山小屋の夜
「うっ……」
苦しそうな声を上げて、ベッドの上の男が身じろぎした。
「気がついたか?」
ゆっくりと目を開けた男の目に、チラチラと燃える暖炉の炎が映った。
「まだ動かない方がいい」
ベッドの上の男は、少し首を回して声のする方を向いた。
「安心しろ。出血はひどかったが、傷は急所を外れていた」
そう言われてようやく、男は、自分が傷を負って森に倒れていたことを思い出した。確か脇腹をグリセラトプスの爪で引っ掻かれ…。気がついて右手を動かした。脇腹には厚く包帯が巻かれていた。右手にも肘まで包帯が巻かれている。
暖炉の前の椅子に腰掛けていたリースは、立ち上がって、ベッドサイドの椅子へと座り直した
「まだ縫ったばかりだ。動くと傷口が開くぞ」
「これは……あなたが?」
見れば、腹に幾重にも包帯が巻かれている。
「あぁ」
「…あなたは、医者…か…?」
「いや。見ての通り私は騎士だ」
言いながら、身を起こしかけている男に手を貸して、その背に丸めた毛布を挟み込んでやる。
「私はリース。リース・セフィールド。キール王国王宮騎士だ。心配いらない。無免許だが、傷くらいなら私にも縫える。緊急だったから、無免許も大目に見てくれるでしょう?」
そう言いながら、ベッドの上の男に左手を差し出した。
「リース・セフィールド? あの、薔薇騎士リース・セフィールド卿か?」
「私の名を知っている? 光栄ですね」
リースは驚きと共に、少し照れたような顔をした。
「あぁ……ドレイファス最強の騎士といわれるセフィールド卿を、知らないわけはない。随分、世話になってしまったみたいだな…。ではそちらはもしかして……ぐっ……」
リースの左手を握り返した男は、腕組みをして窓際の壁に立っているバルディスの方に体を向けようとして、痛みに顔をしかめた。
「無理をするな」
脇のテーブルから水筒を差し出しながらリースがいたわるような声をかける。
「すまない……」
苦しそうな声で礼を言って、男は水筒から水を一口喉に流し込んだ。
「彼はバルディス・レイ・ソート」
「やはりそうか。ドレイファスの鷲……そんな二人に助けてもらったとは…光栄ですな」
男は、バルディスのことも知っていた。最も、彼が言うように、バルディスとリースの名前は、騎士であれば少なくとも一度は耳にしたことがあるだろう。その噂がカイザースベルンにまで届いているとは思わなかったが。
「俺は…アレックス……アレックス・ライデル。カイザースベルンの者だ」
「アレックス・ライデル!? カイザースベルンの王子?」
リースは、振り返ってバルディスと視線を合わせた。
「ははは……知っていてもらえたとは光栄だな……」
アレックスは苦しそうに笑って、
「そう確かに、俺は、アレキサンドロス。カイザースベルンの元王子だ」
と言葉を続けた。
「元?」
「今の俺は名乗ったとおり、アレックス・ライデル。ただの王宮騎士ですよ」
「しかしその名は、カイザースベルン最強の騎士の名です」
「光栄だが、こちらはちっともうれしくはない状況だな」
「生きていたことを、もっと喜んでもらいたいですね」
自嘲気味に言った怪我人に対して、リースは苦笑を浮かべた。
「あぁそうだな」
アレックスは噛みしめるように答えて辺りを見回した。質素な作りだが、そこは森の中ではなく室内だった。暖炉の炎が、ゆらゆらと天井に揺らぐ影を作っていた。
「ご心配いりません。あなたのお連れの方は、今頃グランヒースの街の病院に着いている頃です」
アレックスの手元から水筒を受け取ってリースが柔らかな声で言った。
「グリセラトプスの毒にやられていましたが、怪我は大したことはない。あなたよりは随分と軽傷でした。何があったかは知りませんが、随分と無茶をしたようですね、あなたは。出血がひどくて、ここで縫うしかなかった。この村には、医師はいませんからね。後で、カイザースベルンの王室からお咎めを受けたら、少しはこちらの援護もして下さい」
言いながら、ずり落ちた毛布をアレックスの体にかけ直す。
アレックスは改めて、傍らで声をかけてくれる人の顔を見た。
炎を背にして座るその顔は、頬にかかる髪の影になって良く確認できなかったが、整った鼻筋と、炎を受けてキラキラと輝いている瞳が美しかった。
「ご心配いりませんよ。リース様の腕は、そこら辺の医師より遙かに優れています」
部屋の片隅から別の声が聞こえた。
「彼は、ティーダ・ドゥース。薬師です。彼が麻酔薬を調合しました」
リースの説明に、ティーダは立ち上がって深々と頭をさげ、にこっと親しみやすい笑顔を作った。
「カイザースベルンは同盟国です。身の安全は保証します。ただ、何があったかは聞かせてもらわないといけません。陛下にご報告致さねばなりませんから。カイザースベルンの王子が自国で瀕死の重傷を負われたとあっては、外交問題にも発展しかねませんからね」
「国には……カイザースベルンには?」
「まだ連絡はしておりません。不法入国か亡命か…はたまた国の意向かどうか分からなかったのでね」
「そうか。それは助かる。醜態がばれなくて良かった」
一瞬張りつめた空気を、アレックスの浮かべたほほえみが穏やかにした。額に巻かれた包帯に軽く手をやりながら浮かべたそのほほえみは、リースの心を捉えるのに十分な役割をした。
「おかしな人ですね。普通こういう時、無事だったことを家族に伝えて欲しいとか、真っ先にそういうこと言うものでは?」
命の危機を乗り切った男の台詞とは思えなくて、思わずリースは吹き出してしまった。
「まぁとにかく、何があったかを、お聞かせ下さい」
ベッドの上の男に親しみやすさを感じたリースは、椅子に深く腰掛け直した。
「あぁ、そうですね」
アレックスは、とつとつと、あの森で起こった出来事を語りはじめた。
「俺達は国境の町エーデルバッハに向かっていた。10日ほど前から、エーデルバッハ近郊の森で、見たこともない巨大な化け物を見たという目撃情報が相次いでいたからだ。昨日の朝早く、俺達はメイヤーリンゲンを出て、エーデルバッハに出発した。昼過ぎだ。街道の途中で、一人の猟師が倒れていて、そして死んだ。正確には、殺されたと言うべきかもしれない。グリセラトプスに引っ掻かれて。俺の軍服の右胸のポケットに、彼の腕から抜いた、奴の歯が入っている。よかったら、ちょっと見てくれないか」
「ティーダ」
リースが声をかけると、ティーダが立ち上がって部屋を出て行った。
「あり得ないくらい、太くて鋭い歯だった。彼は、森に入ってグリセラトプスに出くわしたんだ。俺が見つけて駆けつけたとき、もう虫の息だった。だが死ぬ間際に言ったんだ。グリセラトプスに、羽が生えていた、と」
「グリセラトプスに、羽?」
窓際から、低い声が響いた。それに小さく頷いて、アレックスは話を続けた。
「確かに生えていた。おぞましい、羽のような物体が。滑空するくらいの能力は、充分持っていた」
「見たのですか? 飛ぶところを」
「あぁ。少しだけ。丘の上から見ました」
リースは壁に寄りかかるバルディスを振り返った。眉間に深い皺を寄せて、いつになく険しい表情をしていた。
「奴が、森の中で目撃されていたっていう化け物だ。……我が国では、その化け物についての目撃情報が上がってきた段階で、キールとの合同調査を実施する計画を立てていた。目撃情報があったのは、ウキレイからエーデルバッハにかけて続く、この国境沿いの森に集中していたからです」
「なら何故、キールからの援軍を待たなかったのです? この地域の森のことは、我が軍の方が遙かに詳しい」
バルディスが夜の闇を纏ったような低い声で問うた。
「キール王に、状況を記した親書をしたため使者に持たせた。5日前だ。一昨日くらいには着いているはずだが、その後、急ぎの案件だし、王宮で返答を待つよりも直に相談に行った方がいいだろうということになって、俺が部隊を率いて国境の町エーデルバッハまで出てきた。その途中で猟師が一人殺されて、森の中からそいつの気配がした。だから俺達は、先に森に入ったんだ」
「5日前に親書?」
バルディスは鋭い視線をリースに送っていた。お前は聞いていないのか? 彼の視線は責めるような力を持ってリースを射ていた。
リースは、バルディスから視線を外し、
「出がけに、カイザースベルンから早馬が来ていると門番が言っていたような気がするな」
あいまいな伝聞調の返答を返した。
「おおかた、陛下は見合いの話だとでも思ったのでしょう。ここのところそればかりでしたから」
ちらっとバルディスの顔を仰ぎ見て、
「そう責めるな」
と、小さく呟いてすぐに視線を逸らせた。
「リース様。持ってきました」
ティーダが戻ってきて、アレックスの軍服をリースに差し出す。
「これが、グリセラトプスの歯?」
ポケットから取り出した歯を手のひらに乗せる。二等辺三角形をした歯は、5センチほどの大きさがあり、鋭利な、のこぎりの刃のように細かな突起が両側についている。
「普通のグリセラトプスの倍はあるぞ」
受け取ったバルディスも、尋常ではないそのサイズに驚きを隠しきれない。
「部隊の他の兵士はどうしました? まさか全滅ですか?」
「いや。無事に着けていれば、まだエーデルバッハに駐屯しているはずだ。森に入ったのは俺とフレデリックだけだから」
「そんな危険な獲物を追って、たった二人で森に?」
信じられないという顔で、ティーダが、思わず声を上げた。
「俺達は、メイヤーリンゲンの街から、市民を何人か連れてエーデルバッハまで移動していた。彼らを無事に送り届ける義務もあった。それに、部下を無駄に危険には晒せない」
「しかし、相手は遺伝子組み換えをされた化け物かもしれないのですよ。そんなモンスターの追跡に、立った二人で挑むなんて馬鹿げています!」
自分の常識を外れた答えに、少年はつい声を荒げた。
「ティーダ」
少年の暴走を、リースの声が穏やかにたしなめる。
「も、申し訳ありませんでした」
相手がカイザースベルンの王子だということを思い出したのか、ティーダは深々と頭を下げる。
「危険だと思ったから、俺は部下をおいてきたのだ」
「だが、リースが、上空を舞うユレキニアの騒ぎ方が異常だと気がついて森に入らねば、あなたは死んでいたかも知れない」
グリセラトプスの歯をサイドテーブルの上に置きながら、バルディスが危険な状況だったことを再認識させる。
「だったらなおさらだ。部下を連れてこなくて良かった。俺は部下を、勝ち目のない危険な場所に連れて行きたくはない」
その言葉にも、アレックスは揺るぎない信念を持って力強い声で答える。
ついさっきまで死にかけていた怪我人の出せる声ではなかった。
「ふっ。無謀なところは、うちの誰かさんと同じようですな」
半ば呆れたような顔で、バルディスが相好を崩した。気むずかしいバルディスも、すっかり彼の人柄を気に入ったようだ。
「『無能』と言われなくて良かったですよ」
リースはそう冗談を言って、
「ね?」
と肩をすくめてアレックスに微笑みかけた。
「それにしても……やはりな」
遺伝子組み換え体と聞いても、アレックスは動じなかった。それどころか、探していた答えを見つけたかのように視点を集中させた。
「知っていたのですか?」
リースの問いかけに、「あぁ」と、アレックスは小さくうめいた。
「まぁ、やりあってみて初めて、確信したんだが」
「どの程度の大群だったのですか?」
「いや。俺達が見たのは3匹だった」
「3匹? たった3匹?」
本来、グリセラトプスはそれほど大型の動物ではないし、獰猛な動物でもない。通常1メートルくらいになり、時々2本足で立ち上がったりもするが、猟師にさえも簡単に仕留められる程度の生物だ。ただし、ほとんど食用にはならないために、狩りの対象となるようなことはない。自衛のために有毒な唾液も出すが、解毒剤は普及していて、森に入る猟師は大抵は常備しているはずだ。猟師の弓ですら簡単に倒せるような動物だ。それがたとえ一度に3匹出現したからとはいえ、カイザースベルン最強といわれる騎士が相手になって倒せないわけがない。
「殺ったのですか?」
「いや、逃げられた。恐らく。みんな生きている」
「そんなバカな!? だってあそこには、かなりの肉片が散乱していました。あれだけの出血をしていたら、生きているはずは……」
「え? なんです?」
ティーダの言葉に被せられるように発せられた言葉をもう一度聞き出そうと、リースが身を乗り出した。
「GMだ……。やつらは普通のグリセラトプスの3倍はあった。それに、自ら攻撃を仕掛けてくるほどに獰猛だった。そして何より、傷をものすごい速度で修復できた」
「そんな、バカな……」
最も信じたくない言葉を突きつけられて、ティーダの顔からさぁっと色が引いた。
「不死身の生物、か」
「カイザーベルンの獅子、サー・アレックスともあろう方が仕留められず、それどころか瀕死の重傷を負わされたのです。あり得ぬ話ではありませんよ」
ベッド脇に立ったままのバルディスが、リースの視線に低い声で答える。
「あぁ。ウキレイからの報告とも一致する」
「ウキレイからの報告?」
今度はアレックスがリースの顔を見上げた。
「私達は、ウキレイからトリステルを経由してこの村に来ました。ウキレイの街に、交易商人に混ざって、遺伝子組み換えのモンスターの受注契約を結ぼうとしている輩が紛れたという情報で調査をしていたのですが、結局、街中を探索したのですが、すでに街にはそれらしい連中はいなかった」
リースの説明が切れたタイミングで、バルディスが、机の上に置かれた鞄の中から一冊のファイルを取りだしてアレックスに差し出した。
「これは…」
「海岸で見つかった遺伝子組み換え処理がされたと考えられた魚類です。リュウマトクスと、バラトゥーダの特徴が掛け合わされています。解析の結果、GMモンスターに間違いなく、組み換え率は実に80%を超えていました。自然交配によるものではない。しかも、急ごしらえで行われたことでもありません」
「あのグリセラトプスが、GMモンスターかも知れない、っていう話、あながち絵空事とも思えなくなってきたってわけか…」
「そういうことです」
低い声で応じながら、リースはギリッと奥歯を咬んだ。
「殿下。あなたを明日、グランヒースの病院へお連れいたします。本国にお帰りいただくにしろ、この怪我では少し休まれた方がいいでしょう」
「待ってください、セフィールド卿」
立ち上がったリースをアレックスが呼び止めた。
「これから、どうするんです? 追うのですか? やつらを」
「えぇ。遺伝子組み換えされた危険なGM生物を野放しにしておくわけにはいきませんからね」
「それなら、俺達も……」
「事の次第を、王にご相談申し上げます。動くとしてもその後です。ご心配いりません。そちらを無視して進めたりは致しません」
「すまない」
アレキサンドロスは、痛みに顔をしかめながら礼を言った。
彼をティーダに任せて二人は部屋を出た。
*****
「さて。どうしますか? 陛下」
二人部屋の自室に戻ると、バルディスが小声でリースに呼びかけた。
「なにはともあれ、イリアの所に送ったあの肉片の、解析結果を待たないといけないな。その上で、対策を立てなくてはいけない。早急に」
暖炉の薪が、パチッと大きな音を立てた。
現場に飛び散っていた肉片と血液のサンプルは回収させ、すぐにトリステルに送らせた。早ければ明日の午前中には解析に入ってくれるはずだ。
パァッと舞い上がったその火の粉を睨みながら、リースの瞳は、王宮騎士から国王のものへと、その輝きを変えていた。
「私は、一旦城に戻ろう。民間人が不用意に森に入らないように警告を出す。東部方面軍には、森の周囲の街道の警備を徹底させよう。ニックは、既にゴッティスバーグに入っているな。ラムズバルトに向かったアランにも、その旨、指示してくれ。グランヒース本隊の指揮は任せる」
「はい。アレキサンドロス殿下のことはどうします?」
「どちらにしろ、あの傷では1週間は動けまい。こちらも、敵がGMモンスターとなれば対策を立てねば太刀打ちできない。1週間くらいは動けないだろう。その間に、直接、彼と作戦会議でもするさ」
コーヒーを口に運びながら、その先のことを考えていた。
GM生物を持ち込んで森に放した。その理由は何だ?
「やはり狙いは龍の涙か……それとも、国を追われた事への復讐か?」
生態系を攪乱して生活圏を脅かす。それによって国を乗っ取るつもりなのか? それとも、神話に言われるように、『龍の涙』を手に入れてこの世界そのものを手に入れようとしているのか。
「ドラゴンズネストへの警備を強化させます。アラン達もその間に、なにか情報をつかむかもしれません」
「えぇ」
リサフォンティーヌは、別動部隊を指揮してグランヒースからラムズバルトに向かったアランに期待をしつつ、大きなあくびをした。
「疲れたのでしょう。もうお休み下さい。トリステルから移動ばかりで、しかも、難しい縫合までされたのです」
抑えた声は、二人きりの時はあくまでも丁寧だった。
「そうだね……そうさせてもらおうかな」
リサも口調を整えて軍服とブーツを脱ぐと、そのままベッドに倒れ込んだ。
だいぶ疲れていたのだろう。信頼するバルディスが傍らにいるからか、リサは、すぐにそのまま眠りに落ちた。
椅子の上に脱ぎ捨てられたままになっている軍服をハンガーに掛けながら、
「全く。軍人にあるまじき行為ですよ」
と、バルディスは愚痴をこぼした。それから、
「そんなに無防備に眠っていると、襲われてしまいますよ。姫」
疲れ切って深い眠りに落ちている主の上に、ふわりと毛布を掛けてから暖炉に数本薪をくべた。
山間部の村の夜は、まだ秋だというのに深々と冷えていた。