手をつないで話そう 映像編
「手をつないで話そう」はダブル主人公制の短編小説です。
『行方一』が主人公の『音声編』と、『桜早紀』が主人公の『映像編』の二本がありますが、両方とも同じ時間に起きたことを別々の視点で書いており、前後はありません。
お互いがお互いを補完する形になっているので、どっちか片方でも完結した小説になっているし、両方読めばストーリーがより良く分かるようになっています。
ただ、音声編を先に読むか映像編を先に読むかでちょっと印象が違うと思います。なぜなら二人の主人公は並んで歩きながら全然違うことを考えているからです。
というわけで、音声編と映像編、好きなほうから読み始めてください。
工事現場。
ガガガ ゴゴゴ ゴオオオオン ガキーン
人の群れ。
ワイワイ ガヤガヤ ゾロゾロ
車の音。
ブオオオオン プップー
鳥の声。
ピヨピヨ チチチ チチ
木々のざわめき。
サラサラ ソヨソヨ
……飽きた。
街の風景に空想上の擬音を貼り付ける遊びは暇なときによくやるが、あまり長持ちすることはない。私の頭に浮かぶのは結局マンガ的にデザインされたオノマトペに過ぎないのだ。それらが擬似的に表そうとしている音声の本体を私は知らない。私は生まれてこの方十七年、音というものを体験したことがない。
くそう。面白くない。それというのもあいつが待ち合わせに遅れているのが悪いのだ。私がいないと何もできないあいつ。まさかどこかで車に撥ねられているのではあるまいな。あいつならいつ事故にあってもおかしくない。心配だ。ああ心配だ。
女の子との待ち合わせには十分前には来るものだ。それなのにもう五分も時間をオーバーしている。十五分前からいる私は一体何なんだ。馬鹿にしてる。
見上げると高架線の上を電車が滑るように移動し、ピッタリと駅のホームに収まった。扉が開いて大量の人間が吐き出される。私はその風景に先の尖った字体で「チンジャラジャラ チンジャラジャラ」という擬音を貼り付けた。「ジャンジャンバリバリ」の方がよかったか。どっちにしろつまらん。
私が今いるのは駅の裏手の駐車場前で、通る人間はそんなに多くないのだが、駅にあんなに人が来てしまったとなるとここも一時的に人が増えるだろう。あいつを見逃さないように目をこらさなければ。それにしても遅い。
……やっと来た。白い杖をふらふらと振りながら、背の高い男がのんびりと歩いてくる。あいつだ。行方一。ユキカタハジメだ。
歩いてないで走れと怒鳴りつけたかったが、あいつが走るのも無理なら私が怒鳴るのも無理な話。仕方ないので私の方があいつのところまで歩いていってやる。決して私は走らない。なぜ待たされた身で走らねばならんのだ。
とりあえず、出会いがしらにローキックをかましてやらねば気が済まなかった。それもスネの、いわゆる弁慶の泣き所を狙って蹴る。一回では足りないので二度三度蹴る。
ハジメの口が動いてなにやら謝っている風だったが、残念ながら私の耳には聞こえなかった。聞こえないんだからしょうがない。あと三回は蹴ってやる。
ハジメが右手を持ち上げたので、私は仕方なく蹴るのを止めた。右手を上げるのは私たち独自の挨拶の合図だ。その手が私の方に伸びてきたので、私はそこへ頭を差し出してやる。ハジメは私の頭を入念に撫でた。頭に留まらず、手はそのままおでこや鼻やほっぺたまでぺたぺたと馴れ馴れしく撫で回す。
耳が聴こえず口も利けない私に対し、ハジメは目が見えない。だからこのように毎回顔を触らせて自分が確かに『桜早紀』であることを証明しなければならないのだ。全く面倒な奴だなあ。
……と、いうのは実は建前。確かに三年も前なら触らせてやる必要があったかもしれないが、今となってはそんなことをしなくてもハジメは私を見分けられるのだ。それなのにこいつ、私の頭や顔に触れたくてしょうがないらしい。すけべな奴。
しょうがない、許してやる。というのもハジメはこの私に惚れきっているからだ。そして私の命令には忠実に従い、私が出かけるとあればどこへなりともついてくることになっている。いわば下僕。頭に触るぐらいのスキンシップはその報酬というわけだ。
さて、報酬の受け渡しが済んだら早速行こう。私はハジメの手を取って歩きだした。ハジメは目が見えないので私が手を引いてやらなければ危なっかしくて見ていられない。私がいないときは盲人用の白い杖で地面を確かめながら歩くわけだが、そんなことをしているから待ち合わせに遅れるのだ。はがゆい。二十四時間付き添ってやりたい。
手を引かれながらもハジメは時々私に声をかけてくる。口の動きから何か喋っているのは分かるのだが、そんなことをされても聞こえないからやめて欲しい。耳の聞こえない相手に話しかけるというのは犬猫に話しかけるのと同じ心理ではないだろうか。馬鹿にしてる。
まあいい。さて今日はどこに行こう。またケーキでも食べに行くか。いつも食べてばっかりな気もするが、味覚は私たち二人が共有できる数少ない感覚なのでつい頼りがちになってしまう。
そんな状況を打開するためにこの前はあえて映画を見に行った。字幕有りのアクション映画だったので私が圧倒的に有利だった。会話があるうちはまだいいが、話が佳境に入りあちこちで炎と爆発の巻き起こる研究所での戦闘シーンになるとハジメにはもうちんぷんかんぷんだったようだ。
というか見る映画を私の好みで決めたのが悪かった。いつかもっと大人しい、画面効果に頼り過ぎないのを見に行ってやろう。あとで文句を言われないよう字幕無しで。
でも映画はまた今度。今日はやっぱり味覚だ。今思い出したが最近出来た和菓子屋がある。美味しいらしい。行くしかない。
おばさん連中のたむろする花屋の前を通って踏み切りにさしかかろうという時、タイミング悪く目の前で遮断機の赤いランプが点滅しだした。電車が通るのを待つのはまだるっこしい。遮断機が下りる前にさっさと渡ってしまおう。
と、進もうとした私はハジメに手を引かれてつんのめった。しまった。遮断機の警報は音が鳴るのでこいつも気づくんだった。この下僕は主人が電車の迫る踏み切りに突っ込もうとしているものと思って引き止めたのだ。そうこうするうちに黒と黄の縞模様がすっかり私達の行く手をさえぎってしまった。
こいつめ、何を得意げな顔をしている。お前が止めなければ十分渡れたというのに。忌々しいので蹴ってやる。今日二度目のスネ蹴りの刑。ハジメの痛がる様子はいつ見てもなぜか面白い。
ハジメは目が見えないおかげで音には敏感らしい。私の耳代わりとしてこれ以上の奴はいないのだが、時々こういう風にでしゃばるのが難点だ。主導権は目である私にあるということを忘れないでもらいたい。スネの痛みと同時に主従関係を深く思いしれ。
折檻を与えることにより優位性を確認した私は満足して歩き出す。しかしすぐにまた気分が悪くなる光景に出くわした。自転車の立ち並ぶ歩道である。
人様が歩くための道を大量の自転車が我が物顔で乗っ取り道幅を半分にしてくれていた。足元には黄色い点字ブロックがあるが、ほとんど隠れて見えないぐらいだ。点字ブロックは視覚障害者が道を把握するためのもので、そこに自転車を置かれると死ぬほど迷惑するという常識を知らんのか。それ以前にそこにある駐輪禁止の看板を見ろ。何のために使える目を持って生まれてきたんだ。ええい腹の立つ。こういう状態だからハジメが待ち合わせに遅れてくるのだ。こんな自転車全て弾丸に鋳造しなおして持ち主の脳天にぶち込んでやるといい。
軒並み蹴っ倒してやりたかったがかろうじて理性ある私の頭脳がそれを阻止した。下僕をそこに待たせ、自転車たちを可能な限り道の端に寄せてやることにする。重い。不愉快な重さだ。それにどかしてもどかしても数が減らない。
私の作業を隣に立って見ている二人組の男がいた。一人はぼっさぼさの茶髪で、もう一人はバンダナを頭に巻いたデブだ。最初、そいつらは私の目の前で二人してなにやら話し合っていたが、やがて私に話しかけてきた。
私は忙しいというのが見て分からんのか。手伝うのでないならあっちへ行け。という気持ちをこめて一瞥してから無視して仕事を再開した。放っておけばそのうち去るだろうと思っていたのだが、二人はしつこく何か言っている。私が立った今持ち上げている自転車を指差して喋っているところをみると、これが自分のものだと主張したいらしい。
なるほどな。道理で頭の悪そうな顔だと思ったら貴様らが自転車放置魔か。締まりのない顔でヘラヘラ笑っているのを見ると虫唾が走る。他の自転車の持ち主も大体こいつらと似たような奴らに違いない。きっとそうだ。
私はこいつらのものだという自転車を乱暴にそこに置いた。車体がぼよんと跳ねて前輪とハンドル部が揺れた。それを見て男たちの顔つきも険しくなる。
なんだよ! やんのか! 私は今機嫌が悪いぞ。こう見えても昔剣道教室に通っていたこともある。ハジメの杖でも借りてこんな奴ら泣かせてやる。
意気込んでいる私の目の前にハジメが割り込んできた。男二人から私をかばうような立ち位置だ。
バカか! お前なんか目も開いてないくせに何ができる。引っ込んでろ。という気持ちで背中を引っ張ったがハジメは動かなかった。私はハジメの背中の後ろから敵に睨みを効かせることしかできない。
ハジメは二人組と何か話している様子だったが、一言二言言葉を交わしたあたりで相手は嘘のように大人しくなり、自転車も置いたまますごすごと退散していった。
一体何を言って脅したのだろう。呆気にとられている私の手を取ってハジメが促した。釈然としないまま私はその手を引いて歩き出す。自転車の片付けも中途半端なままだった。
今日は朝からイライラすることが続く。早く和菓子屋に行って何か甘いものを食べないと血管がはちきれてしまいそうだ。
ハジメが待ち合わせに遅れてきたことも変な二人組に絡まれたことも腹が立つが、何よりハジメに庇われたのが許せない。いつでも私がハジメを庇う側でなくてはならないのだ。庇われるなんてもってのほかだ。
くそ、頭に血が上ったせいで歩く速度が早くなってしまう。手を引かれているハジメが怖がっているだろう。目が見えない状態でスピードを出されるのは恐怖なのだ。でも元はといえばハジメが悪い。いや、ハジメは何も悪くない。ああもう。違う違う。そうじゃなくて、私が言いたいのは、ええと……。
その時ハジメが立ち止まり、私も引っ張られて止まった。反射的に私はハジメのスネに蹴りを食らわせていた。蹴ってからしまったと思った。わかった私が悪かった。
振り返ると、見覚えのある五人の男女がこちらへ向かって走ってくるところだった。私の高校でのクラスメイト達だ。ハジメが私を引き止めたのも彼らの接近を知らせるためだったのだろう。後ろから呼びかけられていても私は気づかないがハジメは気づく。
カナコが先頭を切って走ってくる。私に気づかせるためにオーバーアクションで両腕を振りながら。えーい、もう気がついたから腕振るのやめろ恥ずかしい。
ハジメといる時にクラスメイトに会うのは嬉しくないことだった。頭を一度学校モードに切り替えないといけない。学校での私は愛想笑いで日々をやり過ごす、心の中のやさぐれた女子高生。
あっというまにクラスメイトたちに囲まれた。四方八方から楽しげに喋りかけられる。私はそれに一応笑顔を向けて応えてやりながらも頭がしっかりやさぐれて行くのを感じた。聞こえないんだから喋りかけるな。馬鹿にしてる。
学校で私は普通のクラスでの授業も受けるが、特殊学級に行くことも多い。だから普通のクラスの人との間には随分温度差がある気がする。逆に一部の人間、つまり今目の前にいるカナコ達のことだが、こいつらには異常に仲良くされている。不自然に気を使われているようにしか思えない。
こうして一緒にいると傍目からはさぞ仲良しグループに見えるんだろうが、当然、私はいつもみんなの話に置いていかれる。私には聞こえない声でみんなが楽しそうに喋っていると目の前で内緒話をされているような気持ちになるし、急に笑いが巻き起こったりした時は自分が笑われてるんじゃないか、などと勘ぐってしまうのだ。そんな時でも周りに合わせて笑った顔をしてしまうのがすごく悔しい。
いや、頭ではそんなことはないとちゃんと分かっている。実際、携帯メールで話す分には私達は本当にいい友達だ。仲間だ。
葛藤していると、ハジメが私の手を引っ張って、お互いの指がお互いの手の平に来るような形に組みなおした。この手の合わせ方には秘密があって、こうすることによって私達は意思疎通が出来るようになっているのだ。
どういうことかと言うと、まず事前に暗号を決めてあって、相手の手の平で動かす指の動きによってモールス信号のように文章のやり取りをするのだ。視覚と聴覚を共有できない私達は口頭でも筆談でも会話ができないので、こういう面倒くさい方法を考え出すしかなかった。この暗号を『握手語』と呼ぶ。
中指の動きが子音、人差し指が母音を指定するようになっていて、濁音吃音を表すときは薬指が補佐するようになっている。中指で手の平を一回叩けば「あ行」、縦に線を描けば「か行」。次に動かす人差し指が一回叩けば「あ段」、二回叩けば「え段」。そんな感じで五十音と数字に関していちいちやり方が決まっている。昔私が点字で説明書と対応表を作ってやってハジメに教え込んだ。慣れるのには時間がかかったが、今ではこれが私達の唯一の会話方法だ。
さて、ハジメがこうして握手語の形で手を組んでくるということは、おそらくクラスメイトたちから会話の仲立ちを頼まれたからだろう。ハジメが間に立つことで普段は一方的な私達の会話も双方向のやり取りができるようになる。いちいち紙に書いたりメールを打つよりは早く会話できるのだ。
(こんどは おれたちとも あそびにいこう だって)
ハジメが指の動きで目の前の上沼という男子が言ったらしい言葉を伝える。やなこった、と私は思った。こいつらとは学校だけでもう十分だ。目の前にいるよりメールでのやり取りのほうが楽しいんだから一緒にいない方がいい。
そんなにヒマじゃないよとハジメに伝えると、それを聞かされたクラスメイトたちが口々になにやら文句を言う。もちろん私の耳には届かない。
(ともだち たいせつにしろ)
ハジメの言葉が聞こえない耳に痛い。でも私はクラスメイトと過ごす時間があったらハジメの手を引いて歩いたり、何か食べに行ったりしたいのだ。分かれ。
というわけで、私は一刻も早くクラスメイトに別れを告げて、二人で和菓子屋に行きたかった。それ以外のことは全く眼中になかったと言っていい。しかしこの私の固い決意が、次の瞬間たった一言で覆されてしまうとは誰が予想しただろうか。
それは、カナコ達が手を振ってまさに去っていこうとするとき、ハジメの手から伝えられた。
(あいつらは これから からおけに いくんだとさ)
……カラオケ?
なんでそんなことをわざわざ私達に言う。胸の中にムカムカした物が広がるのを感じた。
誰も悪気があって言ったわけではないことはちゃんと分かっている。しかしそれとは違うところで黒い想像が次々と掘り起こされてしまうのを止められない。
私はカラオケBOXになど行ったことがなかった。当たり前だ。私は歌も音楽も聴いたことがないから。でも私はそこへ行きたかった。昔からすごく憧れていた。
みんなが私を置いてそこへ行く。ついさっきまでさっさと別れたかったはずなのに、今は全く逆のことを考えている私。
気がつくと私はハジメの手を引っ張っていた。
(わたしたちも ついていこう)
ハジメは驚いて、首を横に振った。でももう引っ込みがつかない。こうなると私の理性は私の手綱をすっかり手放してしまう。好き放題に蹴るなり殴るなりして無理矢理ハジメを納得させた。ハジメは納得した。
ハジメが声をかけて、突然暴れ出した私の様子を見守っていたクラスメイト達と交渉が始まる。それぞれが戸惑っている様子が良く見えた。しかし、私が思ったほどそのやり取りは長引かなかった。程なくしてクラスメイト達から笑顔でOKのサインが出た。
その笑顔はネガティブな思考に捉われた私を戸惑わせた。
『カラオケ ビブラート』
見かけるたびに気になりつつも永遠に縁がないだろうと思っていたその看板を掲げる店に私はやってきた。カナコ達は楽しそうに喋りながらドアをくぐっていくが、私は悪魔の棲む巨大な城に入っていくような気持ちだ。
勢いに任せてここまで来たがもう帰る道はない。倒すべき悪魔がここにはいる。
緊張をはらんだ呼吸を敵に悟られぬようにしながら侵入。いやに明るい雰囲気の内装に観葉植物などが飾ってあって、命あるものを騙し食らう罠がいたるところに張り巡らされていることをうかがわせる。真っ白い壁紙は返り血を吸うたびに張り替えられているに違いない。気を抜くな。
ハジメの手を握って奥へ進む。狭い廊下の右手側にいくつもの小部屋が並んでいた。私に見えるのは冷たく押し黙った同じ顔の扉ばかりだが、壁一枚向こうは現実離れした乱痴気騒ぎになっているはずだ。
そのうちの一部屋に私達も入る。窓のない狭い部屋は地上にあるのにまるで地下室のようだ。扉が閉まると完全に退路は断たれた。
はしゃいでいるクラスメイト達をまるで別世界の出来事のように眺めながら、ハジメと並んでソファーに座る。手は握ったままだ。モニターが人気曲のランキングを流している。
と言ってもテレビもラジオも見ない私は歌のタイトルなど全然知らないのでそれを見ても何も感じなかった。私が見るのは字幕付きの洋画ぐらいだ。
カナコが飲み物のメニューを手渡して、選ぶように促してくれた。そういえば入り口のあたりで「一時間300円でドリンク付き」とか書いてあった気がする。私はそのメニューをさっと見て、自分とハジメ二人分の注文を決めた。コーラだのオレンジジュースだのというありきたりな品揃えだったのでハジメの注文は確認するまでもなく予測できた。
もしこれを確認するとなると品目をひとつひとつ握手語で伝えないといけないのでちょっとした手間だ。というわけで今に限らず私はしばしばハジメの注文を勝手に決める。いまだかつて文句を言われたことはない。
扉を開けて店員が入ってきたので決めた注文をハジメに伝えた。ハジメはそれを声で店員に伝える。よし大丈夫。飲み物を注文できて歌が歌えないはずはない。
全員の注文を聞き終わって店員が退散すると、クラスメイトたちがきゃいきゃい騒ぎながらマイクの取り合いを始めた。モニターの画面が青い背景の上に彼らが入力した曲名を並べていく。
……よし!
私も何か予約するぞ。
意を決して目録を手に取る。電話帳のように分厚い冊子だ。私は歌というものにこんな冊子が必要なほどバリエーションがあるものだとは思っていなかった。適当にパラパラとめくってみて、そこから一曲を選ぶことが途方もない作業だと知る。電話帳を渡されてこの中から一件を選べと言われたのと変わらない。
最初にマイクを手にした菜田が歌い始めた。私の耳が音を音として感じるよりも、肌が空気の振動を感じる方が先だ。声質だの音程だのは分からないが、振動が一定の強弱を持つリズムとして感じられた。私がそれを感じるということは相当大きな音が出ているのだろう。
駄目だ。自力で曲を選ぶのは諦めた。私は自分よりも音楽についてくわしいであろうハジメを頼ることにした。握手語でハジメの好きな曲を尋ねる。ハジメはしばらく考えた後、曲名なんだか歌手名なんだかよく分からない言葉で答えた。
私はその言葉を目録から捜す。曲名索引には載ってなかった。じゃあ歌手名か。
少々手間取ったがその名前を見つけた。歌手というよりはグループ名のようだ。見つけたはいいがそのグループ名の下に曲の名前がまた沢山並んでいる。歌ってこんなに必要なのか? 少なくとも私には必要ない。
とにかくその中から一番上にあった奴を選び、番号をリモコンに入力してモニターに向けて送信ボタン。OK、ちゃんと予約できた。全て見様見真似だったが何も問題はなし。
私が曲を入れたのを見て、カナコが心配そうに何か言ってきた。大丈夫、直接歌うのは私じゃない。と、私はハジメを指差した。普通に指差したのではハジメ本人が気づかないので、嫌でも気づくようにほっぺたに指先をぐっさり突きつけてやる。ハジメの奴がなんだか分かっていない様子でおろおろしているのを見て、カナコの表情が『大丈夫かなぁ』という感じで引きつった。
大丈夫だろうが大丈夫じゃなかろうが順番が来れば曲は流れる。私はもう覚悟を決めた。行くぞハジメ。私達が二人揃えば出来ないことはこの世にないのだ。
なんとなく、昔のことを思い出した。ハジメと会う前の私は今よりもっとやさぐれていた。十四歳の中学二年生。言ってしまえばたった三年前のことなのだが、その頃私は自分がいわゆる「普通」とは違う存在だということを自覚し始め、他人との些細なすれ違いの一つ一つを必要以上に後ろ向きに考えるようになっていた。
それよりもっと前は平和だったはずの私の世界が、心の成長とともに真っ黒に染まっていくのが目に見えた。小学生の頃はそんなに気にしなかったはずなのに、耳が聞こえないということが死ぬほど不幸なことであるように思えてきて、不幸で始まり不幸な過程を経て不幸に終わる人生が自分にだけ約束されているように感じた。
何もかもが私を馬鹿にしている気がした。だから私は、馬鹿にし返す相手が必要だった。息が詰まってしまう前にどこかにはけ口を用意しなければならなかったのだ。
そんな時、学校帰りに街を歩いていて、私はハジメを見つけた。ハジメは今と変わらず白い杖をふらふら振りながら頼りなげに歩いていた。
当時の私の中で、目が見えないということは耳が聞こえない以上に立場が弱いということだった。なにせ私にとっては視覚以上に世界のことを教えてくれる感覚はなかったのだから。
私は、あいつをとにかく馬鹿にしてやろうと思った。
後ろからこっそりついて歩いた。私は自分の足音というものに配慮しなかったから、目の前の人間に尾行が気づかれているとは全く思っていなかった。同じ速度で歩きながら、どうやってこいつを苛めてやろうか考えていた。
しばらくも進まないうちに相手が次第に早足になってきて、ようやく私も尾行がすでにばれていることに気づいた。なぜばれたのかまでは分からなかった。それでも逃がすわけにはいかないと思い、距離を広げずに追いかける。
道が左へカーブしていた。しかし目の前の男はそれに気づいていないのか、進行方向を変えずに直進していく。このまま進むと歩道から外れて車道へ出てしまいそうだ。悪ければ歩道と車道の間の段差で転び、車道の真ん中に倒れてしまうだろう。
私はその時、チャンスだ、と思った。
案の定、そいつは段差に足を取られて体勢を崩した。私はすかさず手を伸ばし、その身体を支えてやった。手を引っ張って歩道へ連れ戻し、あまつさえ衣服をはたいて整えてやる。
そして私はニヤリとした。
当時の私の中で、障害から来るミスを健常者にフォローされるというのは最大の屈辱だった。耳の聞こえない私のために読み上げれば済む問題をいちいち黒板に書いてくれる先生は、内心私を馬鹿にしながら優越感に浸っているのだと思っていた。
だからこいつは私と同じ屈辱を味わうはずだ。そう思って私はニヤリとした。
しかしそうはならなかった。ハジメは一切口を利かない私に戸惑う様子を見せながらも、笑顔で私に頭を下げた。私みたいに恨みがましい顔をしてそっぽを向いたりしなかった。
拍子抜けした。それまで意地悪な気持ちでいたのに毒気を抜かれてしまった。
しかしこのままでは引き下がれない。なんとかしてこの男を馬鹿にしなければ、私がとても惨めになってしまうような気がしていた。
私はその日、結局ハジメが家に帰るまで後をつけて歩いてしまった。決心の固さとは裏腹に何も出来ずに後ろを歩いただけだ。しかし、ハジメの家が思ったよりも私の家と近かったということが分かった。歩いて十分と少しでいける距離。
次の日から私は出来るだけその家の近くを通るようにした。特に用が無い時でも無意味に出歩いたりもした。その結果、あいつがふらふらと頼りなく街を歩く姿を何度も見かけることになった。
私はハジメを見かけるたびに、邪魔なものをどけたり杖を使いやすいよう荷物を持ってやったり、とにかく色々と面倒を見てやった。これだけやればそろそろ私が鬱陶しくなってくるだろうと思ってほくそ笑んでいた。
ある日、ハジメが出会いがしらに私の頭にぽんと手を置いた。私はびっくりして跳び退きそうになったが、弱いところを見せてはいけないと思ってじっと手の主を睨み上げていた。
考えてみれば、目の見えないハジメが声を出さない私を他人と区別するためにはこうやって実際に触れるしかなかったのだ。そうして私を認めたとたん、ハジメはぱっと笑顔になって親しげに私に話しかけてきた。
やめろ、話しかけるな。耳の聞こえない私に話しかけるなんて馬鹿にしている。そう気持ちの上では悪態をついていたはずなのに、何故だか表情がほころぶのを自覚していた。心の中にあった重い塊が少しずつ氷解していくようだった。
いつの頃からか、私はハジメがいない時でも点字ブロックの上に自転車や立て看板が置いてあるとどかしてから通るようになっていた。最初の目的はとっくに忘れ去られていた。
私はハジメの行方一という名前を、鞄に振り仮名つきで書いてあった名前から知った。もちろんハジメの字ではない。大人の字だったから多分お母さんが書いたのだろう。目が見えないと物を失くす事も多いだろうから、家族も心配してほとんどの持ち物にいちいち名前を書いているようだ。小学生みたいで笑える。
しかし、私は自分の名前をハジメに伝える手段がなかった。手話もメールも筆談も通じない相手にはなすすべがない。握手語のような便利なものはその時はまだ開発していなかった。それどころか手さえ握ったことはなかった。
そこで私は点字というものを使うことにした。駅の切符売り場やエレベーターの押しボタンなんかによくついてあるあのボツボツした暗号だ。点字の対応表はネットですぐに手に入ったので、あとはそれを紙に書くだけだ。書くといってもペンで書いてもハジメには見えない。紙に穴をあけてその凹凸で表現する。
点字板というものがあって、これは正しい位置に穴を穿つための座標を指定してくれる定規のようなものなのだが、思ったよりも値段が高かった。そこで私はそれを買うのはまたの機会にして、地道に方眼用紙で座標を取って錐で穴をあける方法を取ることにした。
あけるべき穴の配置は分かっているのだが、場所を五ミリ間違ってしまうと意味が変わってしまうので苦労した。それに、開いた穴ではなく裏側に突出した部分に触れて点字を読むのだから、錐を刺す側から見た穴の配置は描こうとしている点字を鏡文字にしたものでなくてはならない。それが余計に私を混乱させ、正しい文が書けるまでに何回もやり直さなければならなかった。
――わたしの なまえは さくら さき
厚紙を切ったカードの上に十三文字分、計三十五ヶ所の穴を正確にあけ、私はそれをハジメに手渡した。初めて書いた点字が正しく読まれるかが不安で、ほとんどラブレターを目の前で読み上げられているような気持ちで紙をなぞるハジメの指を見ていた。
読み終わったハジメは笑って、いつものように私の頭に手を置いた。私は文章が正しく相手に伝わったことを確信した。
その時ハジメは私のことが好きに違いないと思った。だって私がハジメをこんなに好きなんだから。
よし!
今をもってお前を私の下僕としよう。だからお前は私の命令には素直に従い、私の行く先にはどこへなりともついて来なさい。私がいて欲しいときにいつでもいなさい。
その言葉をすぐに点字にして印刷することはできなかったけれど、心で念じたら伝わったような気がした。いやきっと漠然とは伝わったはずだ。伝わったことにした。
そして私は初めてハジメの手を握って歩いた。私の足がどこへ向こうとも文句は言わせない。今こうして目も耳も口も手も足も揃って、この世に私達が行けない場所は無くなったからだ。私達は今無敵になった。出来ないことはなにも無くなった。
さて、私はハジメの手を取って立ち上がり、その手にマイクを握らせた。ハジメもとうとう覚悟を決めたのか、口元を締めてマイクの手触りを確認しているようだ。
モニターには夜の高速道路を地平線まで延々と飾る車のライトの輝く列が映し出され、まずは曲のタイトルと作詞・作曲者、そして歌詞が画面の下に表示された。
私はその歌詞を見たままハジメの手に伝えた。これでハジメは歌えるはずだ。そして私のために道を作ってくれるはずだ。
画面上の光の列が流れるのに合わせて白い文字に青く色が塗られていく。左から右に滑るように。文字が色づくのに合わせてハジメが歌い出した。クラスメイトたちが手拍子を叩いて後押しする。
私は移り変わる歌詞を必死に目で追った。間違いのないようにハジメに伝えると、つないだ手からリズムが私に伝わってきた。
いける。ハジメは道を作ってくれている。これなら私にも歌える。
口を開けた。喉が震えた。咳をするとき以外でこうやって喉を震わせるのは本当に久しぶりだった。長い間私の喉は声を出せるということを忘れていた。
驚いて目を見開くみんなの顔が、私の声がちゃんと空気を震わせて人の耳に届いていることを確認させてくれた。遠い昔に特殊学級で習った口話を思い出して口の形をつくり、声を発した。ちゃんと歌詞どおり歌えているはずだ。
小学生の頃、覚えたての口話でドキドキしながら友達に話しかけたとき、その子は笑った。その口の動きがはっきりと「へんなの」と言っているのを見たと思う。思えばあれが、他人と自分の違いを初めて痛烈に思い知った瞬間かもしれない。
あれからずっと声を出すことを拒否してきた。でも今は隣でハジメが歌っている。二人なら出来ないことはない。そもそも小学生の言うことなど、もう気にしているような年齢じゃないのだ。あんなのは大した事じゃない。私は歌える。それが事実だ。
声を出すのは気持ちのいいことだった。
……カラオケBOXを出る頃にはもう夕方だった。薄暗くなった空で太陽と月がすれ違い、灰色の影になった雲の向こうで星たちが出番を待っている。
クラスメイト五人の繋がった影が手を振った。別れの挨拶を返す私とハジメの影も繋がっていた。
友達と別れるのが辛かった。明日学校でまた会えるのが素直に楽しみに思えた。
私達とハジメは帰りに近くの公園に寄り、ペンキの褪せたベンチに二人並んで座った。公園にはもう人影は少なく、遠くのブランコを揺らしている小さな男の子と、それを見守るお母さんがいるだけだ。もう帰ろう、晩御飯が遅くなるよ。お母さんがそんな風に語りかけているように見えた。
私は今滅多にないほど穏やかで満たされた気持ちだった。昼間のギスギスした気持ちはもう思い出せない。幸せだ。
ふと思う。私はこの先、視覚も味覚も嗅覚も失ってもいい。暗闇の中に無感覚のまま放り出されてもいい。でも触覚だけは、ハジメと話すための指の感覚だけは失いたくない。会うたびに私の頭と顔を撫でるあの感触を失いたくない。
つくづく思う。この手とこの指があってよかった。私はもうハジメの手を手放しては生きていけないのだ。ハジメに出会えて本当に良かった。一緒にいられて幸せだ。
ハジメの口が動いて、私に何か話しかけた。目も開いていないくせに遠くを見るような表情をして、感慨深げに何かを言った。
『愛してるよ。君の耳がもし聴こえたなら言葉で伝えられるのに』
私はその口の動きに都合のいい台詞を当てはめた。
ハハハ。さすがにこれはない。
そんな風に独り言を呟いていないで、ちゃんと手をつないで話そうじゃないか。私達にはこの手と指がある。触れ合いという言葉がある。
私はいつも自分がされているように、ハジメの頭に手を置いた。そして目をつぶってその顔の凹凸を確かめる。目で見るのと手で触れるのとでは全然違う感じがした。私は片方の手を自分の顔に当ててハジメの顔と比べてみた。私はちょっと鼻が低いかもしれない。
私は立ち上がって、ハジメの手を取った。ハジメも立ち上がる。さあ、言いたいことがあれば私の手に言いなさい。
でもハジメはすぐにその手を離して、代わりに白い杖を手にしてしまった。その杖を見て私はもうハジメと別れて帰らなければならないことを思い出し、現実に引き戻された。全くムードの読めない奴。もっとギリギリまで私に手を引かせろ。
私はとりあえずハジメのスネを蹴った。不思議なことにどんな気分のときでもハジメの痛がる様子だけは見ていて面白い。飽きることが無い。
まあいい。これから先も私の行くところにはどこにだってお前を連れて行くから。
愛する下僕よ、明日はどこへ行こうか?