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帝国魔術学院!  作者: キュノスーラ
第七章 そして、記憶の旅路へ――
25/43

そして、記憶の旅路へ―― 5

「こちらですわ」


 案内されたリリスさんの部屋は、あたしたちの部屋とは違って、女子寮の三号棟――通称《七つ星館》にあった。

 今はほとんどの人が食堂か本館のほうにいるみたいで、寮の中は、ひっそりと静まり返ってる。

 がらんとした廊下に、まったく人の気配がなくて、ちょっと不気味だ。

 まあ、部屋の中では、ぐーぐー寝てる人がいるかもしれないんだけどね……


 やがて、リリスさんは、ひとつの扉の前で立ち止まった。


「ここが、あたくしたちの部屋ですわ。今、中を片付けてまいりますから、こちらで少しだけお待ちになってね」 


「はーい」


 あたしとミーシャは廊下に並んで立ち、ひそかに視線を交わしあった。

 いよいよだ……

 ひとりだったら心細くなってたかもしれないけど、今は大丈夫。

 だって、ミーシャがついててくれるんだもんね。


「お待たせしました。どうぞ、お入りになって」


「はいっ!」


「――あらっ?」


 中からリリスさんに呼ばれて、勢いよく入っていこうとすると、後ろから、ミーシャが慌てたような声をあげた。


「あの、ちょっと、アニータさん~? 靴……」


「え? ――おっと!?」


 いけない、いけない。

 ヒノモトにいたときの癖で、ついうっかり、部屋の入り口で下駄を脱いじゃってたよ。

 こっちでは、ベッドにあがるときくらいしか、履き物を脱がないんだよね。


 こういう、ちょっとした癖って、なかなか抜けない。

 いつもは、出入りのたびにけっこう気をつけてるんだけど、今は、これからかけてもらう術のことで頭がいっぱいで、履き物のことなんて、まったく意識してなかったから……


「失礼しまーす」


 しっかり下駄を履いてから、あたしは改めて、居間に入っていった。

 間取り自体はあたしたちの部屋と同じなんだけど、敷物や、棚の位置、壁にかかってる絵なんかが違うもんだから、まったく違う部屋みたいに見える。


「同室の人たちは、よろしいんですの~?」


 尋ねたミーシャに、中で待っていたリリスさんは、ぐるっと部屋を手で示して、


「皆、出払っていますわ。気を遣わなくてもよろしいのよ」


 と、あっさり言った。

 見てみると――なるほど、確かに。

 ひとりひとりの部屋の扉に、表札がかけてあって『ロベリア 外出中』とか『えにぐま いまいねえ だれもはいんなよ』とか書いてある。


 そっか、こういう表札をかけておけば、同室の誰がいて誰がいないか、一目で分かるってわけだね。

 ちょっといいアイデアかも!

 でも、今あたしと同室なのは実質ミーシャだけだし、あたしたちはほとんどいつでも一緒に行動してるから、あんまり意味ないかもしれない……


「さ、こちらが、あたくしの私室ですわ。どうぞお入りになって」


 リリスさんが開けてくれた扉をくぐり、あたしたちは、彼女の部屋に入っていった。

 扉をくぐった瞬間、


「ん……?」


 あたしは、くんくんと鼻を動かした。

 フッと感じた、煙たい、けれども甘い香り。

 見ると、隅に据え付けられた机の上で、香炉が焚かれていた。

 糸みたいに細い煙が、いくつもの筋になって、ゆらゆらと立ち上ってる。


 もしかして……いつもリリスさんから感じるいい香りって、これの移り香かなぁ?

 こっちのほうが、ずっと香りが強いから、はっきりとは分からないけど。


 お香は、精神集中の助けになったりもする、儀式には欠かせないアイテムだ。

 それを常備してるなんて、さすが、精神系の術を得意とする人だよね。

 でも……こんなところでお香なんか焚いてると、しばらくしたら、息苦しくなってきそうだなぁ。


 あたしのところとまったく同じつくりの、めちゃくちゃ狭い部屋。

 いや、すごくきっちり片付いてるんだけど、もともとが狭いからねぇ。

 リリスさんとあたし、そしてミーシャが立っただけで、ベッドの横のスペースは、ほとんどギリギリいっぱいだ。


「え~と……」


 リリスさんにぶつからないように身体をひねりながら、ミーシャが言った。


「わたし、居間に出てたほうが、いいですよね~?」


「ああ、ごめんなさい、そうしてくださると助かりますわ」


 申し訳なさそうに、リリスさん。


「《記憶遡行》を行うためには、特に深い精神集中が必要ですから、それを助けるために、大きな身振りをつけなくてはなりませんの」


「扉は……開けていても~?」


「ええ、構いません」


 ちょっと遠慮がちに尋ねたミーシャに、リリスさんは、こともなげに頷いた。


「ただし、申し訳ありませんけれど、声や物音を立てることは、絶対に慎んでいただきたいですわ。集中が乱れると、術が失敗する元になりかねませんもの」


「もちろんです~」


「えっ……失敗することって、やっぱり、あるんですか?」


 思わず尋ねたあたしに、リリスさんは笑って、


「大丈夫ですわ! あたくし、腕は確かですもの。だいたい、失敗するか成功するか分からないような術を、他の方にかけたりなんかしませんわ。それで、もしも相手の方に後遺症が残るようなことになったら、評議会からの相当に重い処分を覚悟しなくてはなりませんもの」


 後遺症、かぁ……

 いや、でも、大丈夫だよね。

 絶対にまずいことにはならない、っていう自信があるからこそ、ミーシャが同席することも許してくれたんだろうし。


「それでは、アニータさん」


 リリスさんが、改まった調子で、あたしのほうに向き直った。


「このベッドに、横になっていただけますかしら?」


「えっ?」


「《記憶遡行》をかける際には、ほとんど意識がない状態になりますから、横になっていらっしゃらないと、倒れたりして危険なのです」


「あ、なるほど……それじゃ、ちょっと失礼して……」


 下駄を脱いでベッドに上がり、指示された通りに横になるあたし。

 こんなふうに、人が見てる前でベッドに寝てるのって、何だか妙な感じで、落ち着かないなぁ。


「緊張なさらないで、アニータさん」


 リリスさんが、穏やかな調子で言った。


「さあ、あたくしの言葉に、身体のリズムを合わせて……

 ゆっくりと、深く、息を吸って……吐いて……」


 あたしは、いいにおいのする空気を胸いっぱいに吸い込んで、吐き出した。

 もう一度。

 もう一度。

 もう一度……

 深い呼吸を、何度も繰り返してるあいだに、だんだん、緊張がほぐれて、気分がゆったりしてきたような気がする……


「さあ、アニータさん……」


 あたしの顔の前で、ごくゆっくりと、何かをかき混ぜるような仕草をしながら、リリスさんが言う。

 彼女の話し方には、普通のときと違って、独特の抑揚がついていた。

 まるで子守唄でも歌っているように、優しくて、安心できる感じ……


「まぶたが、だんだん重くなってきましたわね?

 そのまま、ゆっくりと、目を閉じて……深く、深く、息をして……」


「ん……」


 目を閉じて、深い呼吸を、繰り返すたびに。

 身体が、だんだん、重くなってくる。


 同時に、ふわふわと浮かんでいるような不思議な感じもした。

 不快な感じじゃなくて、眠りにつく直前みたいな、心地好い感覚。


 リリスさんの声が、徐々に、徐々に、遠ざかって――



 そして、あたしは、記憶の深みへと沈んでいった。




     *    *    *




 そこは……青かった。

 まぶしかった。


 振り仰げば広がる青は、空の青だ。

 昼間の鳥も行かない高みを、いくつもの真っ白な雲が、強風にちぎれ飛びながら東を目指している。

 父さまの、お国がある方角を。


 見下ろせば広がる青は、海の青だ。

 真っ白な波しぶき、海面にきらめく陽光の反射。

 まるで、鏡を砕いて浮かべたみたいだ。


 小さく左に傾き、そして今度は右に傾く甲板を、あたしは、とててててっと走った。

 揺れる足場もまったく気にならない。

 こうして船に乗るのは、初めてじゃなかった。


 ヒノモトの船とは違う、四角、三角の帆をいくつも組み合わせて風をとらえる、大きな帆船。

 リオネス帝国の船――

 父さまの国の船だ。


「とーおーさーまー!」


 呼びかければ振り返る、まぶしいほどの笑顔。


「おう、アニー!」


 そうだ。あたしをこう呼んでくれる、ただひとりのひと――


「父さま」


 がっしりとした脚に抱きつくと、いつも、同じ匂いがする。

 葉巻と、お酒と、潮風の匂い。

 強い腕が、ぐうんとあたしを持ち上げてくれる。


「おおっ、アニー! 前よりも、ずうっと重くなったな!」


「はい!」


 だって、父さま。 

 この前に会ったのは、一年以上も前なのだもの。

 でも、それは、仕方がないこと。

 父さまは、父さまのお国の「かいぐん」――ヒノモトでいう「すいぐん」――で、大事なお仕事をしていらっしゃるから、とってもお忙しいの。


「ねえ、とうさま。このおふねが、とうさまのおふねなのですか?」


「はっはっは、いや、違う。父さまの船は、もっと大きくて、強いんだ」


「それ、いつ、みせてくださるのですか? ねえ、いつ?」


「うん、それは、また今度な!」


「とうさま、まえも、こんど、っておっしゃいました!

 ねえ、いつみせてくださるのですか?」


「はっはっは、今度だ、今度!」


 ――ああ、そうだね、父さん。

 父さんはいつも、貿易のためにヒノモトを訪れる商船に乗って、あたしたちに会いにきてくれる。


 そりゃ、そうだよね。

 リオネス帝国の軍人が、いくら友好関係にあるとはいっても、このヒノモトに、軍艦に乗ってくるなんてことができるはずがないもん。

 そのことが理解できたのは、もっと、ずっと、後になってからだったけど。


(え?)


 あたしは、父さまの膝に甘えながら、目を見開いた。  


(もっと……ずっと、後に……なってから)


 まぶしい世界に、ひびが入った。




「もう、ここには来ないで欲しいと、あれほど申し上げたではございませぬか!」


 あたしの前では絶対に見せることのない、切りつけるような口調。 

 あたしは息を殺して、ふすまの陰に隠れている。

 ふすまの向こうには、母さまがいらっしゃる。

 そして――あたしの「おじさま」が。



(あれ?)


 小さな、違和感。




「私と共に、屋敷に戻るのだ、セイナ! 父上と母上は、私が説得する」


「嫌です!」


 母さまの金切り声を聞くと、あたしは、たまらなくなって、涙が出てくる。

 母さまは普段、あんなふうに叫んだりする方じゃない。

 あたしは、あたしと母さまが暮らすこの家を、おじさまが訪ねてくるのが、嫌で嫌でたまらない。

 そのたびに、母さまがあんなふうになってしまうのだもの。

 あたしに心配させてはいけないからって、隠していらっしゃるけれど――

 あたしは、こうして、ちゃんと知っている。


「聞き分けるのだ、セイナ。今からでも遅うはない。

 父上と母上は、お前を許してくださるだろう……」


「ええ、わたくしのことは許してくださるでしょう、有り難くも、不肖の娘をね! ……けれど、あの子は!?」


 あたしは、心臓がきゅっと音を立てて小さくなるのを感じる。

 あの子。

 ――あたしのこと。

 真っ黒な髪、真っ黒な目の母さまから生まれた……

 真っ赤な髪に、みどりの目の子ども。


「あの子については……しかるべき身の振り方を、私が考えよう」


「どこの馬の骨とも知れぬ者のもとへ、養子に出すというのでしょう!? そして、無かったことにする気なのですね! まるで生まれてこなかったように、あの子のことを、居なかったことにする気なのでしょう!」


 涙が止まらない。

 あたしは、母さまたちに見つからないように、声を殺して泣いた。

 嫌だ、嫌だ、母さまと離ればなれになるのは嫌だ。



(あれ……?)


 徐々に大きくなる、違和感。


(変だな……母さんは……)



「わたくしは嫌です。わたくしは、異国の男を愛した。その方の子を生み、育てると決意したときに、ヒエンの家は捨てたのです。わたくしから捨てたものを、なぜ今さらに引き戻そうとなさるのです!? もう、わたくしたちに構わないでくださいませ!」


「愛した!? 間男のように通ってくるだけの男などが何だ! お前たちを、こんなあばら家に住まわせておいて、本国に呼び寄せもせぬ、そんな男のために、お前の一生を犠牲にするのか!?」


「それは、ラス様が、わたくしどものことを思ってしてくださったのです! あの方は海軍の軍人、わたくしどもを帝国に呼び寄せても、共に過ごすことができる時間は少ない。右も左も分からぬ異国で、心細い思いをさせるよりは、住み慣れた土地での暮らしを続けるほうが良いだろうと――」


「ふん、聞こえの良い男の都合だな! 水軍の荒くれの申すことなど……どうせ、あちらでは、お前たち母子のことなど忘れて、港の浮かれ宿でよろしくやっておるのだろう!」


 ばしん、と、鈍い音がして、あたしは、はっと息を呑んだ。


「取り消して下さいませ」 


 思わず、細くふすまを開ける。

 真っ黒な髪を結い上げた、青い着物の、女の人。

 母さまは、片手を振り切った姿勢のまま、真っ青な顔でおじさまを睨みつけていた。


「たとえ兄上といえども……ラス様のことを悪し様に申されるのならば、あの方の妻として、容赦はいたしませぬ」


「馬鹿者!」


 おじさまが怒鳴って、母さまを殴った。


「母さま!」


 あたしは、思わず飛び出していた。



(……あれ……?)


 巨大な違和感。


(変だな……母さんは、あたしを生んで、すぐに……)



 あたしを見下ろした、おじさまの顔が歪む。


「あやしの子よ……」


 真っ黒な髪、真っ黒な目のおじさま。

 真っ黒な髪、真っ黒な目の母さま。


 あたしは、違う。

 あたしだけが、違う――


「アニータ、何でもないのですよ! さあ、あっちへ行って、遊んでいらっしゃい……」


 あたしはぎゅっと母さまの着物の袖をつかみ、かぶりを振った。

 おじさまをじっと睨みつける。


 おじさまなんか嫌い! あっちへ行ってよ!

 あたしから、母さまをとろうなんて、許さない――!


「お前のせいで、セイナは……」


 呻いたおじさまの顔は、まるで鬼のようだった。


「呪われた子め! セイナは、お前のせいで家を追われた! お前が、私たちからセイナを奪ったのだ――!」


「違うわ! 違います、アニータ。おじさまは、今、ちょっとご機嫌が悪いだけなのよ。ほら、早く向こうに――」


「セイナ、戻るのだ!」


 おじさまが、母さまの腕を掴んで怒鳴る。


「お前を、このような場所に置いておきたくないのだ! お前も知っておろう、藩内に不穏の動きがあることを。このようなところでは、守りもままならぬ。

 ヒエンの屋敷に戻れ、セイナ。このような子どものために、お前の身を危険にさらすことはない!」


「嫌です!」



(あれ?)


 限界にまで膨れ上がった、違和感。


(変だな。母さんは――)



 それが、弾ける。



(あたしを生んで、すぐに、死んじゃったはずなのに――)




 ハアッハアッハアッハアッ……!



(何の……音だろう?)



 ハアッハアッハアッハアッ……!



 これは――あたしの、呼吸の音?


 あたしは、真っ暗な道を走っている。


 いや、道なんかじゃない。


 周囲は、暗い竹林。


 真っ白な手が、あたしを手を引いて、飛ぶように走っていく。


(駄目だよ、母さま)


 あたしは不意に、ものすごく嫌な予感にとらわれた。


(そっちへ行っちゃ、駄目だよ)


 怖いよ、母さま。


 そっちには、何か、嫌なものがあるの――




 気がつくと、不意に、あたしたちは立ち止まっていた。


 竹林の中にぽっかりと円く開けた、舞台にも似た、空き地。


 暗い夜空。星も見えない。


 ざあっと風が吹いて、竹の葉をかき鳴らす。


 あたしは、ぎゅっと母さまの着物の袖を握った。


「下がれ!」


 鋭い母さまの声。


 その声は、あたしに向けられたものじゃない。


 母さまは、あたしを見ていない。


 シャーン……と鞘鳴りの音が響いて、母さまが刀を抜いたのが分かった。


 あたしは、がたがたと震えていた。


 母さまが刀を抜くのを見たことはなかった。

 


「……………、………………」



 母さまの身体の向こうから、誰かが、何かを言った。 


 あたしは震えながらも、耳を澄ました。


 誰なの? そこにいるのは――


 


「逃げるのです、アニータ」


 


 急にぐいっと肩を押されて、あたしはもう少しで地面に転びそうになった。


 母さまは、あたしを見ていない。


 あたしに背中を見せて、刀を構えたまま、母さまは叫んだ。




「逃げなさい、アニータ!」




 そ    し    て

 





 目を開くと、目の前に、女の人の顔があった。

 口をぱくぱくさせている。


 女の人の顔の背景は、黒っぽい天井。

 でも、その光景は、ただ見えているというだけだった。

 わけの分からない記号みたいに、視覚が働いてそれをとらえても、その意味が脳に染みこんでこない。

 理解はできず、ただ、見えているというだけ。

 音さえも、聞こえない――


 そのときになって、ふと、自分の身体の異変に気付く。

 どうしてだろう?

 胸が……重い。

 何かが、そこにのしかかっている。


 ――息が……

 息が、できない!?


「――さん! アニータさん! しっかりなさってっ!」


 唐突に、膜を張ったような静寂が消え去って、目の前の女性が甲高い声で叫んでいるのが聞こえた。  


「おやめなさい、アニータさん!

 やめなさい! この手をどけるのよ!」


 手……? 何? 何のこと!?

 混乱が深まっていく。  


「この手を! どけるのよ!」


 不意に、鋭い痛みが手首から発して、脳に突き刺さった。

 その痛みが、意識を覚醒させる。


「!」


 あたしは、自分の両手を、渾身の力をこめて引き剥がした。

 自分自身の、胸から。


「息を吸いなさい! 息を、吸うの!」


 吸おうとすると、気管がつまった。

 咳き込もうとしても、肺の中にはわずかな空気も残っていない。  


「吸いなさい! 早く! 吸って!」


 あたしは、パニックに陥って暴れた。

 息の吸い方が分からない。

 目の前にみどりと金色の光が流れて、それから、視界が暗くなりはじめた。


 死ぬ?

 あたしは、ここで、死ぬの……?


 そのとき。

 目の前の女性の顔が、視界いっぱいに広がった。

 口のまわりを覆うように、やわらかい感触が押しつけられ――

 吹き込まれた呼気が、気管を押し広げる。

 酸素を求めてあえいでいた肺が、忘れていた役目を思い出したみたいだった。

 リリスさんの唇がはなされると、あたしは限界まで息を吸い込み、悲鳴のような音をたてて吐きだした。


「アニータさん……!」


 半分泣いているみたいな、この声は――そう、ミーシャ。


 ……それじゃあ……あたしは……

 あたしは、戻ってきたの……?


 香の匂いのする空気を、何度目かに肺に満たしたとき、声が聞こえた。  


「危なかったですわ……ほんとに……」


 あたしが横になっていたベッドの脇に、ぐったりとした様子で、リリスさんが腰を下ろしている。  


「驚きましたわ。いきなり、ものすごい声で叫び出すんですもの……それにあなた、もう少しで、ご自分を絞め殺すところでしたわ!」


 言われて、あたしは、自分の手に視線を落とした。

 両手の指ががっちりと組み合わさり、一本一本、ゆっくりと力を抜かないと離れなかった。

 この、組み合わせた拳を、無意識にあらん限りの力で自分の胸に押しつけてたせいで、息ができなかったんだ。


 初め、音が聞こえなくなったように感じたのも、あたし自身が大声で叫んでたせいで、他の音が聞こえなかっただけ。

 息が切れて、それ以上叫べなくなったところで、ようやくリリスさんの声が聞こえるようになった、というわけ……


 手首に傷ができて、小さな血の玉が浮いていることに、そのときになってやっと気が付いた。

 リリスさんが、あたしの手を何とか胸から引き剥がそうとして爪を立てたんだろう。

 この痛みがなかったら……

 そして、リリスさんが人工呼吸をしてくれなかったら……

 あたしは、きっと、戻ってこられなかった。


「うっうっ……アニータさん……! こ、怖かったですのぉ~!」


 えぐえぐと泣いているミーシャ。

 どこにいるのかと思ったら、彼女はなんとベッドの上――あたしの両足の上に座り込んでいた。

 無意識のうちに、あたしは相当暴れてたらしい。

 蹴飛ばされないように押さえ込むために、上に乗っかっちゃったんだろうね。


「ごめ……もう、だいじょぶ……」


 ミーシャに言って、足の上から降りてもらう。

 ベッドに横たわったまま、あたしはリリスさんを見上げ、かすれた声で言った。


「死ぬかと……思った。助かった……ありがと」


 リリスさんは、少し笑って、かぶりを振った。


「いいえ……当然のことをしたまでですわ。あたくしが術をかけているあいだに起こった事故は、すべて、あたくしの責任ですもの。……もう、大丈夫ですかしら? ご気分はいかが?」


「気分……?」


 別に、頭が痛いとか吐きそうだとかいう感覚はなかった。

 ただ、全身の筋肉が異常に緊張してたみたいで、体じゅうがひどくだるかった。

 びっしりと浮いた冷や汗は、まだ引ききっていない。

 悪夢を見た後の感覚に似ていた。


 今、視えたものは……あたしの、本当の過去?

 それとも、記憶の歪みがもたらした幻……?


「見えた? リリスさん……」


「ええ……部分的に、ですけれど……」


「あたしの、母さま……? いた、よね?」


「ええ、黒髪の……」


「でも」


 あたしは、言わずにはいられなかった。


「おかしいの。あたし……母さんの、顔も知らないのに。

 会ったこと、一度もないの。

 だって……母さんは、あたしを生んですぐに、死んじゃったんだもん……」


 リリスさんとミーシャが、驚いたようにあたしを見つめる。


「ねえ、リリスさん……あれは、あたしの、本当の過去だったのかな……?」


「それは……」


 呟いて、首を振るリリスさん。


「分かりませんわ。わたくしは、アニータさんの記憶をそのまま覗いただけですから……

 記憶には、曖昧で、流動的な面があります。いろいろな出来事が混ざり合ったり、時系列が混乱することもありえますわ」


 そうか……

 思い出そうとすると、また、あの嫌な感覚がじわじわと湧き上がってきた。


 あの、竹林の広場で――

 いったい、何があったの?


 そこに答えがあるんじゃないか、と感じると同時に、あれ以上のことを知るのは怖い、って気持ちも、今まで以上に強くなっていた。

 いや、そもそも、今見えたものを、本当にそのまま信じていいものかどうかも分からないし……


「あたくしの《記憶遡行》が阻まれるなんて……アニータさんの心は、あの先を思い出すことを、強固に拒んでいましたわ。多分、あの先に、何か、きっかけとなる出来事が隠されているのだと思うのですけれど……」


「うう~……でも、また、今みたいなことになったら~!」


 ミーシャの不安は、あたしにとっても同じ。


 あの、竹林の広場で――

 その瞬間に感じた恐怖の痕跡が、心にまざまざと刻みつけられてる。


「あれ以上は、危険だと思いますわ」


 リリスさんが、きっぱりと言った。


「あんなに激しい拒否反応が起こった以上、さらに無理をして記憶を呼び覚まそうとすれば、いったいどんなことになるか、あたくしにも予測がつきませんもの」


「うん……」


 あたしは、むっくりと起き上がった。


 ……もう、いいよね? 今は、ここまでで。


 嫌な汗が徐々に引いていくと同時に、衝撃も少しずつ薄れ――

 かわりに湧き上がってきたのは、奇妙にほっとしたような、とにかく、やれるだけのことはやった! という感覚だった。


 結局、はっきりしたことは分からなかったけど……

 自分の中で、少なくとも今の段階でできる限りのことはした、っていう納得がいった。

 今、これ以上無理をしても、絶対、いい結果にはならないはず。


「ごめんなさいね、アニータさん……お役に立てなかったばかりか、危険な目に遭わせてしまって」


「いいんです」


 心底申し訳なさそうに言うリリスさんに、あたしは、にっこり笑った。


「ありがとう、リリスさん。なんか……びっくりしたけど、すっきりしました!

 とにかく、競技会で発作が出ないように……そして、勝てるように。

 あたし、がんばりますから!」


 人事を尽くして、天命を待つ。

 あとは、自分自身を信じるしかなかった。



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