おおかみゼウス
『オデュッセイア』の宣伝を見ていて、ふと思い出した。
「そういえば、トロイのヘレンはゼウスの娘だった」
ゼウスね。
その名前を頭のなかで繰り返した途端、遠い昔に読んだ本の一節が浮かんできた。
――おおかみゼウス。
子どもの頃、『イソップ童話』という本を読んでいた。
表紙には「童話」と書いてあったけれど、後ろの解説には、本当は「寓話」なのだと書いてあった。
「ぐうわ?」
ふりがながあったので読めはしたが、童話と何が違うのかは、さっぱり分からなかった。動物がしゃべって、最後に何か教えてくれる。私には、それで十分だった。
その本には、神様の出てくる話もあった。
今なら、ギリシャ神話の神々だと分かる。けれど、当時の私は、神様の名前も姿も、ろくに知らなかった。
そこで出会ったのが、「おおかみゼウス」である。
「へえ。ゼウスっていう狼なんだ」
何の疑問もなかった。
キツネもしゃべる。カラスもしゃべる。ライオンは威張るし、ウサギとカメは競走する。それなら、狼が神様をやっていたって、何もおかしくない。この世界は、わりと何でもありなのだ。
私は頭のなかに、一匹の立派な狼を思い描いた。
毛並みがよくて、体が大きい。動物たちが集まると、少し高い岩の上から見下ろしている。神様なのだから、普通の狼よりは威厳があるのだろう。
「ゼウス様、どうかお願いします」
「うむ」
そんな会話も、私のなかでは自然に成立していた。ちなみに「うむ」の声は、近所の犬よりだいぶ低かった。
もっとも、実際にどんな話を読んだのかは、もう覚えていない。肝心の教訓も、すっかり忘れた。
ただ、ゼウスが狼だったことだけは、しっかり記憶に残った。
いや、狼ではなかったのだが。
いつ、その間違いに気づいたのだろう。
大人になってから神話を普通に読んだし、『イーリアス』も『オデュッセイア』も読んだ。ゼウスはユピテルでありジュピターでもあると知り、知識はそれなりに増えた。
そのどこかで、気づいたはずだ。
「……狼は?」
私の知っているゼウスには、尖った耳と尻尾があったはずなのに。
どこにもいないのである。雷は投げるし、白鳥にも牛にも化けるのに、狼のゼウスだけが、いない。いや、いつの間にか消えたのではない。最初からいなかったのだ。
そこでようやく、「おおかみ」が「大神」だったと知ったのだと思う。
「ああ、偉い神様ってこと?」
分かってしまえば簡単だった。
けれど、どうにも納得がいかなかった。
小学校低学年向けの本ではあったが、漢字はちゃんと使われていた。「寓話」にだって、ふりがな付きで使われていたではないか。
なぜ、そこを「大神ゼウス」と書いてくれなかったのか。読み仮名さえあれば、私はちゃんと読めたはずだ。
よりによって、「おおかみ」である。
それは狼だと思うではないか。
画面では、『オデュッセイア』の宣伝が続いている。
トロイのヘレンはゼウスの娘。
今の私には、もちろん分かる。どのゼウスのことなのか、ちゃんと分かっている。
それでも、名前を聞くと、ときどき頭の片隅で狼が顔を上げる。
「呼んだか?」
呼んでいない。
けれど、子どもの頃に一度住みついた神様は、なかなか出ていってくれない。
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