

 すかさず執事が謝った。先ほどのことがあるからか、随分と恐縮している。

「いや。そなたのせいではないよ」

 彼を疲れた声でねぎらってから、

「この件は任せる。それから、バルディスに連絡してくれ。ちょっとウキレイに下りる。後は頼みます」

 すぐに意識を、ウキレイで起きている、きな臭い事件のことに集中させた。

「え? ちょ……ちょっとお待ち下さい、陛下…?」

 冷静に頭を下げて承ってくれた執政官に対して、バタバタと子亀のように両手をばたつかせながら、執事は執務室を出ていこうとする主を止めようとしていた。ただでも、姫のお忍びでの外出を快く思っていないのだ。

 そんな彼にはお構いなしで、当の本人は、既に廊下への最後の扉を押し開けていた。

「あ、あわわわわ……フェリシエール閣下! 姫が…リサフォンティーヌ姫が…」

「落ち着きなさい、パークデイル。止めても無駄です」

 過保護な執政官も、これだけは止められない。しかしそれは、あきらめではなく信頼だった。いつも以上に取り乱している執事に呆れたような笑顔を向けながら、執政官は落ち着き払った声で言った。

「それは承知しておりますが…ウキレイにおでかけと…」

「暴動の状況を、ご自分でご覧になりたいということだからね」

「で、ですからご心配申し上げて…」

「大丈夫だよ。バルディス閣下も一緒に行くのです」

「しかし、ウキレイの暴動はまだ続いていると…しかも聞く所によると、なにやら化け物が出るとか」

「だから、それを確認に行かれるのでしょう?」

 姫の幼い頃から仕えている執事は、孫娘に対するような熱い愛情の気持ちがあるのだろう。今にも泣き出しそうな顔をして、

「あぁ、どうしましょう。あぁメンフィス王に……」

とブツブツ呟きながら、相変わらず落ちつきなくその場を歩き回っている。

「パークデイル。もういいかげん、陛下のことをご信頼申し上げなさい。もう子供ではないのです。それに、リース・セフィールドに敵うほどの剣士は、この国にも、ドレイファスにもいないのですから」

 フェリシエールは取り乱している執事にたしなめるように言ってから、開け放たれた窓から見える青い空を、祈るような瞳で見上げた。

「姫。今回も、どうかご無事で」

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