ゾンビ?
「あれ?何の音かな・・・」
相変わらず体の調子が戻らない香楽は、今日は母がパートで出払っているため、仕方なく一人で近くの診療所に出かけていた。
そしてその帰り道で何かが爆発するような轟音に気付いた彼女が遠くを眺めると、住宅地開発地域の果てに映画のCGのような巨大な火柱が上がるのを目撃してしまったのである。
「ゲッ!何あれ!?」
遠景であるにも関わらず、炎の輝きはすぐ間近に感じられるほど激しく、それがどれだけ大規模なものかが香楽にもはっきりと感じ取れる。
事故なのか工事の過程での現象なのかは判らないが、よほど大きな事態が発生しているのだろう。
そう言えば今日は彼女の学年が住宅地開発地域の見学に行っているはずなのだが、もしかしたら学校側はあれを見せるために今日を見学日に選んだのかも知れない。
「いいな〜。あれ、何が起きてるのかな?」
香楽は少し羨ましいような気持ちで遠景の火柱を眺めていたが、その時ふと、ちょっとした彼女の悪戯心がムクムクと湧き上がってきた。
『あ〜、私も行きたかったな〜。って言うか、今からちょっとだけ覗きに行っちゃおうかな?とりあえず今は体の調子もそんなに悪くないし、帰るのが遅くなっても、別にママに注意されるワケでも無いし。もしかしたらネオンやヒロに逢えるかも知れないしね~』
香楽はそう考えると、家に帰る方向とは反対の道へと進み始めた。
美鷹市の住宅開発地域と完成区域の境目は、高い簡易的な塀と巨大なゲートで区切られている。
それはもちろん一般人が開発現場に立ち入らないようにすることが目的で、基本的には美鷹市に点在する3つのいずれかのゲートを通らない限り、中に入ることはできない。
香楽たちが通う美鷹中学がある学区付近のゲートは、香楽の住むアパートからはあまり離れていない場所にある。
おそらく今日の校外学習でも、そのゲートを通って子音たちは見学に出かけたはずで、香楽はゲートがある場所を思い出しながら、
まだ本調子に戻らない体にダメージを与えないようにゆっくりと足を進めた。
しばらく歩き続けた香楽だったが、彼女はそのうち辺りの様子が少しずつ変化してきたことに気が付いた。
ゲートが近づくにつれ、人や車の数が極端に増えてきたのである。
おそらく野次馬や工事関係者が大半を占めているのだろうが、人ごみはゲートまで続いていて、身動きがとれないと言うほどでは無いが、とにかくそこには未曾有の群衆が生まれつつあった。
「おい、何が起きてるんだよ!」
野次馬の一人が、ゲート付近の警備員に尋ねる。
「判りません。現在原因を調査中です。これから関係車両が通過するので、とにかく道を開けてください!」
しばらくすると数十名の警備員が増員され、ゲート付近に規制線が張られた。そして数分もしないうちに、ゲート内に向けて何台もの車両が通過していく。
数台のパトカーや救急車と警備会社の車両。おそらく工事用のものと思われる特殊車両に、関係者のものと思われる自動車。
香楽は群衆の端の少し高台になっている位置から、その様子を興味深く見守っていた。
ゲート付近には新たに投入された警察官たちにより、さらにはっきりとした規制線が張り直され、警官による野次馬たちへの交通規制が始まる。
敷地内ではおそらく工事や警察のお偉方と思われる数人が真剣に立ち話をしている様子も見られ、それだけでもこれが異常な事態であるということを強く物語っていた。
やがてゲートの奥の広大な砂利地の奥から何人もの作業着を着た人が、こちらに歩いてくる姿が見えた。
それらは全て作業員たちで、誰もが顔面が蒼白で足取りがおぼつかない。
香楽は最初にそれを見た時、『中でずいぶん大変なことが起きてるんだ。』と思っていたが・・・・。
次の瞬間、信じられない光景が彼女たちの目に飛び込んできたのだ。
作業員たちが突然、彼らに近づいた救護員に噛みついたのである。
この光景は多くの野次馬も目撃していて、それまで大きくざわついていた野次馬たちは、凍りつくように一気に言葉を失った。
作業員は救護員を押し倒し、気を失った彼らの傷口に顔を押しあて、まるで血を求めるように傷を舐めまわす。
それもそのような行為に及んだ作業員は一人や二人では無い。砂利地の奥から戻ってきた全ての作業員たちが、次々と一般作業員や警備員、警察官たちを襲い始めたのである。
まるでゾンビ映画のような凄惨な光景に、それがいったい本当の出来事なのかどうかを理解できず、言葉を発するどころか身動きすらできずに様子を見守る群衆たち。
しかしやがてその脅威が野次馬の先頭にいた人々にまで及んだ時、遂に群衆はその異常事態に気付き、一気にパニックに陥った。
「ゾンビだ!!」
「撮影じゃ無えぞ!本物だ!!」
「逃げろ!喰われるぞ!!」
ゾンビのような行為に襲われた被害者たちは、これもまた映画と同じように、一度意識を失った後に蒼白な面持ちで立ち上がり、次の獲物を求めて群衆に襲いかかる。
彼らは人の肉を食べるということはせず、噛み傷から溢れる血を求めて人を襲っているようで、どちらかと言えば吸血鬼ということになるのだろうが、とにかくこの異常行為は次々と新しい吸血鬼を生み出し、すぐに彼らはゲートの外へと溢れだしてきた。
この状況の中で、まだ警察官による発砲音は一度も響いていない。
警察官たちが最初に襲われてしまったのか、それとも拳銃を所持しないでの出動だったのか、とにかく今の状況を食い止めようと考え行動できる者は、この時点では皆無だった。
パニックに陥った群衆は、我先に逃げ出そうと一気に走り出した。
しかしゲート前の道路は元々あまり広い場所では無く、そこに多くの野次馬が集まっていたのだから、そう簡単に逃げられるものでは無い。
転んで踏まれてしまう者、壁に押されて怪我を負う者、吸血鬼に襲われてしまう者。
群衆の割と端の方にいた香楽だったが、元々本調子では無い彼女もあっという間に逃げ狂う群衆に呑み込まれ、気が付くと自分が今どこにいるのかさえ判らないほどのパニックの中に取り残されていた。
悲鳴を上げ逃げ惑う多くの人々。
誰もが他人の状況を解するようなことなど気にも留めず、ただ身の保全を図るためだけに走り続ける。
前の人が転ぼうとも構わず踏み潰し、狂気に満ちた表情で迫る吸血鬼の姿を確認すれば、隣にいた者の背中を押し、自分が逃げるための時間稼ぎを強いる。
人の心の奥底に隠された身勝手さが解放されたようなこの光景は、ある意味では吸血鬼の出現以上に狂気に満ちていて、今比較的冷静でいる香楽は、とても信じられない大人の世界を垣間見たような気がしていた。
何故今香楽が冷静でいられるかと言うと、彼女が大きな不安を抱えていたからである。
もちろんその不安というのは子音や緋色たちのことで、彼女は開発地の奥にまで行ったクラスメートたちのことが気がかりで、どうしても一目散に逃げるような真似をすることができず、できるだけ目立たないような場所に隠れながらゲートの様子を見守るために残っていたのである。
すぐ間近で人が倒れる度に、悲鳴を上げたくなる衝動に駆られる。
しかしそれでも彼女は必死に冷静さを保ち、吸血鬼たちに見つからないように息を殺していた。
そして、それから数分が過ぎた頃だった。
不意にゲート奥の砂利地から猛スピードで走り迫る一台のバスの姿を香楽は確認した。
バスはスクールバスで、彼女が見慣れた鷹の校章が入った車体を光らせている。
それは紛れも無く今日彼女が乗るはずだった美鷹中学の専用バスで、それは吸血鬼たちの間をすり抜けるように走ると、ゲートのすぐ外に停車した。
「良かった!無事だったんだ!」
バスの中には制服姿の学生たちの姿が確認でき、誰も元気なように見える。
しかしバスのドアが開き生徒たちが降りてきた時、彼女の希望はすぐに絶望に変わることとなった。
降りてきた生徒たちは、誰もが蒼白な顔でギラギラした目で逃げ惑う人々を見つめている。
そして正常な人間を見付けると尋常では無い勢いで襲い掛かり、傷口から新鮮な血をすすり始めた。
美鷹中の生徒たちもまた、恐るべき吸血鬼へと変貌を遂げていたのだった。




