第12話 夢から覚めても、また夢
目が覚めると、全身から汗が噴き出ているのがわかった。
一体、何度この夢を見ればいいのだろうか?
終わりの始まり……。
そして、終わることのない悪夢。
その記憶はあまりに鮮明で、吐き気を催すほど不快で、怖くて、言いようのない気分だけを残す。
あの日を境に、全てが変わってしまった。
今更ながらそう思ってしまう。
あの日、あの時、あの場所にさえいなければ、そしてあんな行動をとらなければ、僕にはどんな運命が待ち受けていたんだろう。……何度も何度も、考えた。
病院のベッドの中で、リハビリ中に、学校で、職場で、アパートの暗闇で……。
そんな思いに囚われた自分に気づき、少し笑ってしまった。
本当には乾いた、カラカラに乾ききった笑い……。
何もかも、そう、すべてを受け入れて結論を出したのに、まだ後悔をしているなんて。
僕は小学生の時までに全ての運を使い切る宿命だったんだ。だからあの日まではありとあらゆるものが僕の味方だった。できないことなど何もなかった。……確かにそう思っていた。
それは天賦の才だとか、強運の持ち主だったとか、努力の賜なんて言えるようなものじゃ無かった。ただ、生まれながらに持っている貯金の一生分を一気に使い込んでいただけだということだったんだ……。
もっとうまくペース配分していたらあんなことはなかったのかもしれない。
僅かに痛む右腕を左手で押さえる。
もう二度と、昔のようにボールを投げられなくなった右腕……。それどころか人並みにさえ動きやしない。
10年以上も経つのに、未練がまだあるっていうのか……。
これでも、よく頑張ったと自分では思っている。
でも、もうこれ以上の辛抱は無理なんだ。
唯一の肉親である母が亡くなり、もう僕がいなくなっても悲しむ人は誰もいなくなった。
だから死を選ぶことにしたんだ……。
やっと楽になれる……。
本当は、今すぐここで死んでしまってもいいと思っている。
何もかもが面倒くさくなってる。
ふと、横を見ると、速水玲香が僕に肩にもたれ掛かるようにして微かな寝息をたてている。
「神様……。もし存在してるんなら、あと少しだけ、あと少しでいいからこのままでいさせてくれないかな……」
ため息をついて彼女の寝顔を見つめる。
ふとしたことで逝こうとする自分だけれど、最後にこの子だけは助けてあげたいという強い想いがあった。
速水玲香というアイドルを助けるヒロイズムから来る意志かもしれない。
彼女は確かに美しく、男が命を賭けるに相応しい人かもしれない。
でも、今僕が彼女を助けようとしているのはそういった感情からではなく、どうせ死んでしまう命なら、せめて最後に誰かの役に立ちたい、誰かを助けるのに使いたいと思っていたんだ。
……僕という人間が存在したことを、たった一人でいいから記憶しておいてほしい。
みんなから忘れられたいと思いながら、誰かに覚えていてほしいと思う相反する自分勝手な気持ちが今の僕にはあった。
そんなことを彼女に知られてはならないけど。
まさか僕が死のうとしてるなんて思いもよらないだろうけど、もし、そんなこと言ったら、彼女は怒ってくれるだろうか?
その時……。
唐突に食堂の電気が消えた!
閉めていた食堂の扉が音を立てて開く。
廊下の照明を背にして、人影が現れた。
ふう、やっとスタッフの連中が現れたか?
「やっと出てきたのか……。まったく、今まで何処に隠れていたんだよ! さっさと……」
僕は、現れた人影に声をかけかけて、途中で言葉を失った。
暗闇に目が慣れてくるにつれ、人影の正体が朧気なりに見えて来た。
少し猫背気味に歩いてくる。……おそらく男だ。
背丈は僕より10センチくらい高い……。180センチくらいだろう。
真っ黒なロングコートを着ている……。
両腕をだらりと垂らし、右足を引きずるようにゆっくりと歩いてくる。
そいつが尋常ではない事に気づいた。
廊下から洩れる光に照らされたそいつの顔は、薄暗い室内でもはっきりと認識できるほど変形し、右手には、巨大なナイフを手にしていたのだった。
ナイフというよりは鉈に近い。長さは40センチくらいはありそうな黒光りする刀身で、刃は先の方へ行くほど幅が広くなっている。
……ブッシュナイフとか山刀とかいうやつか?
「おいおい、まじかよ……。なんでまた現れやがるんだ」
僕は混乱しかかっている。
違う、明らかに混乱している。
現れた奴は、あの時のアイツと同じ格好をし、同じナイフを持っていた。
変形しているように見える顔は、マスクか何かを被っているのだろう。
そこが異なる処だ。それだけだ。
しかし、……ただの悪戯なのかもしれない。
そう思い、立ち上がろうとした。
刹那、尋常ではない殺気をそいつは放出した。
突風が僕の体を突き抜けたような気がした。
それは少年の頃、僕を襲った通り魔と同じ臭い、気配、悪寒がした。
僕の頭に警報が鳴り響く。
違う……。こいつは冗談じゃない。
こいつは、あの時と同じだ!
僕は、そいつを睨み付けながら、横で寝息を立てている少女を小突き、起こそうとする。
近づきつつある何者かから眼をそらさぬよう、手探りで横に置いてあったリュックからマグライトを取り出す。
このマグライトには、オプションの取っ手を付けてあり、状況によってはトンファーとして使えるようになっている。
護身用になんとなく買ったものが役に立つとは……。
これでブッシュナイフを持った奴とまともに戦えるかどうかなんて、分かりっこない。
「うにゃにゃ、……どうしたの」
僕は、彼女の問いに答えることなく体勢を整えた。
寝ぼけた彼女が入り口を見て悲鳴を上げるのとやつがこちらに襲いかかって来るのは、ほとんど同時だった。
先ほどまでの緩慢な動きとは別人のような加速を見せ、一気に僕たちとの距離を詰めてくる。
右手のブッシュナイフが振り下ろされる。
かわすことはできない。
避ければ、ナイフが彼女を直撃してしまう。
考える暇は、無かった!
咄嗟に一歩前に飛び出すと、僕は、右手に力を込めた。
右手に持ったマグライトを前につきだし振り下ろされるブッシュナイフを受け止める。
甲高い金属音がし、激しい衝撃が僕の右手に伝わる。
僕は、即座に殺人鬼を力任せに蹴り飛ばした。
思いもよらず、あっけなく奴はよろめき、尻餅をついた。
今がチャンスだ。
「玲香! 逃げるぞ」
彼女の手を掴むと駆け出す。
背後であいつが起きあがる気配を感じたが、後ろを振り返る余裕などない。
あいつは、本気で殺そうとしてきた。
……一体何者なんだ。
今は、そんな事考えている場合じゃ無い!! とにかく、今は逃げるしかない。
外は大雨だが、ここにいたら、あいつに殺されるだけだ!!
土砂降りの中だろうが、ここよりは遙かに安全なのだ。
僕たちは、玄関へと走った。
とにかく、外へ逃げるんだ!
外に出れば、森の中に逃げ込むなりできる。
この夜の大雨では奴も僕たちを見つける事なんてできないはず。
玄関にたどり着き、鋼鉄製の扉の取っ手を掴むと、思いっきり開け放った。
………………。
開け放ったつもりだった。
しかし、扉はびくともしなかった。
なにかでロックされている。鍵は、掛かっていないというのに!!
何度か体当たりをするが、開く気配すら無かった。
「どうなってるんだ、何故開かない!!」
押したり引いたりしてみるが、微動だにしない。
「くそ! くそっ! 何で開かないんだ!! 」
「新城さん! 」
叫び声に振り返ると、あいつが食堂から出て来ようとしていた。
まるで急ぐでもなく、ゆっくりと歩いてくる。
獲物を追い詰めるように、油断無く近づいてくる。
廊下の明かりに照らされた奴の顔は、やはり仮面だった。
薄気味悪いB級ホラーに出てきそうな奇形児の顔だ。
それも仮面の鼻から下の部分を引きちぎったようになっている。
鼻から下は本物のはずなのに、その部分のほうが何か邪悪に感じさせる。
……悪趣味だ。見かけもそうならやることもそうだ。
ただ、マスクの奥から覗く瞳は、僕を戦慄させるに十分だった。
うつろな、何の感情も見えてこないどんよりとした色合いの死んだような瞳。
暗い暗い闇しか見えてこない瞳。
あの瞳は。
……あの時の記憶が再び蘇ってくる。
まさか、まさか、まさか!!
悪趣味な外見よりさらに恐ろしいものを見てしまったように、僕は全身から血の気が引いていくのを感じていた。
このままでは奴の負の気に飲まれてしまう。
頭を何度も振り、声を上げる。
「玲香! 走るぞ」
僕たちは、再び走った。
すんでのところであいつを交わし、奥へと逃げた。
廊下の突き当たりを右に曲がり、転びそうになりながら二階への階段へと全速力で走る。
段を上ったところで、僕たちは立ち止まった。
耳を澄ませ、あいつがこちらに来るかどうかを確認する。
ナイフの一撃を受けた右手が痺れている。
本気で殺そうとしたのだ。
ガサガサ、……ガサガサ。]
あいつがゆっくりと歩いてくる音がする。
「新城さん、どうするの?」
「とにかく、逃げるしかない」
逃げると言っても、どこへ逃げればいいのか?
玄関は、完全にロックされている。
かといって、どこかに隠れたところで、奴に見つかったら、逃げ場が無い。
二階を対角線に移動し、もう一つの階段で一階に行き、奴をやり過ごすしかないだろう。
僕たちは足音を忍ばせて、階段へと向かう。
再び一階に下りると、側の窓で立ち止まった。
錆び付いた鉄格子がガラス越しに見える。
さっき見て回った限りでは、全ての窓に鉄格子があった。
その時は何も思わなかったが、まるで誰かを幽閉するためのようじゃないか。
窓ガラスを割ったところで、鉄格子を除けない限り、ここからの脱出は不可能だ。
必死で逃げようとする獲物をあざ笑うように追い回し、殺戮する。
それが目的なのか?
このまま、僕たちはあの殺人鬼と追いかけっこをし続けなければならないのか?
それをいつまで続ければいい?
……朝までか?
そんなの体力的に不可能だ。
近づく足音を察知し、僕たちは再び別の階段へと忍び足で歩いていった。
!!
廊下を曲がった瞬間、そこには、あいつが立っていた。
背後で悲鳴が上がる。
いつの間にこっちに回り込んだんだ? 僕たちに気づかれる事無く、どうやって回り込んだんだ?
「ウガガッゴ!! ヘホウー」
奇声を上げながら左右に奇妙な動きでステップをする。
あいつはブッシュナイフを振り上げた。
奴は、この鬼ごっこを楽しんでいるに違いない。
クソッ、何とかしなければ……。
何とかして逃げないと! このままでは、やられるだけだ。
僕たちが動こうとするたび、奴は、刀身をこちらに突き出して、玄関の方へ逃げようとする僕たちを威嚇する。
……遊んでいるのだ!
それにしても、さっきと比べて、奴は驚くほど動きが素早くなった。
こんなに素早く動けたのか! ジリジリと追い込まれていく。
何度か殺人鬼の横をすり抜けて玄関へと行こうとするが、奴は軽やかなステップで左右に移動し、ことごとく邪魔された。
……どうにもならない
もはやトイレか一番手前の部屋に逃げ込むしかないようだ。 他の二つの部屋には何も無かったから、バリケードは、築けないのだ。
「玲香、走るぞ」
僕は彼女の腕を掴むと、トイレの方へと走った。
「そっちは行き止まりじゃ?」
「逃げ道はないんだ」
殺人鬼が、ゆっくり歩いて来る気配を感じた。
僕たちは、トイレに飛び込む。