第35話 闘いのハジマリ
そいつは、人間のようだ。そして性別は多分男だった。しかし、普通では無かった。
顔がどす黒く変色し気持ち悪あんばいで膨らんで血管が気持ち悪いくらい浮き出ている。そしてその膨らんだ顔はパンパンに張ってしまったせいであちこちにひび割れが発生している。
そこからは、得体の知れない、茶色い液体が垂れ流れている。
それどころか全身からもその液体が垂れ流れているようで、歩くたびに、その液体がねっとりと糸を引きながら床に音を立てて落ちる。
眼窩は落ちくぼみ、その奥の眼球は白く濁っている。濁っているけど見えるみたい。ギョロギョロと動き、目的物を把握している。今も眼が合ってしまった。
毛髪はかなりの割合で抜け落ちているようで、頭は、まだらに薄くなっていて、ひび割れた頭皮が覗けている。
全身から漂ってくる、吐き気を催す臭気がひどかった。
これが腐乱死体の臭い?
ちょっと間違えると胃の中のモノ全てをはき出しそうだ。
「やっと来たね、遅いよぉ」
鷲尾は、そう言い、僕を見る。
「新城君、覚えているかな? こいつの事を」
そう言われても、僕は全く思い出せなかった。
もっとも、原型を留めていないほどの顔をしているから、覚えてたって分かるわけないはずだけど。
「覚えていないか? まあ、古い話だからね」
鷲尾は、そいつを見た。
「教えてあげよう。彼は、林明彦っていう……。 名前だけでは思い出せないかな?
十数年前の通り魔事件の犯人だよ! いやっほーい」
鷲尾の解説に合わせて、そいつが笑った。顔の皮膚が引きつったため、ひび割れが広がり、そこから汚い汁が噴き出した。
開けた口には、歯が一本も生えていない。
僕は、思い出してしまった。過去に封印した記憶を。
林明彦……。
地下室のメモを書いた男。
やはり、こいつが僕を殺そうとした、あの時の通り魔だったのだ。
僕の動揺を見て、鷲尾が満足げに頷いた。
「思い出した……? そうなんだなあ、彼が君を殺そうとした男だよ、どーよ」
玲香の悲鳴が響き渡る。
彼女を見ると、恐怖に引きつり、心底怯えているのが分かった。
何故、彼女がこれほど怯えているのか。
「こいつが、僕を、僕を殺そうと。……そいつが何故」
「何故、彼だけがこんなに腐敗した、古い体にいるか?……だろ。
これはねえ、なんとこいつの希望なんだよ。
十数年前、こいつは掟を破り、街に出て行った。
ここの生活に嫌気が差していたんだろうな。一人旅に出たかったのかもしれない。 しかし、それがいけなかった。
我々は、人間の中に入っている時には、その人間のパーソナリティの影響をモロに受ける事が長年の研究により証明されている。
ここにいる時には、毎日の礼拝によりその影響を鈍化する事ができるんが、下界を彷徨う彼には、それができなかった。
そして、その限界が来た時、彼は、林明彦の獣性を制御できなくなった。彼は夢遊病者のようになり、あの凶行に及んだのだ」
鷲尾は、熱を帯びたようになっている。
「あの時、君さえ現れず、君が彼の逃走を邪魔しなければ、彼は無事に帰って来られたはずだ。しかし、君の妨害により、彼は警察に捕らえられた。
彼を解放するのに、我々はずいぶんと骨を折ったよ。
そして当然、彼は、その報いを受けさせられた。
彼は、君を激しく憎んだ。
あれ程メッタ刺しにしたのに、生きていた君への復讐を誓った。
そして、今回の入れ替えの時に、君もここへ来られるように、いろいろと細工をさせてもらったんだよ。
披露宴をこの日にしたり、車をいじったり、栗津という男に金をやったりね……」
友人の結婚式が変更になって、あの日になった事、ぼくのナビが妙なルートを選んだ事、
そして、玲香ちゃんの乗った車の故障、すべてが仕組まれた事だというのか?
僕は、混乱した。
「まあ、君のお陰で封印も解けたし、俺たちとしては、うれしい誤算だったけどね。……それは、どうでもいいことだ。
彼の望みを教えよう。
彼は、君の体に乗り移ることを希望している。
君の体に入り込み、君を乗っ取ることが、彼の復讐になるのだよ」
「ぶしゅしゅううっ」
林明彦が笑った。
笑うと言っても、口から息が漏れる音がするだけだ。茶色い液体が歯の隙間から垂れ流れ、床に落ちる。
それが一層不気味さを増す。
彼の右耳の穴から、ミミズのような生き物の一部がはみ出し、ウネウネ動く。
吐き気が襲ってくるとともに、恐怖が僕を襲った。
「おいおい、焦るなって。まずは、新城君の愛する玲香ちゃんの体を堪能し、半殺しにしてから、その後、乗り移って貰おうかな……」
最悪の状況だ。
僕たちは、絶体絶命。
武器も無く、体は拘束されている。
このままでは絶望的な死しかない!!
僕が死ぬのは、まあ、仕方ないって思う。
でもね、玲香だけは守らなければ!
そうはいっても、あんなミミズの化け物に耳の穴から入り込まれて、支配されてしまうなんてまっぴらごめんだけど。
なんとかしないと、なんとか。
僕はさりげなくまわりを見たんだ。
すると両脇にいる奴らは鷲尾と林のパフォーマンスに見とれているせいかなんだかぼんやりしているのがわかった。
チャンスだ。
ここしかない。
「うおりゃあ! 」
僕は、全力で体を左右に振った。左右の男達に渾身の頭突きを顔面にお見舞い。蹌踉けた二人に再度頭突き!
両脇を取っていた男達が、不意を突かれたためによろけた。
何としてでも玲香を助けるんだ。
その想いだけだった。
しかし、どうすればいい?
すぐに体勢を立て直した男達があわててこちらに向かってくる。
鷲尾も虚を突かれて、硬直していたが我に返ったのか、日本刀を掴み
こちらに向かってくる。
やばい、無駄だったか??
不意に閃いた。
そうだ! あの階段の窪みを押してみよう! 押せば何かが起こるに違いない。
セシリアは、危険だからやめておけと言われたが、もうそれしか無い。
驚くほど僕の体は、自然に動いた。
不自由な姿勢のまま、奴らの間をすり抜けていく。
「逃げる気かぁっっ!! 」
鷲尾が叫び、それに呼応するように唖然としていた他の連中も、僕を追いかける。
背後から迫る奴らの手を僕はかろうじて交わし、咄嗟に滑り込むとともに、スイッチのようなもののある窪みを蹴った。
……。
何も起こらない!
そんな馬鹿な……。
僕は、取り押さえられ、床に押しつけられた。