存在価値って、何だろう? 4
それから、どうやってその店を出たのか、どの道をどう通ったのか。
よく思い出せない。
気がついたときには、あたしは、見覚えのない大きな十字路の真ん中に、ぼうっと突っ立っていた。
道を行き交う人々が、不審そうにチラチラとこっちを見ながら通りすぎていく。
あたしはほとんど無意識に、手近のオープンカフェに歩いていって、空いている席に腰を下ろした。
すぐに注文をききにきた店員さんに、
「お茶を……」
とだけ言って、そのまま、ぼんやりと通りの風景を見つめる。
ログレス市。《暁の槍》の街。
ついさっきは、自分のものになったと思った景色――
その景色が、今は、まるで知らない国の風景みたいに、よそよそしく見えた。
「まあ……冷静に考えてみれば、当たり前か」
あたしは、口の中で呟いた。
「だって、話がうますぎたもん、最初から。イサベラ閣下も、バノット教官も……狂戦士だって分かってて、受け入れてくれるのって、普通じゃないし」
すべてを破壊する、凶暴な衝動。
それをいつ解き放ってしまうか分からない、危険な娘――
身内ならいざ知らず、そんなあたしを、仲間として受け入れてくれる人たちなんて、いるわけがない。
そうだよ。
こんなの、最初から分かってたことじゃない。
なのに、あたしは……何を、夢見てたんだろう?
バカだなぁ……
「あ……あれ」
いきなり、まわりの景色がぐにゃぐにゃと歪んだと思ったら、ぼたぼたと膝の上に涙がこぼれおちた。
嫌だな。こんなことで泣きたくない。
あたしは、買ったばかりの着物の袖で、慌てて涙を拭いた。
前までのあたしは、白い目で見られたって、どんなひどい陰口を言われたって――絶対に、人前で涙を流したりはしなかった。
まるで、弱くなったみたいだ。
こんなふうになったのは――かたく張り詰めて、突っ張っていた心が、みんなの温かさに触れて、ほぐされたから。
……そうだ。
あたしは、目を見開いた。
イサベラ閣下やバノット教官が、どんなつもりだろうと。
ミーシャや、ルークや、ライリーは、心からあたしを歓迎して、受け入れてくれたじゃないか!
『本当に?』
心の片隅から、そんな声がきこえた。
その声は、あっという間に大きくなって、冷たい霧みたいに、あたしをすっぽりと呑み込んだ。
『あの子たちがあなたを待っていたのは、大会に勝つため、それだけのためじゃないの?
今、あなたを追い出さないのも、狂戦士化したあなたの力を、大会で利用したいからじゃないの?』
ああ……そうかも、しれないなぁ……
マックスだって、あの発作のあと、手のひら返したみたいに近付いてきたし……
『お前、うちの組に来いよ』
あの言葉だって、きっと、あたしを取り込めば、自分の組が大会で優勝できるって目論見があったから――
結局、あたしは誰からも、アニータ・ファインベルドっていうひとりの人間としては、見てもらえないのかもしれない。
この、原因不明の『発作』がある限りは。
でも、呪いじゃない、っていう言葉が本当なら、一体どうすれば『発作』がおさまるのか、もう、見当もつかない……
運ばれてきたお茶に手もつけずに、あたしはテーブルに突っ伏して、声を殺して泣いた。
あたしは、一生、このままなのかな。
ずっと、誰からも、受け入れてもらえないままなのかな――
そのときだ。
「どうなさいましたの? こんなところで……」
不意に、頭上から、戸惑ったような声がきこえた。
* * *
「あたくしは、リリス・タラール。もうご存知のことと思いますけど、ダグラス・ハウザー教官の組に所属しておりますの」
「ええ……知ってます」
あたしは、笑顔を作って言った。
絶対、無理してることに気づかれちゃうだろうなって、自分で感じるような笑いだったけど。
リリスさんは、今、あたしの向かいの椅子に腰を下ろしている。
ここ、よろしいかしら? っていきなり聞かれて、思わず頷いちゃったんだよね。
でも、落ち着いて考えてみると、丁寧にお断りしたほうがよかったかも。
涙の跡のついた袖はこっそり隠してるけど、目も鼻の頭も熱くて、きっと、赤くなってるだろうな。
泣いてたと思われるのが、何だか恥ずかしかった。
それにしても、こうして改めて見ると、リリスさんってほんとに美人だ。
あたしよりも、五歳くらい年上かな?
でも、身体つきのほうは数歳差どころの騒ぎじゃない。
彼女が身につけてるのは地味なローブなんだけど、女性らしい魅力的な曲線は、その布地ごしにもばっちりわかる。
「さっきはごめんなさいね、アニータさん。うちの委員長が、迷惑をかけてしまって……」
「えっ? ああ、いえ……」
「委員長は、すっかり、あなたの腕に惚れ込んでしまったようですわ。どうにかしてうちの組に呼べないかって、ここのところ、そればかり言っていますの」
リリスさんは、琥珀色の目で、穏やかにあたしを見ている。
「委員長ばかりじゃありませんわ。ダグラス教官も、あなたの才能を認めていらっしゃったし……あたくしだって」
なんだか、この人、いい匂いがするな……と、あたしはふと思った。
香水かな?
ほんとにかすかだけど、甘く柔らかく、心を和ませるような、優しい香り。
リリスさんは、自分で注文したミントティーを一口飲んで、グラスを上品にテーブルに戻した。
「ライバル同士の組に配属になってしまって、残念ですわ。あたくしも、あなたみたいな方と同じ組になってみたかったのに」
「それは、どうも……
でも、あたしみたいなのが入ったら、迷惑かけちゃいますから」
あたしは、うつむいて、ぼそぼそと言った。
またか。
きっと、この人も、大会で自分の組が勝てるように、あたしを誘おうとしてるんだろうな……
つい、そんなふうに思ってしまう。
こんなひねくれた考え方じゃいけないと思うんだけど、一度生まれた疑いの心は、なかなか消せない。
ああ、嫌だな……こんな自分って……
視線は合わないけど、リリスさんが、こっちの顔をじっと見つめてきているのが分かった。
あたしは、何だか居心地が悪くて、顔が上げられなくなった。
ややあって――
がたん、と音がしたかと思うと、リリスさんが、椅子をこっちに寄せてきた。
いきなり、そっと手をとられる。
リリスさんの手は真っ白で、やわらかくて、すべすべしていた。
気持ちいい、と思うのと同時に、剣ダコだらけの自分の手のひらが恥ずかしくなって、あたしは、さっと手を引っ込めた。
「あ……ごめんなさい! あたくしったら、つい」
慌てたような、リリスさんの声。
「でも、あたくし、何だか……
あの、アニータさん。あなた、何か、悩みごとがおありになるんじゃなくて?」
あたしは、思わず顔を上げてリリスさんを見返した。
「さっきも、その……泣いていらしたみたいだったけれど」
「まあ……ちょっと」
見られちゃった以上、変に嘘をつくのも不自然だ。
あたしは視線を逸らし、言葉少なに頷いた。
そんなあたしを、リリスさんは、なおもじっと見つめていたけど、
「アニータさん」
やがて、真剣な調子で言ってきた。
「もし、あたくしでよろしければ、相談に乗らせてくださらない?」
「え……?」
「あなたは、この学院に転入してきたばかりですもの。今までとは、環境もまったく違うでしょうし、いろいろと困ることがあって当然ですわ。
まあ、あたくしに話してどうなる、って言われると困りますけれど……悩みごとがあるときって、誰かに話すだけで、気分が軽くなることってありますでしょ?」
あたしはしばらく、黙ったまま、リリスさんの目を見返していた。
――本気なのかな。
それとも、演技かな。
リリスさんの目は、真摯にあたしを見つめてる。
そこには、嘘をついてるときにありがちな揺らぎや濁りはない。
信じて、いいのかな……?
何といっても、彼女は、ライバルの組の人間なんだ。
親切のフリをして、あたしの弱みを探ろうとしてる、って可能性もある。
でも――
「ごめんなさい」
ややあって、突然謝ったのは、あたしじゃなくて、リリスさんだった。
「組も違うのに、急に、出過ぎたことを言ってしまって。びっくりなさったでしょう? ほんとにごめんなさいね。あたくし、もう行きますから……」
「ううん!」
急いで席を立とうとするリリスさんを、あたしは、とっさに引き止めていた。
ふわりと、甘い香りの空気が動く。
驚いたように見下ろしてくるリリスさんに、あたしは、にっこりと笑った。
「ありがと、リリスさん……あたし、ほんとは、すごく、誰かに聞いてもらいたかったの。
でも、こんなこと、いきなり相談するのもどうかって思って――」
席を立とうとする瞬間にリリスさんが浮かべた、寂しそうな表情に、あたしは少し反省していた。
この人は、本心からあたしのことを気遣って、相談に乗ろうとしてくれてるのかもしれないんだ。
そうだとしたら、あたしの態度って、ものすごく失礼にあたる。
逆に、もしも、彼女がスパイだとしたら――
わざとだまされたフリをして、反対にうまく情報を引き出しちゃうって手もあるよね。
それに――
『ほんとは、すごく、誰かに聞いてもらいたかったの』
この言葉は、あたしの本心。
ひとりで背負うには、あまりにも重過ぎる打撃。
誰かと分かち合いたい。
でも、バノット教官が関わることである以上、組のみんなには話しづらい――
そう、色々理屈をつけたけど、あたしは結局、心の底では、リリスさんに話を聞いてもらいたかったんだよね。
「実は……」
座り直したリリスさんに、あたしは、ゆっくりと口火を切った。
自分の狂戦士化のこと。
バノット教官の見立てによれば、原因は、呪いではないらしいこと……
実験台としてどうこう、なんて話は、さすがに伏せたけど。
話してるあいだに思わず熱がこもって、けっこうな長話になっちゃった。
リリスさんは、嫌な顔ひとつせずに、時々うなずきながらあたしの話を聞いていたけど――
あたしの話が終わったとたんに、
「まあ」
彼女は、ぽん、と手を打った。
「そういうことでしたら、あたくし、力になれるかもしれませんわ!」
「えっ?」
あまりにも突然の申し出に、あたしは、思わず目を白黒させちゃった。
バノット教官でさえも原因がよく分からないらしい、あたしの狂戦士化――
でも、リリスさんには、何か、心当たりがあるみたい。
「呪いではない……つまり、呪術的な要因によるものでないとすれば、次の可能性は、心因的なものですわね」
「心因、的……?」
繰り返したあたしに、リリスさんは大きくうなずき、
「実は、あたくし、精神系の術を専門にしておりますの。こう見えても、その方面にかけては、ダグラス教官を凌ぐ素養を持つとも言われておりますのよ」
精神系の術――
魔術は、その効果ごとに、いくつかの系統に分類される。
たとえば『修復系』『破壊系』『伝達系』なんていう分け方があって、これは、用途別の分類だ。
そして、別の分類法もある。
『物理系』『時間系』『精神系』――
これは、効果を及ぼす対象ごとの分類。
つまり『精神系の術』っていうのは、人間の精神全般に効果を及ぼす――たとえば喜び、怒りなんかの感情を増幅させたり、反対にそれらを抑えたりっていうような――術のことを言うんだ。
でも『物理系の術』と比べると、対象を正確に捉えることも、その効果をイメージすることも難しいために、精神系の術の使い手は、とても少ないって言われてる。
「それは……凄いですね」
《高天原》にも、精神系の術の使い手は、ほんの一握りしかいなかった。
でも、いったいどんな術を使えば、あたしの狂戦士化の原因が分かるっていうんだろう?
食い入るようにリリスさんを見つめたあたしに、彼女は、囁くように言ってきた。
「あたくしが最も得意とする術は《記憶遡行》。
あなたの過去の記憶をさかのぼって探れば、狂戦士化の原因を突き止められるかもしれませんわ!」




