危機
もうここに残るのは危険だ!
そう自分に結論を出した香楽は、急いでこの場所から離れることにした。
今見たところでは、生徒たちの中に子音や緋色の姿は無い。
吸血鬼たちの動きは比較的フラフラしていて、あまり素早いというほどでは無いので、空手で腕を鳴らしている緋色のことならきっと逃げ切れるはずだし、子音は彼と仲が良いので、彼女もきっと緋色の傍にいるはず。
戻ってきたバスの生徒たちは変貌っしてしまっていたが、まだ他の生徒たちも多く残っているはずで、これだけ広い敷地なら何処かに避難していてもおかしくない。
それはあくまで香楽の希望的観測に過ぎなかったが、それでも彼女はそう信じないと自分がどうにかなってしまいそうな気がして、余計なことは考えず、とにかく逃げることに専念しようと決心した。
付近にはまだ多くの人々が逃げ惑っていて、吸血鬼の牙にかかった哀れな犠牲者たちの姿も所々に見える。
香楽は隠れていたフェンスの陰から飛び出すと、人が少ない通りへ向けて、一気にダッシュで駆け出した。
彼女はバスケの新人チームでキャプテンを務めているのだから、もちろん走りにも自信はある。だからユラユラと歩く吸血鬼の群れからは、もちろん逃げ切る自信はあった。
しかし香楽が駆け出した時、不意に彼女を強い目まいが襲った。
まだ風邪で調子が戻らない彼女の体調は、健康な時とは全く別物だったのである。
よろけるように膝を付いてしまう香楽。
その時、誰かが彼女の腕を掴んだ。
彼女が振り向くと、そこには蒼白な面持ちで香楽を睨み付ける作業着姿の見知らぬ男がいた。
男は紛れも無く吸血鬼の一人で、香楽をその牙の餌食にしようと、彼女に掴みかかってきたのである。
「キャアァァァ!!」
突然の襲撃に、香楽は大きな悲鳴を上げた。
しかし吸血鬼はそれにも構わず、彼女に噛みつこうと凶悪な歯を見せながら口を開く。
香楽は何度も男を平手で打ち、逃げようと必死に抵抗を繰り返すが、男に怯む気配は無い。
この時、香楽はパニックに陥りながらも、ある事に気付いていた。
この男の腕も顔も、その感触が温かかったのである。
本来ゾンビにしろ吸血鬼にしろ、それらは一度死んだ人間が変貌したものだから、体温というものは存在しないと話で聞いたことがある。
いわゆるアンデッドと呼ばれるそれらのモンスターは体細胞が死滅しているのだから、外気温と同じ体温になってしまうのである。
しかしこの男には明らかに体温が存在している。
それはこの者たちが正常に戻る可能性が残されていることを示すのだが、残念ながら今の香楽には、そこまで考える心の余裕は残されていなかった。
香楽は男に押し倒され、もう噛みつかれる寸前だった。
必死の抵抗を試みる彼女だったが、男の腕力に抗う術は無い。
しかしこの時、香楽がばたつかせた手の先に何かが触れた感触があった。
見ると彼女のすぐ傍に一握りほどの石が転がっている。
それは開発地に運ぶ砂利の一つで、おそらく運搬していたダンプからこぼれ落ちた物なのだろう。
香楽はそれを握ると出来る限りの力を振り絞って、男の顔の側面に叩きつけた。
「この変態野郎!!」
石はきれいに男の顔に命中し、男は悲鳴を上げながら香楽から離れた。
その隙に彼女は立ち上がり急いでこの場所を離れようとしたが、その時再び強い目まいが彼女を襲った。
そして、それと同時だった。
逃げ惑う群衆の一人が彼女にぶつかり、香楽はその拍子に再び倒れてしまったのである。
そして別の数人に腹と胸を踏まれ、彼女はそのまま気を失ってしまったのだった。




