No.66 アリガト×サヨナラ
――キミが泣いていると、自分まで胸が痛くなって、そして気づけば一緒に泣いていた。
キミが笑っていると、なんだか自分までココロがあったかくなって、そして気づけば一緒に笑っていた。
僕とおんなじ、キミ。
私とおんなじ、キミ。
その符合がおかしくて、結局最後には笑っていた。
僕とおんなじ、キミ。
キミとおんなじ、僕。
だからもう、一緒にはいられない――。
彼女は、気がつけば傍にいた。高校で同じクラスになったのがきっかけだ。気弱な僕は、押し付けられる形でクラス委員を背負わされた。幼馴染の親友は別の高校に入学したから、助けを求めることも出来なくて。
「じゃ、女子は私が立候補しまーす」
明るい声が教室いっぱいに響いたかと思うと、隣から立ち上がる気配を感じた。頭を抱えていた僕が思わず隣を見上げると、不敵に笑う彼女が僕を見下ろしていた。
「クラス委員なんて雑用係みたいなものよ。そんなにオドオドしなくてもヘーキ。よろしくね」
そんな彼女を窓から射し込む陽の光が照らし、僕にはそんな彼女が救いの女神に見えた。
いつもお日さまのように笑っている彼女のことを、すぐ好きになった僕。いちいち赤くなっていたから、そんなのはすぐに彼女の知れるところとなって。
「キミって、ほっとけない人だよね。本当はなんでも出来る人なのに」
今自分が一番望むこと、自分から動いてしてみなさい。そう言われて初めて彼女に伝えることが出来た。何度も噛みながら、半べそを掻きながら、背中に嫌な汗が伝うのを感じながら、やっとの思いで
「僕と、付き合って欲しいです」
と口にすることが出来た。
快活で明るい彼女に見合うだけの自分になりたかった。彼女からイエスの返事をもらった僕は、それからすごく変われたと今でも思う。
人前で泣くのを抑えられるようになった。緊張することに変わりはないけれど、人前で何かをするとき震えない程度の度胸もついた。影で何度も彼女が「大丈夫」と励まし続けてくれたお陰で、“陰気キャラ”と陰口を言われていた僕にも、いつの間にか友達が増えていった。
「キミも感じやすい人なんだね」
彼女が目を腫らしてそう言ったのは、一緒に悲恋ものの映画を見たあと。エンドロールが始まったばかりだというのに、みんな席を立っていく。どうしてなのか不思議で、ちょっと腹立たしくもあって、まだ映画の余韻を引きずっていた僕は、目頭が熱いのをどうにかするので躍起になっていた。
彼女の言葉で隣を見たら、彼女は僕以上に泣いていた。周囲の無粋なざわめきも気にならないほど映画の内容に感じ入って、しゃくり上げて泣いていた。
「どうして好きなのに別れなくちゃいけないんだろね。そんなの、哀しいよね」
彼女がそんな風に映画の感想を漏らしたら、僕の中にもクライマックスの場面が蘇った。
「そうだよね。スパイなんかやめて、二人で逃げちゃえばいいのにね」
フィクションだ、って解ってる。けれど、切なげに笑って別れを告げるヒロインを思い出したらまた視界が潤み出した。
それからカラオケボックスに行ったけれど、歌なんてほとんど歌わずに、映画の余韻に浸りまくって、二人一緒に泣きじゃくってた。
僕らはどこかよく似ていた。人に言えば呆れられそうな些細なことでも、妙に感動してしまったり、切なくなってしまったり。ただ違うのは、彼女はどこまでも明るくて、僕はどこまでもネガティブに受け止めてしまうところがあって。
そのたびに彼女は僕を明るい方へ導いてくれた。
「もう、泣き虫さんなんだから」
そう言って、僕に膝を貸してくれた。
友達に裏切られたときも、志望の大学を断念せざるを得なかったときも、ばあちゃんが亡くなったときも、親にも親友にもすっかり見せられなくなっていた“泣き虫”という本質の僕を、彼女の前でだけは素直に出せた。
どうにか大学へ進学し、ちょっと余裕が出来たころ、やっと親友に彼女を紹介した。そのとき、少しだけ不安になった。彼女は男女問わずに人気のある子だし、親友は悪い奴じゃないけど彼女をとっかえ引返してるヤツだから、彼に彼女を取られちゃうかな、と思ったから。
「あー、タイプじゃないわ」
親友とのダブルデートのあと、家が隣同士の僕らだけで帰った道中で尋ねたら、彼はまずそう言った。ほっとしている自分に自己嫌悪した。そのときから、親友はいつも言っていたのだ。
「彼女はおまえをダメにするタイプだぞ。紹介してやるから、もっと色んな女と付き合えよ」
彼女のお陰で僕は諦めずに粘ることを覚えられたのに。泣き虫を卒業出来たのに。親友にはそう反駁し続けて来た。
「おまえ、自分で思ってるほど変わってないぞ」
それ以上は自分で気づけ。親友には、そう言い捨てられた。
母さんが脳内出血で急死したのは、僕の就職が内定した矢先のことだった。まだ四十六歳だった。「しょうがない子ね」と言って頭を撫でてくれた母さんが、あんな一瞬で消えていなくなってしまうなんて、想像したこともなかった。
僕には、泣く場所がなかった。僕が泣いたら父さんはどうなっちゃうんだろう、そう思ったら、僕も兄さん夫婦に倣って、母さんのような明るい太陽みたいに笑って前向きな言葉や態度で父さんに接するしかなかった。少しでも早く父さんが立ち直れるように。きっと母さんは、そんな父さんを見たらつらいと感じる人だと思うから。
だけど、本当は僕も泣く場所が欲しかった。父さんの憔悴は未来の自分を見るようで、日に日に目をそむけて行くようになってしまった。義姉さんのおなかには赤ちゃんがいて、ゆくゆくは部屋が必要にもなる。ここは兄さん夫婦が跡を継ぐ家だ。僕がこの家に留まる必要もないし。何よりも、僕なんかがいたところで、父さんの慰めになるはずがない。だから就職を口実にして、兄さんと父さんから了承をもらって家を出た。
彼女はすぐに飛んで来てくれた。よい機会だったから、そのとき初めて家族に彼女を紹介した。僕が結婚を意識したのは、そのときだった。
当時は彼女にたくさん叱られた。「お父さんの気持ちを考えてあげないの?」とか、「キミまで離れてしまうようで、きっと寂しいよ」とか。だけど結局そのときも、彼女は僕に泣き虫でいることを許してくれた。僕の涙が涸れるまで、何ヶ月もの間、毎日毎日僕のアパートへ通ってくれていた。
たくさんの笑顔をくれた彼女は、毎日笑えるネタを土産に訪ねてくれた。食べる気の失せた僕に、「あんまり家の手伝いってしてないから自信ないけど」と、いろんな料理を作ってくれた。それはとてもあたたかで、そして当たり前だったはずのものが妙に懐かしくて。そんな“手作りの味”が、また僕を泣かせたりもした。
「もう、泣き虫さんのままだと、お母さんが心配するよ」
そう言って抱きしめてくれた彼女は、僕に安心と心地よい睡魔を与えてくれた。
立ち直ってから、僕はまた少しだけ強くなれたと思う。
彼女が隣にいてくれる。彼女さえいれば、どんなことでも乗り越えていける。僕は、高校のときと変わらないくらい……ううん、それ以上に、もっともっと、彼女のことを好きになっていた。
初めてのボーナスをもらったとき、僕は誕生日プレゼントの名目で「一緒におそろいのリングを選びに行こう」と彼女を誘った。もちろんそれは、彼女への誕生日プレゼントとしてだけでなく。
「ありがとう」
リングをはめてあげたとき、彼女がそう言ってはらはらと泣いた。思い返せば、そのときが初めてだったと思う。僕よりも先に彼女が泣いたのは。あたふたしてしまった僕は彼女をなだめるのに必至になってしまって、続く言葉を紡げなかった。
“もう三年経ったら、本物の結婚指輪を贈りたい”
言い損ねたまま、一年近くの月日が流れていた。
彼女のキモチに不安を覚えるようになったのがいつからなのか、もう忘れた。
外されたリングに気づいた僕が「どうしたの」と聞いたのは覚えている。
「うん……なんか、太っちゃって、サイズが」
と口ごもったのは、恥ずかしさからだと思っていた。広げてもらおうか、それとも新しく作ろうか、とのんきな答えを返した気がする。
僕は相変わらず彼女に職場の愚痴を零していたり、彼女に甘えてみたり、そして一緒にいろんなところへ出掛けて、同じものを見たり同じものに触れたりして、似た感覚を味わっては「おんなじー」と笑い合っていた。それがずっと続くと思っていた。
彼女の仕事を理由に、すれ違う時間が増えていった。本当は寂しく感じていた。だけど、いつも甘やかしてくれる彼女だから、僕もそんな彼女の意向を汲むことで返そうと思っていた。聞き分けのよい彼氏でないと、将来理解のあるダンナにはなれないな、とか、数年先の未来のことまで考えていた。
休日出勤だから部屋に来る時間さえないと言われたある日曜日。僕は暇を持て余して彼女とよく行く映画館へ独りで行った。彼女と一緒に観た気分に浸ろうとか、もしいい作品だったら今度は彼女と一緒にもう一度観に来ようと思って、彼女の好きそうな映画を選んでチケットを買った。そのとき観たのは、古い古いモノクロの映画をデジタルリマスターしたもので、『カサブランカ』という映画だった。
主人公、リークの行動を理解することが出来ない自分がいた。あらすじでは、愛するイルザのために、過去の傷を克服してともに逃亡する、といったようなことが書かれていたからこれを選んだのだけれど。
「自分だってイルザが好きなのに、どうしてラズロにイルザを託しちゃうんだろう」
自分なら、彼女を自分の手で守りたいと思う。思っていたよりも自分好みの作品じゃなかったことに肩を落とした。
相変わらずエンドロールを観ない客が多かったけれど、今回はあまり腹が立たなかった。入口が空いて来て清掃員が掃除をし始めたので、そろそろ僕も出ることにした。
上映ホールを出るとすぐ目の前にはフードコートがある。その一角に見覚えのある人の姿が目に入り、僕は思わず外に出てもいないのにキャップを目深に被って顔を隠した。
今日は休日出勤だから会えないと言ったはずの彼女が、女友達と隣り合わせに椅子を寄せて腰掛けていた。彼女はハンカチで目頭を押さえ、そして友達は苦笑して彼女に何かを話し掛けている。僕はどうにも気になってしまい、彼女たちの死角になる柱の反対側まで近づいて耳をそばだてた。
「まったくぅ。気分転換したいっていうから、あんたの好きな作品でってことで付き合ったのに。泣いてたら意味ないじゃん」
呆れた声でそう言っているのは、彼女の友達だ。
「相変わらず感情移入が激しいね、あんたは」
「だって……、リークがどんな思いでイルザにああ言ったのか、って思ったら……ひぃっく」
それは僕の予想を大きく裏切る彼女の感想だった。僕はリークが事実を知ったことでイルザを諦められるのが理解出来なかった。好きなのに別れるなんてことを理解したいとも思わなかった。
「ま、今のあんたなら、シンクロしちゃうかー。それで、キミのイルザくんには、ちゃんと話したの?」
キミのイルザくん、というのは、だれを指しているのだろう、と一瞬彼女の浮気を疑った。だけど僕が思案に暮れる暇もないほどあっという間に、彼女の口からその答えが漏れた。
「まだ。だって、自信ないもの。きっと私、あの子の泣き顔を見たら、また許しちゃいそうで」
それが彼のためにはならないと解っているのに、放っておけないの。
そうやって私へ逃げてばかりいるから、余計に仕事や友達と上手にやろうっていう努力を投げちゃっているの。解っているのに、泣いているのを見たら、どうにかしてあげたくなってしまう。
それは、多分、僕のことだ。直感的にそう思った。
「そんなのは、本当の愛情なんかじゃないよね」
彼女の友達は、彼女のその問い掛けに「答えを他人に求めるんじゃないよ」と冷たく突き放した。それはまるで僕の親友みたいに、突き放すくせに優しい音色で紡がれた。
「あんたはいっつもそう。カッコつけ過ぎなんだよ」
本当は弱っちい癖に。そう言って彼女の頭をくしゃりと撫でた女友達は、きっと僕にとっての親友みたいな存在なのだろう。
僕よりも彼女を理解している人。彼女が弱いところを安心して見せられる人。彼女にとっての僕は、そういう存在ではなかったらしい。
「自分がして欲しいことを相手にしてあげるのは、すごくステキなことだとあたしも思うよ。けどね、苦しいのにそれが言えないってのは、今のあんたにとって彼っていうのがどういう存在なのか、そっから整理してみたら?」
僕はそれ以上そこにいられなくなって、逃げるように映画館をあとにした。
それから数日後、彼女から一通のメールが届いた。
“話したいことがあります。時間は取らせないので都合を教えてください。”
簡素で事務的、そしてとても他人行儀なそのメールを、僕は自分の勇気全部を使って三ヶ月も無視をした。
巷でハロウィン騒ぎが終わったかと思ったら、あっという間にクリスマスムードで先走るころ、僕は寂しいやら不安やらのごちゃ混ぜな自分に耐えられなくなって、親友を飲みに誘った。
「――って、意味わかんないだろ?」
すっかり出来上がっていた僕は、後から後から溢れては絶えることのない愚痴を、酔いに任せて吐き続けた。相手は彼女と僕をずっと見守り続けて来てくれた、幼馴染の親友だ。そんな気安さも手伝って、二十四歳といういい年も忘れた僕は少年時代に戻って泣いていた。
「だからずっと言って来ただろ? もっといろんな女と付き合ってみろって」
そして親友は今日も、「毎度聞き飽きた」と言わんばかりに相変わらずの高説を述べた。
「逆に、よく七年ももったと思うよ俺は。おまえが悪いっていうんじゃないけどさ、あの子もがんばってた、とか思うもん」
おまえはヘタレの癖に頑固だし。一直線でぶきっちょだし。マジメな性分がネガな方へ働くたんびに、彼女に泣きついてばっかりだっただろう?
そんな手痛い正論が、僕の酔いを醒ましていく。
「あの子、ホントにおまえのこと好きだったんだろうな。おまえって、なんでか人をほっとけない気分にさせるっつうお得なキャラしてるしさ。自分がしっかりしなくちゃ、っていう気負いみたいなものをビンビン放出してた、って感じ」
「僕だって、これでも踏ん張ってたよ。僕だって、彼女を泣かせたくなんかなかったし、支えになりたい、って」
「それは、彼女の望んでるところで、だったのか?」
と更に深く突っ込まれると、即答でイエスと答えられるほどの自信はなかった。そんな自信のなさをごまかすようにビールを呷る。
「すいませーん、おかわりー」
「やめとけって」
という親友の声を無視して、僕は空になったジョッキを高く掲げた。
酔った頭でふと思い巡らせてみる。こうして親友におぶわれて家路を辿るのは多分、いじめで足の骨を折られた中学のとき以来だ。
「おーい、背中で吐くなよー」
なんだかんだ口汚いくせに、優しいヤツなんだ。
「……ごめんね」
「ばーか」
そんな風に言われたら、またじわりと世界が滲んだ。
酔い覚ましだと言って彼が買ってくれたお茶に口をつける。ようやく下ろされたのは僕のアパートの前ではなくて、そのすぐ近くにある公園だ。ゲロ臭の中で泊まるのは勘弁、というのが彼の弁。
「で? さんざっぱら愚痴は言ってたけどさ、本題には入ってなかったんだろ?」
僕は彼のこういうところも、好きだ。普段冷たいくせに、本当に弱っているときだけはこうして甘やかしてくれる。
「ってういうか、吐き出して自分の中を整理したい、って感じ? ビンゴ?」
僕は彼の促すままに、小さくこくりと頷いた。世界がぐるぐる回る中で、ベンチに寝そべったまま親友に零す。
「僕はやっぱり、彼女が好きだ」
親友は僕の恥ずかしい宣言になんの反応も示さず、ゆらゆらとブランコを漕ぎ続けていた。
「だから、ずっと一緒にいたい。傍にいて欲しい」
一緒に笑ったり泣いたりした、遠いあのころを思い出す。まなじりから零れたぬるいモノが耳まで伝い、ごぽりと嫌な音を立てた。
「僕たち、ずっとずっと昔、学生だったときにさ。好きなのに別れちゃう、っていう映画を見て、そんなのおかしいよね、って、一緒にいっぱい泣いたんだ」
逃げちゃえばよかったのに。二人だけでいい世界で静かに暮らす道もあったはずなのに。それは幼い恋しか知らなかったから悪びれもなく思えた、率直で素朴な感想だったのかも知れない。
「自分が、自分が、って、自分ばっかりだよね」
親友は何も言わない。ただ、ブランコの揺れるギィという音だけが小さな公園にこだました。
「僕と彼女は、すごくよく似てる。感じる部分とか、関心の向かうところとか。すごく、似てるんだ。なのに」
僕は、彼女が自分のことで泣いているのを見たことがない。僕は、彼女のために笑ってあげたことがない。僕は甘えることに一生懸命で、彼女を省みていなかった。それに今ごろ気付いてしまった。
「きっと彼女も、本当は泣きたいことや苦しいこと、あったはず、だよね」
親友は、その問いにも答えなかった。
「好きだから、別れるってことも……あるよね、きっと」
僕が涙も拭わずにブランコの方へ顔を向けると
「ンなもん、他人に答えを求めるんじゃねえよ。また責任転嫁で逃げ道を作ることになっちまうだろうが。おまえはヘタレがデフォなんだから」
と、彼女の友達とそっくり同じ答えを返して来た。
「彼女と友達のやり取りを見てから、ずっと考えてたんだ」
「うん」
「僕さ、彼女の仕事の内容も知らないんだ」
「ふーん」
「自分のつらいこととか面倒だなんて愚痴だとか、そういう話ばっかりでさ。安定した生活ってのが後々大事なんだろうな~、とか思って、普通にリーマンしちゃってるけど、好きなことで仕事しとけばよかったのかなー、とかさ」
「それは初耳だな」
「うん。彼女と会ってから、全部彼女に押し付けてた。彼女はキミみたいに突き放すことが出来ない人だったから。僕、どんどん当たり前のようになっていってた」
僕は、自分で考えて決めたつもりでいたけれど、これまでのほんんどが人の受け売りで、自分で考えて決めたことではなかった気がする。いつでもだれかの何かの言葉を受けては、「なのにどうして」って人のせいにして泣いていた。
「それでもやっぱり僕は、本当に、彼女のこと、ダイスキ、なんだ」
「しつけー。解ってるって」
「彼女がいなくなったらどうなるんだろって思ったりもするけれど、でも、今の僕でも出来ること、ひとつだけあるって、今、解った」
「そか」
――やっと気づけたんなら、間に合うんじゃね?
相変わらずな親友からの言葉は、それだけだった。だけどその短い言葉に、たくさんのエールが凝縮されていた。
「彼女は僕の母親じゃない」
「……」
「今の僕じゃあ、まだどうしても、彼女を前にすると泣き虫な僕に戻っちゃうから」
「……」
「僕は、彼女がダイスキだ。だから」
「おまえが自分で決めたんなら、それでいいじゃん」
「……うん。彼女と、逢って来る」
自分が土壇場で尻込みしないよう、僕は親友に宣言した。
彼女とは、それからひと月後の週末に逢うことになった。落ち合う場所は、思い出のある歩道橋。まだ僕が実家に住んでいた高校生のころ、よく彼女と待ち合わせた場所だ。半ば促される形で、彼女に告白した場所でもあった。
半年近くぶりに見た彼女は、少しだけ大人びた雰囲気になっていた。仕事帰りのスーツ姿を見るのも思えば初めてだ。
「久しぶり」
僕は精一杯笑ってみせた。彼女が泣いてしまわないように。今の僕に出来る、たったひとつのこと。笑ってサヨナラを告げること。
「どっか、喫茶店とかにでも入る?」
もう師走に入った週末の夜は、カップルや忘年会に向かう人たちで賑わっている。立ち話もなんだしと思ったので、僕は深く考えもせずにそう言った。
「ううん。すぐに済む話だから」
そう言って彼女が俯いた。そんな彼女を見るのは初めてで。
「なんだよー。泣き虫は僕の専売特許だろう?」
身体が勝手に動いていた。僕の右手が彼女のおでこに伸びて、なだめるようにくしゃりと撫でた。はっとしたような表情で、彼女が再び顔を上げる。
「……優しくしないで」
彼女は泣いていなかった。だけど、今にも零れそうなものを湛えた瞳を大きく見開いて、必死で堪えながらまっすぐに僕を見た。
「サヨナラ、って、言いに来たのに」
長い長い沈黙のあと、彼女が絞り出すようにぽつりと零した。そして彼女はコートのポケットから、僕の贈ったリングを取り出した。
「ほかに好きな人が出来たから、とかじゃないの」
そう言ってリングを載せた彼女の右手が僕の前に差し出される。僕の左手はためらうことなく、素直にそれを受け取った。
「うん、知ってる」
「え」
ありったけの笑顔を無理やり作っているせいで、頬がひどく引き攣れて痛みを訴えた。
「ずっと、ありがとう」
甘ったれな僕のお母さんをしてくれて。それから、ごめんね。キミをちゃんと見ようとしてなくて。
「子どもな僕を卒業するよ。だから……サヨナラ」
そこまでが、限界だった。僕は彼女の額から手を離し、その横を足早に通り過ぎた。だれも僕らには見向きもしない。冷たい冬の夜の街で、僕らの苦しさを知ってくれる人はいない。
長くて広い歩道橋の通路を左へ曲がり、ひとつ、ふたつと階段を下りる。
「……ッ」
やっぱり、僕はヘタレの泣き虫だ。カッコつけたばかりなのに、溢れるモノが止まらない。
七年もの長い時間、僕はずっと彼女にこんな想いをさせて来たのか。
彼女とサヨナラする寂しさよりも、そんな罪の意識が僕を泣き虫に引き戻した。
階段に座り込んで膝を抱える。丸くなって嗚咽を漏らす。人前で泣くなんてもう恥ずかしくて出来ないと思っていたのに、どうしようもないくらい自分を立て直せなかった。
カツンとヒールの音がした。とてもゆっくりな靴音がひとつ。ほかの足早な靴音に混じって聞こえたそれが、僕の前で立ち止まった。
「もう、泣き虫さんなんだから」
その声に弾かれ顔を上げると、彼女の笑顔がそこにあった。だけど久しぶりに近い距離で見た彼女の睫はしっとりと濡れていた。
「キミに魔法を掛けてあげる」
泣き虫さんの涙が止まる魔法。そう言って彼女は両手で僕の頬を拭った。
「私と同じ顔をするのよ」
――笑って。
彼女とは、たくさん一緒に泣いた。同じところに感動して。同じところで悲しくなって。同じところで悔しく感じて。
そんなお互いがおかしくて、気づけば一緒に笑っていた。
彼女もきっと今、僕とおんなじキモチなんだ……。
彼女のくれた、最後のおまじない。それが僕の口角を上げさせた。
彼女が僕の頬から手を離し、ゆるりと二人で立ち上がる。
「じゃあね」
「じゃあね」
同時に同じ言葉を交わす、とてもよく似たキミと僕。
彼女は僕が泣き止んだのを確かめると、するりと僕の横をすり抜けていった。
ひとつ、ふたつ、階段を昇るヒールの靴音。最後にもう一度。今度こそ、ちゃんと笑顔で伝えたくて。僕は思わず振り向いた。
「ありがとう」
「ごめんね」
振り向いた先には、やっぱり振り向いていた彼女がいた。
だけど同時に放った相手へのメッセージは、全然違うものだった。
僕は元来た階段を再び下りる。ゆっくりと、端っこを。ひとりぼっちで下りてゆく。
彼女が僕にくれたモノ。たくさんの愛と、たくさんの思い出、そして最後の最後で本当に思っていることを伝えてくれた。
僕も思ったままに彼女へ伝えたそれの内訳は、もっと大きな自分になる、という強い意思をくれたこと。
彼女がくれた分をそのまま彼女に返すことは出来なかったけれど、彼女と過ごせた七年間を、僕は決して無駄にはしない。だから、泣き虫な僕は、これで終わりだ。
「……泣かないぞ」
最後のひとしずくと一緒に、そんな言葉が歩道橋の階段に吸い込まれていった。