今、目覚めの時 7
* * *
ハアッハアッハアッハアッ……!
(何の……音だろう?)
ハアッハアッハアッハアッ……!
これは――あたしの、呼吸の音?
あたしは、真っ暗な道を走っている。
いや、道なんかじゃない。
周囲は、暗い竹林。
真っ白な手が、あたしを手を引いて、飛ぶように走っていく。
(駄目だよ、母さま)
あたしは不意に、ものすごく嫌な予感にとらわれた。
(そっちへ行っちゃ、駄目だよ)
怖いよ、母さま。
そっちには、何か、嫌なものがあるの――
気がつくと、あたしたちは立ち止まっていた。
竹林の中にぽっかりと円く開けた、舞台にも似た、空き地。
暗い夜空。星も見えない。
ざあっと風が吹いて、竹の葉をかき鳴らす。
あたしは、ぎゅっと母さまの着物の袖を握った。
「下がれ!」
鋭い母さまの声。
その声は、あたしに向けられたものじゃない。
母さまは、あたしを見ていない。
シャーン……と鞘鳴りの音が響いて、母さまが刀を抜いたのが分かった。
あたしは、がたがたと震えていた。
母さまが刀を抜くのを見たことはなかった。
「オロかなオンナよ」
笑っているような声がした。
あたしは、震えながら、母さまの袖の陰から顔を出した。
夜の暗さに溶けてしまうような、黒い服。
黒い服を着た――男の人たちが、何人も――
闇の中でもはっきりと浮かび上がって見えるのは、抜き身の刀。
そして、白いキツネの面。
「セイナ・ヒエンよ、オンナのホソウデで、ワレらにテムかおうとでもいうのか?」
「無論!」
母さまの声も、震えている。
あたしにはそれが分かった。
でも、母さまの身体は震えていない。
壁のように立ちはだかって、あたしを守っている。
「オロかな」
黒い服の男の誰かが、そう言って笑った。
「スナオにワレらにシタガえば、ケガをせずにスむというのに」
「そうして、わたくしどもを人質に、兄のリュウゴに無体を迫るつもりであろう!」
「はは、ムタイとな? ナニがムタイか。
チョウボのカきカえなど、どこでもやっていること。
それを、オノレだけがセイギヅラして、トノにジキソしようなどと――」
帳簿の書き換え――
殿に直訴――
(あいつらの、言ってることが、分かる……)
あのときは、分からなかったことが、今は、分かる。
あたしは、ぎゅっと母さまの着物の袖を握った。
ダメ、ダメだよ、母さま。
あいつらに逆らっちゃダメ。
そんなことをしたら……
恐ろしいことが、起こるよ……
「どこまでも腐りきったことを!」
母さまが叫ぶ。
「わたくしはヒエンの女、そなたらのような下種の思いのままにはならぬ!」
「威勢の良いことだ」
「我ら相手に斬り死にするか?」
男たちの言葉に、母さまは、刀をまっすぐに構えて怒鳴った。
「覚悟の上だ!
人質の身に堕ち、兄が正義を行う足枷となるならば……
武家の女子の誇りにかけて、戦いに果ててみせよう!」
「ほう。その娘を、道連れにするのか?」
男のひとりがそう言った。
母さまの脚が、石のようにこわばる。
母さま、母さま……
あたしは、死にたくないよ……
母さまが死ぬのも嫌……
一緒に、逃げようよ、一緒に……
「逃げるのです、アニータ」
急にぐいっと肩を押されて、あたしはもう少しで地面に転びそうになった。
母さまは、あたしを見ていない。
あたしに背中を見せて、刀を構えたまま、母さまは叫んだ。
「逃げなさい、アニータ!」
「嫌!」
あたしは、母さまの脚にしがみついた。
嫌、嫌、嫌。
母さまと、離れたくないよ!
「アニータ! いけません、逃げなさい! 母さまが、ここを食い止める――」
「できるつもりか、馬鹿めが!」
「あくまでも逆らうのならば、力ずくで連れてゆくまでよ」
黒衣の男たちが嘲笑う。
「手足の腱を斬れば、逆らうこともできまい……」
ひとりが、じりじりと近付いてきた。
嘘、嘘、嘘だよね。
嘘だよね、こんな――
「イヤァ!」
黒衣の男が吠えて、大上段に刀を振りかぶり――
「慮外者ッ!!」
母さまの鋭い叫び――
ざしゅうっ。
母さまの身体がぐうんと動き、ぎゅっと抱きついた脚を通して、奇妙な感触が伝わってきた。
刃が人の肉を斬り、骨を断つ感触。
嘘だよね。
こんな、こんな、こんな――
びしゃっ、と生暖かいものが顔に跳ねかかってきた。
血のにおい。
黒衣の男が、あたしの足元に倒れこんでくる。
その胴は、真っ二つになっていた。
あたしは、絶叫した。
「逃げなさい、アニータぁあっ!」
母さまが、あたしを蹴飛ばし、振り払った。
あたしは地面に転がり、夢中で唾を吐いて、泥と血を口の中から追い出そうとした。
嘘だ、嘘。
これは夢、これは夢、これは夢――
「この!」
男たちが母さまを取り囲む。
あたしは、その様子を見つめていた。
これは夢、これは夢、これは夢――
母さまの袖がひるがえって、刃と刃がぶつかり合い、暗闇の中に線香花火みたいな火花が散る。
何度も、何度も。
ああ、きれいだな。
今年も、もう少ししたら、母さまと、線香花火を――
ギィン!!
母さまの手から、刀が跳ね飛ばされる。
くるくると回って、夜空に、弧を描く――
どっ。どっ。
同時に、突き出された、二本の刀が。
母さまの身体に突き刺さった。
きっと、これも夢なんだ。
母さま……
「あ、アニータ」
母さまの黒い目が、あたしを見つめる。
「……逃、げ……」
嘘だよね。
母さま。
母さま……
ずるり、と、刃が抜かれた。
傷口から、血が噴き出て、母さまの身体が、ゆっくりと倒れ込む。
あたしは、叫んだ。
母さま。
嫌だ。
あたしは――
「静かにしろ!」
黒衣の男のひとりが走ってきて、あたしの顔を殴った。
あたしは丸太が倒れるみたいに地面に倒れた。
血の味がする。自分の血の味が。
泣きたくなった。
どうして……
どうして、あたしたちが、こんな目に――
「立て!」
あたしを殴った男が、乱暴に襟首を掴んで引きずり起こそうとする。
でも、あたしはすぐに、もう一度地面に投げ出された。
「馬鹿めがっ!」
駆け寄ってきた、黒衣の男のひとりが、あたしを捕まえた男を、思い切り殴りつけたからだ。
「なぜ、女を殺した! 人質として、生かして連れ帰る手筈だったろう!」
「しかし! ハンザが斬られたのですっ。生かしておくわけにはっ!」
「最後に思い知らせてやればいいだけのことであろう、分からぬのか!?
なぜ、今、殺した! リュウゴを脅すための人質はどうするのだ!」
「このガキを使えば――」
「阿呆が! このガキでは、人質の用をなさん!
この髪を見ろ、ヒエンの家の鬼子だ。リュウゴは見捨てるだろう。
こいつに、人質としての価値などないのだ!」
ああ、ああ、ああ。
あたしは、泣きたくなった。
あたしは要らないんだ。
ヒエンの家の人たちにも、こいつらにも、あたしは、要らないんだ。
母さまは、いつも、あたしが要るって言ってくれた。
でも。
その母さまは、もう――
「は……」
泣きたいな。
死にたくない。
こいつらの言う事を聞けば、殺されないのかな……
でも……こいつらは……母さまを……
こんな、奴らに……
「……はぁ……」
泣きたい。
涙でかすんだ視界の中に、母さまの手から跳ね飛んで落ちた刀が映った。
「まだ、手はあります。セイナが生きていると、リュウゴに思わせることができれば」
「そうです、死体を持ち去れば……」
「このガキはどうします?」
「何かの役には立つだろう、連れて行け!
お前たち、すぐに死体を運ぶのだ!」
こんな奴らには、絶対に、負けちゃ、いけない。
泣きたかった。
「は……はははははははははは」
男たちが、いっせいにこっちを見た。
本当に、泣きたかった。
でも、あたしは笑っていた。
母さまの刀を掴んで。
なんて奴らなんだ。
母さまを殺した。
あたしの大事な、大事な母さまを。
………この………
「あはははははははははははは!!」
「な、何だ」
「狂ったか?」
「ま、待て! 何だ……!?」
……許さないよ。
あたしは、今までにない力が身体中を巡るのを感じていた。
きらきら光る、小さな星屑のようなものが、あたり一面に見える。
それがあたしの周りに、どんどん集まってきた。
あたしの体と、あたしが握りしめている母さまの刀が、強烈な光を放ち始める――
カッと、お腹の底が熱くなる。
まるで、燃え盛る炉の蓋を開けたときみたいに。
その熱はどんどん高まって、あたしの心と身体とを呑み込んだ。
『まあ、なんて髪の色なんでしょう、まるで火の色だよ』
『禍々しい色……きっと災いを呼ぶよ』
『火事を呼ぶ子だ』
『恐ろしい……』
そうだ――
あたしは、火。
狂気の火、復讐の火、滅びの火。
「ば、化け物……」
ああ……今、何て言ったの?
「ユルサナイ……」
言葉は火。憎しみの火。
ぼっ。
「ぎゃあああっ!?」
あたしが切っ先を向けた先で、男のひとりが、真っ白な炎に包まれた。
周りの男たちが悲鳴を上げて、一斉に飛びのく。
炎に包まれた男は、生きた松明みたいにちょっとだけばたばたして、すぐに燃え尽きてしまった。
ああ、残念だな……
もっと、もっと、もっと……
「アハハハハハハハハハハ!!!」
「お、おのれ……」
黒衣の男のひとりが、刀を振りかぶって近づいてくる。
「死ぬがいい!」
狂気のような絶叫。
黒衣の男は右手を振りかぶり、あたしに向かって振り下ろした。
あたしは、そいつに笑いかけた。
ゴウッ!!!
超高温の炎が、男の姿を黒い影に変え、跡形もなく消し飛ばす。
「シネエェェェェェェェェェェ!!」
切っ先から噴き出した火炎は輝く大蛇になって、逃げ惑う男たちを片っ端から薙ぎ払い、一握りの灰に変えていった。
あたしの炎が触れた竹はみんな一瞬にして白い燃え殻になり、地面は溶けてガラスになり、夜空は赤く染まって輝いた。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
ああ、何て気持ちがいいんだろう。
あたしは火、怒りの火。
あたしに逆らうあらゆる者、全て灰となるがいい。
あたしは火だ! 破壊と殺戮の火!
死ね! 滅びろ! 燃えてしまえ!
「………アニータ………」
え?
「……カアサマ……?」
燃える、燃える、炎の中で――
火の明かりに照らされて、いっそう真っ赤に輝く、血溜まりの中で――
黒い華のように広がった髪、白い肌。
「駄目よ」
母さまの、赤い唇だけが、そう言った。
「憎しみと、恐怖、に、呑まれては」
それは、本当に母さまの声だったのか。
それとも、幻だったのか。
母さまは、それきり、何も喋らなかった。
あたしは――
長いあいだ、動かなくなった母さまを見つめていた。
「カア……サマ……?」
……どう、しよう?
あたしは……これから、どうすれば、いいの?
ああ、ああ。
そうだ。
あたしは、眩い光に包まれた素足で、ゆっくりと母さまのほうへ近付いた。
そうだ。
母さまを、あたしたちのお家に、連れて帰ってあげなくちゃ……
あたしは真っ白な輝く腕で、母さまをそっと抱きかかえた。
母さまの身体が、光に包まれる。
そして、母さまは、白い、一握りの灰になって、あたしの腕の中から零れ落ちていった。
あたしは、泣いた。
泣き叫んだ。
その声は火に変わり、天を焦がし、地に広がって――




