用務員さん
たまに思い出す情景がある。小学校のグラウンドで級友たちが鬼ごっこをしているところだ。私はそれを花壇のふちに座ってぼんやり見ている。今から思い返せば小さい体でみんな精一杯動き回っていて、ときどき黄色い歓声が聞こえた。
「やらないの?」
突然、美人と評判の担任の先生が私の顔を覗き込んで聞いてきた。
「…走るの遅いから」
ずいぶんとひねくれた答えに先生は綺麗な眉を一瞬しかめて、それから黙って歩き去ってしまった。
ちょっと寂しくなりながら再びぼんやりとしていると、やはり突然に野太い声が話しかけてくる。
「一人か」
精一杯大人っぽい雰囲気で振り返ると、話したことのない先生が立っていた(のちに用務員さんだと知った)。
黙って頷くと、なぜかにやりと笑って手招きする。
理由は思い出せないのだが、どうやら私は不機嫌だったらしい。走るのは遅くてもいつも楽しんでいた鬼ごっこをやらないからには、不機嫌以外に理由が思い当たらない。手招きされた時にもむっとした記憶がある。
それでも立ちあがった私は、気をつかっているのかゆっくりと歩き始めた用務員さんについていって、やがてニワトリ小屋の前についた。
「名前知ってるか」
「しゃくれ」
一瞬ドキっとした顔をしたが、すぐに「そう」とやっぱりニヤリと笑いながら頷く。
この先生、歯が黄色いな。お父さんみたい。
「これあげてみ」
用務員さんがそこに生えていた草を一本ぬいて渡してきた。
しゃくれは、とさかをふるふると揺らしながら暗い小屋の中を歩き回っている。こっち側に近づいてきた時に、網目からそっと草を差し入れてあげると、
「…あ」
「な、すごいだろ」
錆びついた檻の網目に勢いよく嘴をぶつけながら、しゃくれはあっという間に草を食べてしまった。横で見ていた用務員さんが嬉しそうに笑う。
子供は、単純というか、複雑というか、とにかくちょっとしたことで機嫌を直してしまう。私の場合もそうだった。ニワトリが草を食べるだけなのにこんなにも興奮している自分が恥ずかしいやら照れくさいやらで、私は笑っているような顔で用務員さんをみた。彼もしゃくれに草をあげながらニヤニヤと笑っている。そのしゃくれた横顔がなんとも言えず性格が悪そうで、あんなに大きな体が少し怖くて、それなのにニワトリに餌をあげているのがおもしろくて、私はついに吹き出した。ニヤニヤのまま、用務員さんがこっちをむく。
「知ってたか?」
「ううん、初めて。みんなに教えてもいい?」
「いや、しゃくれのエサは分量を量ってあげてとる。みんながあげるようになると、デブってまう」
「じゃあ、これ先生と私の秘密やね」
ニヤニヤがさらに大きくなって、「約束だぞ~」と、秘密の割には大きな声で用務員さんは言う。
「指切りげんまんしよ」
「…え。なんで」
「だって、指切りげんまんしないとだめじゃん」
「なんでだめなん?」
「しないの…?」
大人っぽくふるまうよう心がけていた私はなぜかその時目に涙を潤ませてしまった。女の子を泣かせてしまうという感情が働いたのか、それとも職員に泣かされたと噂になったら大変だと思ったのか、用務員さんは「わかったわかったするする泣かんといて」、と小指を出してきた。私も少し背伸びして小指を絡める。
「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ーますっ、ゆーび切った!」
はじめのうちはもごもご言ってた用務員さんも、しまいには大きな声で歌っていた。ふと目線を感じて後ろをむくと、美人の先生がちょっとびっくりしたような顔でこっちを見ている。
「あ、すいません…ご迷惑おかけしました…」
子供ごころにも、彼女が用務員さんを怖がっていることが分かった。なんでだろう、と見上げるが理由は分からない。
「…いや、大丈夫です」
急に笑顔が消えた用務員さんはボソッとそれだけ言って、背を向けてしまった。
「じゃーねー!秘密だよー!」
なぜか子供っぽくふるまった私は、先生と用務員さんの間の空気に気づいていないように手を振った。
「…じゃあな」
ちょっと振り向いた用務員さんは軽く手を挙げてそのままどこかへ歩いていってしまう。いつもはせわしなく動き回っているはずのしゃくれがじっとこっちを見ていた。
「しゃくれもじゃあね。せんせ、早くもどろ」
「そうね」
私はスベスベした手を握って飼い主を散歩させている犬のように走り出した。
あれから、用務員さんは素っ気無い。話しかけても適当な返事だ。授業中、たまに校庭を歩いているのを見かけた。いつも彼はひとりぼっちで、だから私に話しかける気になったのかもしれない。