秘密の夜
「気がつきましたか?」
目を開けると、心配そうな顔をしている自分をのぞき込んでいる瞳と目が合った。オレンジの光がゆらゆらと揺らめいて、土と石の凹凸を照らしている。
ここはどこだろう……。
と、リースは思った。天国にしては殺風景なところだし、地獄にしては穏やかなところだった。
「雲行きが怪しかったから、洞窟に避難して正解でした」
彼はそう言いながら、手元の薪を火にくべた。
パチパチパチッ
一瞬炎が大きくなって、周りの様子をより鮮明にした。
辺りはすっかり夜になっていて、激しい雨音だけが、生命でも持つかのようにざわめいて聞こえた。
「一応、モルフィンは打っておきましたが……俺には、あなたみたいに、縫ったりする才能なくって」
自分が生きているという実感が、まだ湧いてこない。それでも、自分のことを心配してくれて声をかけてくれる彼の声には、生命力がみなぎっていた。
「アレックス……?」
「はい。大丈夫ですか?」
見慣れた隣国の王子の顔が、リースの顔をのぞき込んだ。
「どうしました? 傷、痛みますか?」
彼の言葉遣いに、リースは嫌な予感を感じた。
「つっ……」
身を起こそうとした彼女は、激痛に襲われて思わず顔をしかめた。
見れば、グリセラトプスに咬まれた傷には包帯が巻かれていて、痛めた左肩も、頑丈に固定をされていた。生きていると言うことは、彼が解毒剤も飲ませてくれたのだろう。
「無理しないで下さい。肩、ひびが入っているかも知れませんから」
そう言いながら、リースが身を起こすのに手を貸してやる。グリセラトプスの毒の後遺症か、少し頭が痛む。
「あなたが私を……」
「はい」
「弓も使えるとは……」
「一応、ね。それほど得意ではありませんが」
リースは寸前のところで、アレックスの放った矢によって救われたのだ。あの矢の先に付けられていたアンプルがグリセラトプスの心臓に刺さったおかげで、彼女は今こうして生きている。
「見てはいけない秘密を見てしまった俺は、殺されますかね?」
薪に火をくべながら、アレックスがぽつりと冗談っぽく言った。確認するまでもなく、着ていた鎧や軍服は脱がされていて、傷の手当てがされていた。肩にも、厚く固定の包帯が巻かれている。母の形見のキールクロスが、胸元で揺れていた。
「命の恩人を殺したりしませんよ」
小さく笑ってから、諦めにも似た声音で、
「ありがとうございました」
と礼を言った。
洞窟と言ってもほんのくぼみ程度のものだが、入り口が低くなっているので雨は入ってこない。夜の闇の中、入り口に繋いであるアレックスの馬が、時々思い出したように尻尾を振っている。目の前で焚き火がされているが、晩秋の森の中はかなりの冷え込みだ。リースは、ぶるっと体を震わせた。
アレックスは、乾燥スープが入ったカップに熱いお湯を注いで、リースに差し出した。
そして、足下に丸まっている、今まで彼女がかけていた毛布を取り上げて、彼女の肩を抱くようにしてかけてやる。
「ありがとう」
「やはり随分と冷えるね」
「えぇ。この辺りは特に、標高も高いから」
カップを両手で包み込むようにして、彼女はスープを喉に流し込んだ。
二人はなるべく寄り添うようにして暖をとりながら、赤々と燃える炎を見つめている。
「聞いてもいいかな」
しばらく続いた沈黙の後、小さく裂いた乾肉を差し出しながら、アレックスはリースの瞳を見つめた。
瞳の中に薪の炎が映っている。
お互いに、その炎を見つめていた。
「どうして、騎士なんか?」
「あなたは? 王子のあなたが、なぜ?」
「一国の王が、なぜ?」
お互い質問に答えることなく、問いのみを繰り返し、そしてまた沈黙した。
パチパチと生木が燃える音がして、舞い上がった小さな火の粉が、闇の中へと溶けていく。
「守られるだけなのが嫌だから」
しばしの沈黙の後、ポツリと彼女が口を開いた。揺らぐオレンジの光が、彼女の表情を明るくも悲しくも照らした。
「誰かが、自分のために命をかけるのを、ただ黙って見ているのが嫌だったから。自分の手で、自分の国を守りたかったから。たぶん、同じ理由ではなくて?」
炎を見つめたままリサは表情を緩め、王子の方へと視線を動かした。
夜露に濡れた薔薇の蕾が開く瞬間はこんな感じかも知れない、とアレキサンドロスは思った。初めて会った夜から、並の騎士とは違うという予感があった。それは、相手がキール最強と謳われる白騎士だったからではなく、彼女だったからなのかもしれない。
「同じ、ですね」
アレックスも微笑み返した。この微笑みを受けたら、男でさえも恋に落ちるだろう、とリサフォンティーヌは思った。もしかして自分は、顔を赤くしているかも知れない。再び視線を逸らしながら、
「せっかくの誕生日なのに、こんなところで野宿とはね」
照れを隠すために、大きなため息をついた。
「今日誕生日なんですか。おめでとうございます」
「なんだか、今年一年、ろくな事がなさそうな気がします」
「確かに。誕生日のディナーが、非常食の乾肉じゃぁ、ろくなことなさそうですね」
炎の中に新たな薪をくべながら、アレックスも同情するような口調で言った。
「でも、あなたがいてくれて良かった。私一人だったら何も持っていなかったし、それに、」
グリセラトプスの背に剣を突き立てたまま、その背に乗ってここまで運ばれたのだ。荷物は全て馬の背に残してきた。
「それに、とっくに死んでいたかも」
倒れた時の記憶はないが、意識を失う前に解毒剤を飲めたとも思えない。彼が解毒剤を飲ませてくれたに違いない。
「ありがとうございます」
リサは視線を上げ、右隣のアレックスに感謝の微笑みを浮かべた。
チュッ
前触れもなく。
彼の右手が左頬を滑って、さりげなくキスが降ってきた。
「誕生日のプレゼントです。何もないより、ましでしょう?」
パチン
と。
薪がひときわ大きな音を立ててはぜた。
雨は一向に止む気配を見せない。
「また俺に、背中を預けていただけますか?」
体を寄せたカイザースベルンの王子の肩に、キール王は黙って身を預け、その肩に軽く頭を乗せた。
夜は深々と更けていく。