やって来ました! 《暁の槍》っ!
……いや、えーと……
こんな幸運って、あっていいのかな!?
ていうか、これって夢じゃない……?
黒と青紫と、くすんだ金色。
一風変わった色調で統一された、めちゃくちゃ立派な執務室のソファの上で、あたしは、まだぼーっとしてる頭をぶんぶんと振った。
あれから――
つまり、イサベラ閣下の衝撃の発言から三時間とちょっと。
あたしは、いまや《高天原》にはいなかった。
ここは父さんの祖国、リオネス帝国。
その五つの帝国魔術学院のひとつ、《暁の槍》。
その学院総長――すなわちイサベラ閣下の執務室に、あたしはいる。
あれから、あたし自身が追いつけないくらい話はトントン拍子に進んだ。
あたしを《暁の槍》に招きたいって申し出は、あたしの「処分」をどうするかで悩んでた師範たちにとっても渡りに船。
すぐに話が決まって、もう「どうぞ、どうぞっ!」って感じで、あたしはイサベラ閣下に引き渡されることになったのだった。
「出立の準備をしておけ」
そう言ったイサベラ閣下の言葉に従って、あたしは大慌てで身の周りのものをまとめ、ソヨカ師範との別れを惜しんだ。
「ごめんなさいね、アニータさん。あなたを、守ってあげられなくて……」
「いいえ、ソヨカ師範!」
肩を落とすソヨカ師範に、あたしはぶんぶんとかぶりを振った。
ソヨカ師範には、これまでどれほどお世話になったことか。
『発作』を抱えたあたしが弟子にいるせいで、他の師範たちからの風当たりも、きっと厳しかったと思う。
でも、ソヨカ師範はそんなこと、おくびにも出さずに、いつもあたしの修行に真摯に付き合ってくださった。
ソヨカ師範がいなかったら、あたしは絶対この《高天原》で、ここまでもたなかったと思うよ……
「どんなときも、師範だけはいつもあたしの味方をしてくださったこと、あたし、ちゃんと知ってます。
向こうでも魔術と剣術の修行をがんばります! 絶対、手紙、書きますから!」
「ええ、待っているわ。――さあ、これを」
言ってソヨカ師範が差し出したのは、固く封印をほどこされた一振りの刀だった。
いつもの優しい、けれど真剣な表情で、あたしをじっと見つめる。
「アニータさん。この刀は、母上の形見だそうですね」
「はい」
武家の娘だった母さんが、父さんと結婚して家を出るときに実家から持ち出してきたものだそうだ。
あたしを生んですぐに死んじゃった母さんの思い出のよすがにと、《高天原》に入ることになったとき、父さんがあたしに持たせてくれた。
真剣だから、もちろん封印を解いたことはないけどね。
「この刀の封印が、解かれることがないように祈ります。あなたの剣術の腕前は、とても優れたものでした。けれど、決して不用意にこれを振るい、人を傷つけることのないように……」
「はい、師範」
あたしは真剣にうなずいた。
ソヨカ師範の言いたいことは、痛いほど分かる。
『発作』を起こして《高天原》を去ることになったあたし。
新しい学院では、決して、そんなことがないように――
決意を新たに、刀を受け取る。
ソヨカ師範はにっこり笑ってうなずき、静かにきびすを返して自分の部屋へ戻って行かれた。
その背中を見送っていると――
不意に、ブオンッ! と目の前の空気が渦巻き、あっと思ったときには紫色の衣を着た長身の女性の姿が目の前にある。
「やれやれ、終わった、終わった」
だるそうに首を回しながら現れたイサベラ閣下は、リオネス帝国の言葉、リュクスで呟いた。
「お……お疲れさま、です」
あまり使い慣れないリュクスで返したあたしに、おっ、という感じでこっちを見るイサベラ閣下。
「そうか。おまえは、帝国の言葉も話すのだな」
「はい。父との手紙のやりとりは、いつも、帝国語でしたから」
父さんは、ヒノモトの言葉は片言しか話せない。書くほうは全然だ。
だから、文通はいつも帝国語で、あたしはリュクスの読み書きがばっちりできるようになった。
話すときは、言葉を頭の中で文字に置き換えて考えないといけなくて、ちょっとたどたどしくなっちゃうんだけど、まあ、何とか。
まさかそれが、こんなかたちで役に立つ日が来るなんて……
人生って分かんないもんだなぁ。
「それでは」
思わずしみじみするあたしに向かって、イサベラ閣下はこともなげに言った。
「帰るか。アニータ・ファインベルドよ」
あたしは、一瞬、返事ができなかった。
ヒエン、という苗字を、イサベラ閣下は言わなかった。
「そうだ」
言葉を失ってるあたしに、彼女は小さく肩をすくめてみせた。
「私は、仕事は速いほうでな。おまえの家の者たちと話をつけてきたぞ。
おまえは死んだものと思っておく、だそうだ」
あたしはイサベラ閣下の金の目を見返したまま、ぐっと奥歯を噛み締めた。
死んだもの……か。
ふん、そうか……
「しかし、だ」
至極、あっさりと。
「《高天原》から籍が消えても、ヒエンの家から籍が消えても、おまえの存在が薄れて消えるわけではあるまい?」
そう言ったイサベラ閣下の言葉は、まるで力強い朝日のように、あたしの胸に突き刺さってきた。
「アニータ・ファインベルド。
海軍中将ラス・ファインベルドの娘。
《暁の槍》の娘よ――」
荷物を抱えたあたしの肩を抱いたイサベラ閣下の声に、奇妙な抑揚が宿った。
ぐうん! と巨大な手に持ち上げられるような浮遊感と同時に、目の前の景色が、激しくぶれて――
「よく来たな。ここが、おまえの、新しい家だ」
たった、それだけで。
あたしたちは、ヒノモトの《高天原》から、遥か《輝きの海》を越えたリオネス帝国――
帝国魔術学院《暁の槍》の執務室まで、空間を転移してきちゃったのだ!
普通に移動すれば、馬車を乗り継ぎ、外洋航海船であちこちに寄航しながら、二ヶ月近くはかかる距離。
それを一瞬で転移しちゃうなんて……!
あまりにも、凄すぎる。
自分で体験しても信じられないくらい、人間離れした力だ。
こんな離れ業ができる人、世界じゅう探しても他にはいないんじゃないの!?
しかも、やった本人は顔色も変えてないし。
そのイサベラ閣下は今、どっしりした執務机の向こうに座って、あたしの成績とかの記録をぱらぱらとめくってるところだった。
まだ昼下がりだっていうのに、机の上の、ガラス製の大きなとっくり――ええと、デキャンターっていうんだっけ? ――から手酌した金色のお酒を優雅にかたむけちゃったりして。
大人っぽいっていうか、すっごくカッコいい。
あたしの前の低い机に置いてあるのは、美人の秘書さんが淹れてくれた、薔薇の香りのするお茶のカップだ。
甘い、いい香りが、あたしの鼻先をくすぐる。
でも、はっきりいって、あたしはくつろぐどころの話じゃなかった。
だってイサベラ閣下ってば、さっきから記録を読みながら、ときどき頭を振って「ふーむ……?」だの「ほーう?」だのって言うんだもん!
あたしはもう、そのたびにドキドキしちゃって、いても立ってもいられない状態。
ここに来る前、イサベラ閣下は《高天原》の師範たちから、あたしの『発作』について説明を受けていた。
それを知った上で招いてくれたんだから、まさかとは思うけど……
もしも、書類に彼女の気に入らないことが書いてあって、
「やっぱりヒノモトに帰れ」
とか言われちゃったらどうしよう!?
そんなことになったら、あたし、行くところがなくなっちゃうよ。
もう絶対《高天原》には戻れないし……
「ふむふむ……む? おお。ほほーう……」
ていうか、その記録、ヒノモトの言葉で書かれてるんだけど――
イサベラ閣下、ちゃんと読めてるのかなぁ?
ひょっとしたら、単に読んでるっぽくうなずいてるだけだったりして……いやまさか。
なんて、あたしが思った、そのときだ。
突然、イサベラ閣下はバサッと書類を投げ出すと、机に肘をついて両手を組み、金色の目でこっちを見た。
「おまえは、剣術の心得があるのだな」
「え!? ……あっ、はい!」
読めてた! さすがはイサベラ閣下。
失礼なことを考えてたせいで、ちょっと動揺しながらもうなずくあたし。
でも、どうして突然、剣の話なんか?
てっきり魔術の腕前とか、成績とかのことを聞かれるもんだと思ってたんだけど。
いや、それよりも――
「あの」
この機会に、あたしは最初からずーっと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「何だ?」
「いえ、あの……いきなりこんなことお尋ねするのも、失礼かもしれないですけど。
閣下はいったいどうして、あたしを、この学院に招いてくださったんですか?」
「《暁の槍》は、才能ある若者を迎えるのにためらうことはない」
心を決めてズバッと本題に入ったあたしに、イサベラ閣下は一秒も迷わず、きっぱりと言い切った。
「え……」
そう……なの、かな。
面と向かって「才能ある若者」なんて言われたの、初めてだ。
嬉しいけど、同時に「ホントに!?」っていう気もする。
剣の腕前は、自分でもかなりのもんだと思うけど、それって魔術とはあんまり関係ないし。
勉強の成績だって、得意科目はいいけど、逆に不得意な科目はボロボロだし……
肝心の魔術のほうもおんなじで、あたしはできるところとできないところの差がものすごく激しい。
《魔術付与》とか《治癒》なんかはぜんぜんダメで、優秀っていえるような分野は、なんと《攻撃・破壊》系のみ!
なんか、せっかく招いてもらったのに、我ながら不安になってきた……
そんなあたしの気持ちにはかまわず、イサベラさんは書類をトントンとそろえて状箱にしまうと、
「さて」
改めて、って感じで姿勢を正した。
「アニータ・ファインベルドよ」
「はいっ」
「これからのことだが。おまえには、さっそく今から、とある組に所属してもらおう」
「えっ!?」
「とは言っても、仮の入級だが」
おどろくあたしとは対照的に、イサベラさんは、あいかわらず落ち着いてる。
「その組は現在、人員が不足していてな。おまえのような人材を入れてほしいと、かねてから要望があったのだ」
「はあ……」
あたしのような人材――
って、それ、いったい、どんな人材なわけ……?
「これは人にもよくいわれるのだが、私は根っから祭り好きのたちでな。
この学院には、たくさんの年中行事が設定してある。
そういった行事を通じて、組の仲間たちと親睦を深めるがいい」
年中行事!?
いや……それにしても、着いていきなり、新しい組かぁ!
なんか、めちゃくちゃドキドキしてきた!
楽しみっていうのも少しはあるけど、心配とか不安のほうがずっと大きい。
あたし、うまく、その組になじめるかなぁ?
また、仲間ハズレにされたりしないかな?
レンカみたいな、ヤな子がいたりしてさ。
ほんとに、ただでさえ話し方が流暢じゃなかったり、帝国の習慣に慣れてなかったりで戸惑いそうなのに、余計なごたごたは勘弁してほしい。
いや、でも、どんなことになっても、なんとかこの学院でやっていかなきゃ。
あたしには、もう後がないんだ。
父さんを失望させるわけにはいかないもん。
――と、あたしが決意にこぶしを固めた、そのときだ。
突然、軽いノックの音が響いた。
「総長閣下」
ややあって、扉の向こうから声だけがきこえてくる。
「ミーシャ・エフターゼンが、閣下への面会を求めております」
あの声は、あたしにお茶を淹れてくれた美人の秘書さんだ。
けど……
ミーシャ・エフターゼンって、誰?
「ふむ、早くも話をききつけてきたか」
椅子に深くもたれたイサベラさんが、感心したように笑った。
「委員長だ。おまえが入る組のな」
「えっ?」
「ちょうどいい、ここで彼女と引き合わせよう。通せ」
あたしが心の準備をする間もなく、分厚い黒檀の扉が音もなく開いた。
「失礼、いたします!」
そんな声と共に、ひとりの女の子が執務室に入ってくる。
その姿を、一目見たとたん。
あたしは、思いっきり気圧されてしまった。
だって――ものすごく、頭よさそうなんだもん!
あたしよりもすこし小柄な彼女は、色の濃い金髪をきっちり三つあみにして胸の前に垂らしていた。
目は、矢車草みたいな深い青。
小さな鼻の上にちょこんと載った金縁の片めがねが、いかにも委員長! 勉強できます! って感じ。
着てるものは、細い金のラインが入った青いローブで、たぶんこれが《暁の槍》の制服だね。
「う……」
彼女と、ばしっと視線が合った瞬間。
あたしは、まるで舌が貼りついたみたいになっちゃって、「どうも」とか「はじめまして」とか、そんなセリフすらも出てこなくなっちゃった。
彼女は、そんなあたしをしばらくじーっと見つめてから――
「え~っとぉ……」
片方の頬に手を当てて、こくん、と、小さく首をかしげる。
「この方、ですの~?」
…………え?
思わず目をぱちぱちさせて、目の前の委員長を見つめるあたし。
なんか……この人、第一印象と中身が、全然違うみたいなんですけど!?
仕草も、しゃべり方も、ものすごくのんびりしてる。
パッと見はあたしと同じくらいか、もしかしたら年上? って感じなんだけど、口調は舌足らずだし、声もかわいくて、もっとずっとちっちゃい子がしゃべってるみたいだ。
「うむ、その通りだ」
「……よかったあぁぁぁ~っ!」
「おわあぁぁぁっ!?」
予想外の展開に、あたしは思わず叫んだ。
だって。
その委員長――ミーシャさんが、いきなり叫びながら駆け寄ってきて、がばあっ! って抱きついてきたんだもん!
ヒノモトでは、どんなに親しい間柄の人間同士でも、公の場でこんなふうに抱き合うなんてことはまずない。
あんまり驚いたもんで、あたしは完全にミーシャさんのなすがままだ。
「ほんとに、ばっちり、理想的ですの~! 閣下、どうも、ありがとうございます~!」
あたしのほっぺたに、ぎゅーっと自分のほっぺたを押し付けて、ミーシャさん。
「はっはっ。いや、なに。たまたま転移した先にいたので拾ってきたのだ」
「いや、あの……」
イサベラさんのちょっぴり失礼なセリフで、機能停止してた脳がなんとか三割くらい復活する。
「あっ!」
その時になって、ミーシャさんが、慌てたみたいに腕をほどいて後ずさった。
「あの、あの、ごめんなさい! わたしったら、うれしくて、つい、舞い上がってしまって~」
おっとりした――っていうか、ちょっと間延びした口調で謝ってから、彼女はにっこり笑って右手をさしだしてきた。
「わたし、バノット・ブレイド教官のもとで、委員長をさせていただいてます、ミーシャ・エフターゼンと申します~。これから、末永く、よろしくお願いいたしますね!」
「あ……えと、どうも、ご丁寧に……」
あれだけ派手に抱きあったあとに握手っていうのも変だけど、とりあえずミーシャさんの手を握り返しながら、丁重にあいさつするあたし。
「あたし、ヒノモトから来ました、アニータ・ファインベルドっていいます。
これから、同じ組でお世話になりますっ。
この国のことも、学院のことも、まだ何もわからないですけど、がんばります!
どうぞ、よろしくお願いします!」
「いえ、お世話だなんて、そんな~……アニータさん、どうか、顔を、上げてください~!」
慌てるミーシャさん。
は、そうか!
思わずヒノモト流に深々とお辞儀をしちゃったけど、リオネス帝国では、これは最敬礼っていって、臣下が主君に対して敬意を表すときの動作なんだっけ……
「すみません!」
ああ、もう。やっぱり、文化の違いって厄介だなぁ!
「いえ、いいんですの。そんな、改まらないでください~。だって、もう、同じ組の、お友だちなんですもの。ねっ?」
って、またまたにっこり笑うミーシャさん。
なんか……すっごく、いい人じゃない? 親しみやすいし。
この人とは、うまくやっていけるような気がする……
「ミーシャ、さっそく、彼女を教室に案内してやるがいい。
その後のことは、そちらに任せる」
「あっ、はぁい!
それじゃあ、行きましょうか~、アニータさん?」
こうしてあたしたちは、イサベラ閣下と美人の秘書さんに見送られ、執務室を後にしたのだった。
うーん……これからいったい、どうなるんだろっ!?