プロローグ
細い月が東の空にかかっていた。
辺りは不気味なほどに静まりかえった闇の中で、ただ、荒々しく岩に砕ける波の音だけが規則正しく響いている。
それは、悪魔の咆吼にも似ていた。
波の音を押しのけるようにして、低い獣のうめき声が岩場にぶつかった。
「おい、気をつけて運べ!」
「「へい」」
ドスの利いた男の怒号が飛び、細い渡し板の上でバランスを崩しかけていた複数の男達が、低く応える声が聞こえた。どの男もみな大男で、太い腕に盛り上がるほどの筋肉がついているのが、服の上からでも見てとれる。
自然の入り江になっている狭い岩陰に泊められた小さな漁船から、巨大な木の箱が3つ。男達の手によって次々に砂浜を運ばれていく。
グルルルル〜
箱の中から低い音が漏れてきて闇に溶ける。全身の血を、一瞬で凍らせるようなおぞましいうめき声。その声が漏れるたびに、近くにいる屈強な男達が、ビクッとそちらを振り返る。
「ご苦労だったな」
砂浜で腕組みをして彼らの作業を見つめていた小柄な男が、リーダーらしい先ほどの怒号の主に声をかける。
「遅くなってすいません。ギルバートの旦那」
体格では明らかに優位に立っている海の男は、不釣り合いなほどに丁寧な言葉遣いで、小柄な男に頭を下げた。商人風のその男は、くわえていたタバコを足下に投げ捨てた。
「起きてしまったみたいだな」
岩場を運ばれていく木箱を目で追いながら、ギルバートは低い声で言った。頑丈な作りの木箱は、一端に金属の柵がはめ込まれていて、不気味な声はその隙間から外へと零れてきていた。
「えぇ。思ったより波が荒くて、ここにつけるのに手間どっちまいまして。こいつを。こいつを打てば、また眠らせられるそうです」
「そうか。ご苦労だったな。博士によろしく伝えてくれ」
男から薬の入った木箱を受け取って、代わりにその手に、ずしりと重い麻袋を握らせる。
「こりゃどうも」
受け取ったばかりの袋を少し右手で掲げる。
「では俺らはこれで」
金貨の擦れる音に、男は、満足そうな笑みを浮かべた。男達は再び船へと戻り、夜の波の中を沖へと離れていった。
ギルバートは彼らの去る姿を見送ることもなく、自らの仲間に出発の合図を出していた。先ほどの大きな木箱を乗せた3台の荷馬車には幌がかけられ、ゴトゴトと音を立てて砂利の多い道を山の手の方へと動き出した。
空にかかった細い月の横では、火星が赤い光を放っていた。