シンディ香楽
足に絡む石畳が重いと感じた。
ビルの間から見える陽の光が、いつもとは違い強い不快感を運んでくる。
渇いた空気は喉にまとわり付くように重い呼吸を強い、その鈍い重みが心の余裕を刈り取っていく。
街の海沿いにある瀬良江の拓けた公園では、たくさんの家族連れや若者たちが休日の昼下がりを楽しんでいるが、その快い光景が感情を一層逆なでし、空の明るさと反比例するように彼女の気持ちは鬱に囚われていた。
ビル前の広い遊歩道のベンチに落ち込んだように腰を下ろした香楽の横を、3人の低学年ぐらいの子どもたちが楽しそうに走り去っていく。
彼女はその後ろ姿を目で追いながら、何故今自分が落ち込んでいるのかを改めて思い出していた。
シンディ香楽。中学2年生。
イギリス系アメリカ人の父と日本人の母親を持つ彼女は、中学ではバスケ部に所属している。
本場NBAの影響をまともに受けている彼女はバスケに対して強いこだわりがあり、また元々身体能力も高いため、その実力にはずば抜けたものがある。
少々勝気な部分の持ち合わせている彼女がバスケ部に入部してからというものは、周りの生徒たちに比べての高い技術や運動能力を鼻に掛け、早い話が香楽は天狗になっていた。
そしてその天狗の鼻を折るような事件が、つい30分ほど前に発生していたのだった。
事の始りはストリートバスケット。
今彼女が座っているベンチがあるデパート前広場には、ストリートバスケを楽しむためのバスケットリンクが設置されていて、香楽は休日の度にここを訪れ、友人や同じ部員と一緒にバスケを楽しんでいる。
今日もいつものようにバスケットをしていた彼女は、そこでちょっとしたイザコザを巻き起こしてしまったのだ。
友人と5名程でバスケをしているところに、高校生ぐらいの男子グループが割り込み、リンクを占領してしまったのである。
「ちょっと!そのリンクはみんなで使うためのものだよ!」
驚いた香楽たちは男子グループに抗議したが、男子たちは彼女の言葉を全く受け付けない。
そこで香楽は、あるとんでもない提案をしてしまったのである。
バスケで勝負をして、勝ったほうがリンクを使うというものだった。
香楽はバスケに絶対の自信があり、見た目あまり上手とは言えない男子グループには全く負ける気はしなかった。
1ON1(1人対1人)で勝負するなら、結果はきっと彼女が思った通りになっただろう。
するとこの男子グループの1人が、このような提案を付け加えてきたのだ。
「オレたちが勝ったら付き合えよな!」
男子グループの中に好みのタイプなどはいなかったが、もちろん負けるなどと全く思っていない香楽は、その提案もあっさり了承。
彼女は意気揚々と勝負に臨んだのである。
ところが蓋を開けてみると、勝負は3ON3(3人対3人)。
それでもなんとかなると男子グループに挑んだ香楽だったが、結局敗退という結果になってしまったのだった。
結果に呆然とした香楽たちは約束の取り消しを求めたが、もちろん受け入れてもらえるはずなど無い。
そこで来週の日曜日に再戦し、勝ったら本日の約束は無しにするということを約束してもらい、今に至ったのだった。
「あ〜!!私、なんて莫迦な約束しちゃったんだろ〜!!」
香楽はベンチで頭を抱えながら、今日の自分の軽率な行為を思いっきり後悔していた。
勝負した男子グループがイケメンで優しいタイプなら諦めもついたのだが、どう見てもそんなイメージとは程遠い集団である。
リンクだけならまだ許せるが、絶対に恋人にはなりたくない。
だからと言って来週の勝負に勝てるかというと、それは非常に厳しい状況だ。
香楽はともかく、やはり元々の運動能力では男子に分があるようで、男子グループとまともに渡り逢えるだけの知り合いは彼女にはいない。
あるいは先輩部員に頼めば勝てる可能性もあるのだろうが、そもそもバスケを賭けの道具に使ったというのだから、きっと協力してくれる先輩部員はいないだろう。
「シンディ!どうしてあんな約束しちゃったのよ!」
別れ際に友人たちが放った言葉が、香楽の耳に厳しい響きを残す。
彼女はうつむきながら深いため息をつくと、欧米人特有の色白の手で自分の額を支えながら、しばらく期待のできない改善策の閃きを持ち望んでいた。
30分ほどの時間が経過し、結局なんの名案も浮かばないことに今更ながら気付いた香楽は、愛用のバスケットボールとスポーツタオルを手に取ると、ユラリと立ち上がり帰途に就こうとしたが、その時通行人の肩に自分の肩をぶつけてしまい、よろめいて転んでしまった。
ボールが歩道から車道に転がり、1台の車が踏み潰して走り去っていく。
「おい!気を付けろ!」
香楽とぶつかった通行人が大声で彼女を叱咤し、不機嫌そうに睨んだ。
「あ・・あの・・。すみません」
香楽の謝罪を聞いた男はもう一度彼女を睨み付けると、ぶつぶつと文句を言いながら人ごみの中に消えていった。
「あ〜あ・・・。ホントついてないよ・・・」
香楽は車道で砕けた愛用のボールの残骸を拾い上げると、再びトボトボと家路に就いた。
☆
「おーい、カグラ!」
香楽が歩いていると、彼女に後ろから声をかけてくる者がいた。
「おい、カグラ。どうしたんだよ。なんだかお前の回りだけ空気が重くなってるぞ?」
「あ、ヒロ」
彼の名前は新門緋色。みんなからヒロと呼ばれている、香楽のクラスメートである。
空手部に属している緋色は、同じ棟のアパートに住んでいる幼い頃からの顔見知りで、香楽と気が合うらしくよくつるんでいる。
付き合いの長さに比例して性格も深いところまで掴んでいて、いわゆる気楽に付き合える仲としてお互いを理解していた。
「珍しいなぁ。何か落ち込むことでもあった?」
「あ〜。別に〜」
「お前の『別に〜』って、たいがい裏があるよな」
「判った・・?やっぱり・・」
香楽はバツの悪そうな顔をすると、今日起きた出来事を洗いざらい緋色に伝えた。
最初はヤレヤレといった表情で話を聞いていた緋色だったが、やがて話が後半に差しかかった頃、徐々に彼の表情が微妙に崩れてきた。
「それってつまり・・・ナンパされたってことか?」
「まぁそういうことになっちゃうかな?」
「ふん」
「あれ?ヒロ気になる?」
緋色の意外な反応に気付いた香楽は、何故か少し機嫌が上向いたような気がして、その後の彼の反応に注目したが、そんな香楽の表情に気付いた緋色は、軽く鼻を鳴らしながらプイと横を向いた。
「バカ。そんなこと言ってんじゃねーよ。だから前から言ってるだろ。お前はやることがケーソツだって。どーすんだよ。本気でそいつらと付き合うつもりか?」
「えー!やだよー!!」
香楽が悲鳴に近い声を上げた。
「私にだって選ぶ権利があるからね。あんなブーメンとなんか付き合えないよ」
「それじゃ、どーすんのさ」
「どーしよっか・・・。ヒロ。あんたの知り合いにバスケ上手い人いない?」
「いるか、バカ。オレは空手部だぞ」
「だよね〜」
「カグラ!お前それ自分のことだろ。他人事みたいに言ってんなよな!」
「だって〜。いい考えも思い浮かばないし」
「知るか。もう勝手にしろ」
しばらく香楽とやりとりをしていた緋色だったが、そのうち本当に腹を立てたらしく、彼は香楽を無視して走り去ってしまった。
「え〜?なんでヒロあんなに怒ってるの?」
いつもたいがいはお互いの考えていることは判るのだが、何故か今日に限って緋色の行動の意味が判らない。
いつもとは違う彼の非協力的な態度を、最初は不思議に思って見ていた香楽は、勝気な性格のせいか彼女もだんだん腹が立ってきて、走っていく緋色の背中を睨みながら、舌を出してアカンベーをしていた。
「いいもん!自分でなんとかするから!!」
香楽の住む美鷹市は、県内でも有数の大都市である。
中心街はたくさんのオフィスビルが立ち並び、エリアに分け繁華街や名うてのデパートが幅を利かせている。
オフィス街とショッピングエリアのちょうど等距離のあたりに住宅街が開発され、平日でさえ多くの人で賑わっていたそれぞれのエリアが、ここ数年でさらに活気を増すようになっている。
しかし住宅街の開発は近年に急ピッチで行われたために、まだ未完成の道路や住宅も多く点在しており、香楽の住むアパート周辺では常に工事の騒音がけたたましい音階を放っていて、彼女はいつも慢性的な耳鳴りに悩まされるような生活を送っていた。
香楽には半分がアメリカ人の血が流れているとは言え、生まれも育ちも生粋の日本産だ。
だからもちろん英語などは授業と塾で習った範囲の中程度の実力しかないし、今は特にその必要性も感じていない。
ただプラチナに近い金髪や、少し淡い青色の瞳は友人たちからも羨ましがられていて、それが彼女にとってはちょっとした優越感の源になっていた。
おまけに顔だちもキレイに整っていて、結構男の子たちからの人気も高い。
これに身体能力の高さなども加えれば、彼女が天狗になってしまうのも無理からぬことなのかも知れない。
もちろん彼女は悪い人間では無いので、自分の天狗ぶりを自覚し、それを恥じている部分もある。
ただチヤホヤされてしまうとどうしても抵抗できない調子の良さも同時に自覚していて、そんな自分を甘受しながら毎日を送っていた。
但し、そんな人間ばかりに囲まれた生活の中で、一人だけ違う視点で香楽に接している人物がいる。
それが緋色だ。
普段誰かと意見が対立した場合、たいがいは彼女の意見が通ることが多い。
しかし緋色と対立した場合は話は別で、どうしても彼女が先に一歩引いてしまう。
彼は単純なところもあるが、自分の感じたことは客観的な視点から物事をずばずばと言ってくるので、香楽は緋色に対してだけは素の自分で接している。
それは彼女が変に自分を飾っても、彼にだけは通用しないということを本能的に感じ取っているからで、実際香楽は彼と一緒にいる時が1番楽で、1番安心できるような気がしていた。
そして、ついさっきのこと。
緋色は香楽の行動に苛立ちを見せ、彼女を叱責した。
もちろん自分が悪いのは判っているが、それがさらに追い打ちをかけ、彼女の気持ちはさらに一段深いところに落ちていた。
「ヒロのヤツ、あんなに怒らなくてもいいじゃん・・・」
香楽はオフィス街の外れでバスを降りると、そこから自分の住むアパートがある住宅街へ向かった。
いくら大都市の一画にあるエリアとは言え、さすがにこの辺まで来ると人の姿もまばらになってくる。
ただ周辺では道路工事や住宅の建築作業が多く行われていて、あちこちに工事中の看板が並び、騒音が響いてくる。
香楽はそんな情景に無意識に視線を流しながら、彼女の住む見慣れた高層アパートへと足を進めていった。