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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

NO TRACE ―影を追う者―

NO TRACE ―影を追う者― III 封鎖された街

作者: ゴヘイ
掲載日:2026/09/19

第一章 最初の患者


NO TRACE調査事務所に掛かってきた電話の向こうで、三島由佳は何度も「夫がいないんです」と繰り返していた。


ただ連絡が取れないという話ではなかった。由佳の夫である三島啓介は、前日の夕方、勤務中に突然四十度近い高熱を出して救急搬送されている。搬送先の病院からも感染症の疑いがあるため隔離すると連絡があり、由佳自身も電話越しに夫の声を聞いていた。


「少し息が苦しそうでした。でも、意識はちゃんとしていました。『心配するな。すぐ帰る』って、それが最後だったんです」


冬馬は電話を肩と耳の間に挟み、机の上へ開いたノートに夫の氏名や勤務先を書き込んでいった。


「今朝になって病院へ問い合わせたら、どうなりました?」


「三島啓介という患者は入院していないって言われました。昨日運ばれたばかりなのに、そんなはずないでしょう?」


「救急搬送の記録は?」


「消防にも問い合わせました。でも、主人を運んだ記録自体がないと言われました」


その答えを聞いた瞬間、冬馬のペン先が止まった。


第二巻で追った水城姉弟の事件と酷似している。人間が消えたのではなく、その人間が存在したことを示す記録から先に消されていく。


「勤務先には確認しましたか」


「昨日会社にいたことは皆さん覚えているんです。でも、なぜか昨日の勤怠記録だけが消えているそうです」


冬馬は壁に貼られた水城遼や高瀬修の写真へ視線を向けた。


「分かりました。病院から調べます」


由佳は少し黙ったあと、不安を隠しきれない声で訊いた。


「主人は、生きているでしょうか」


「今の段階では分かりません」


希望だけを与えるために嘘をつくつもりはなかった。


「ただ、昨日まで存在していたことを覚えている人がいる。なら、追える痕跡もまだ残っています」


電話を切ると、冬馬はすぐに久世慎吾へ連絡した。


三島啓介が搬送された東城中央病院へ到着した頃には、正面玄関付近で既に小さな混乱が起きていた。高熱と咳を訴える患者が次々と運び込まれ、医療スタッフは急造された防護装備で対応している。待合室のテレビには、市内の複数地域で原因不明の発熱患者が確認されたという速報が流れていた。


受付で三島啓介の名前を出しても、やはり記録は見つからなかった。


しかし、冬馬が救急搬入口へ回ると、一般の患者が利用しない通路の奥に新しい隔離区画が設置されているのが見えた。床には大量の消毒液を使用した跡が残っている。


そこへ入ろうとしたところで、背後から久世の声が飛んできた。


「勝手に立入禁止区域へ入るな」


冬馬は振り返ることなく答えた。


「遅い」


「呼び出した本人に言われたくないな」


久世は冬馬の横へ並ぶと、病院の奥へ注意を向けながら声を落とした。


「同じ症状の患者が市内で十七人確認されてる。年齢も職業もばらばらで、今のところ共通する感染経路は見つかってない」


「三島啓介は?」


「患者としての記録は消えてる。ただ、昨日この病院へ入ってきた救急車を見た職員はいる」


冬馬は隔離区画へ目を向けた。


「記録だけが消されたか」


久世が頷いた時、院内放送が流れた。


原因不明の感染症が拡大している可能性があるため、不要不急の外出を控えるよう呼び掛ける内容だった。


冬馬の携帯が震えた。


非通知だった。


通話をつなぐと、低く落ち着いた男の声が聞こえてきた。


『榊冬馬』


「誰だ」


冬馬は病院内を見回しながら訊いた。


『探偵なら、俺を見つけてみろ』


男の声には興奮も焦りもない。まるで、これから始まる実験の説明をしているようだった。


『この街が死ぬ前にな』


「名前は?」


数秒の沈黙を挟んで、男は答えた。


『CARRIER』


通話はそこで切れた。


冬馬が携帯を下ろすと、窓の外へまた一台の救急車が到着するのが見えた。そのさらに向こうでは、警察車両が交差点へ集まり、道路の封鎖を始めている。


これまでの事件では、一人の人間が社会から消された。


今回は違う。


冬馬は徐々に閉ざされていく街を見ながら、敵が狙っているものが個人ではないことを感じ始めていた。


---


第二章 封鎖線


翌朝には、市内中心部へ通じる主要道路のほとんどに検問所が設けられていた。


鉄道の一部区間は運休し、バスターミナルも閉鎖されている。普段なら通勤客で埋まる駅前では、帰宅を急ぐ人々と食料を買い込もうとする人々が行き交い、大型モニターでは行政が繰り返し冷静な行動を呼び掛けていた。


冬馬と久世はNO TRACEの壁へ大きな市街地図を貼り、確認された感染者の生活圏と発症地点を一つずつ書き込んだ。


「最初の十七人に加えて、昨夜から二十三人増えた」


久世は赤い印が散らばった地図を見ながら、苦い顔をした。


「共通の飲食店もないし、利用していた交通機関も一致してない。職場も住所もばらばらだ」


冬馬は印の位置を指で辿った。


「自然に広がったにしては、発生地点が離れすぎてる」


「意図的にばら撒かれたと思うか?」


「まだ断定はできない。でもCARRIERがわざわざ連絡してきた以上、偶然じゃないだろうな」


冬馬は別の資料を取り出した。


真鍋恭介、五十二歳。感染症研究を専門とする科学者で、三か月前までHELIX系列の研究施設に所属していたが、現在は所在不明になっている。


久世は顔写真を見つめた。


「この男が作ったウイルスじゃないのか」


「そう思わせたい可能性もある」


「随分慎重だな」


「条件が揃いすぎてる。逃亡した感染症研究者がいて、その直後に街で感染症が広がるなんて、犯人を一人に絞らせるには分かりやすすぎる」


午後、冬馬は真鍋が最後に勤務していた研究施設へ向かった。


施設は閉鎖されていたものの、廃棄予定の紙資料までは完全に処分されていなかった。研究室の机の裏に挟まっていたメモには、《M.K. 19:30 東五倉庫》と書かれていた。


その日の午後七時半。


冬馬が東五倉庫へ入ると、油と湿った木材の臭いが鼻についた。


内部に人影はない。


だが、奥から足音が聞こえた。


黒いコートを着た男が暗がりから現れる。


冬馬は声を聞く前に、相手が誰なのか理解した。


「CARRIER」


男は口元を僅かに緩めた。


「覚えていたか」


「真鍋はどこだ」


「それを知っていたら、お前を呼ぶ必要はない」


冬馬は男を注意深く見た。


「お前も真鍋を探しているのか」


「質問が早すぎる」


男の身体が変化し始めた。


灰色の生体装甲が胸部から肩へ広がり、背中には複数の管状器官が形成されていく。口元を覆う器官は呼吸器にも見えるが、その内部では何かが脈打っていた。


冬馬も変身した。


CARRIERは床を蹴ると、一気に距離を詰めてきた。


右拳が冬馬の顔面へ向かう。


冬馬は上体を外へずらしてかわしながら、空いた脇腹へ掌底を入れた。だがCARRIERは僅かに身体を揺らしただけで踏みとどまり、反対の腕を下から振り上げてきた。


冬馬は前腕で受け止めたものの、予想以上の重さに腕が跳ね上がる。


その直後、腹部へ蹴りが入った。


冬馬は数歩後方へ押し戻された。


距離が開くと同時に、CARRIERの背中にある器官が開いた。


白い霧が噴き出す。


冬馬は呼吸を止め、横へ大きく跳んだ。


霧が床へ広がる。


「毒か」


冬馬が訊くと、CARRIERは笑った。


「吸ってみれば分かる」


「遠慮しておく」


冬馬は今度はこちらから距離を詰めた。


顔面への右拳を見せる。


CARRIERが防御のため腕を上げた瞬間、冬馬は拳を途中で引き、身体を低く沈めた。相手の腰へ腕を回し、前へ出ていた勢いを利用して床へ投げる。


CARRIERの背中が床へ叩きつけられた。


冬馬はすぐに腕を取り、関節を固定した。


「真鍋を何のために探してる」


「街を救うためだ」


予想外の返答に、冬馬の力が僅かに緩んだ。


その瞬間、CARRIERの背中から再び霧が噴き出した。


冬馬は反射的に手を離した。


視界が白く染まる。


数秒後、霧の外へ出た時には、CARRIERの姿は消えていた。


床には研究員証が一枚落ちていた。


真鍋恭介。


裏には手書きの文章がある。


《私は犯人ではない》


冬馬はそれを拾い上げた。


自分だけではない。


CARRIERも真鍋を探している。


その理由までは、まだ見えなかった。


---


第三章 逃げた科学者


封鎖二日目の朝には、感染者数が百人を超えていた。


それほど急速に患者が増えているにもかかわらず、確認された死者は一人もいなかった。


冬馬はその数字に違和感を覚えた。


重症者はいる。高熱も呼吸器症状も激しい。それでも致死性だけが不自然に低い。


大量殺人が目的なら、あまりにも効率が悪い。


「殺すことが目的じゃないのかもしれない」


久世が冬馬の言葉に顔を上げた。


「じゃあ、何のために街を封鎖させる」


「それを調べてる」


冬馬は真鍋の過去の研究論文を机へ広げた。


元々、真鍋が研究していたのは感染症そのものではない。


未知の病原体へ短時間で対応できる免疫誘導技術だった。


人を感染させるためではなく。


人を救うための研究。


ところがHELIXへ研究権が移った時期から、一部の実験記録が消えている。


午後、真鍋が逃走時に利用したと思われる車両が発見された。


車内には複数の記憶媒体が残されていた。


その一つに音声データがある。


『これは人間へ感染を広げるために作ったものではない。逆だ。感染を抑えるための研究だった』


真鍋の声だった。


『だが彼らが見ているのは病原体ではない。病気へ直面した人間が、何をするかだ』


録音はそこで途切れた。


冬馬は最後の部分をもう一度再生した。


病気へ直面した人間が何をするか。


その日の夕方。


感染症そのものとは別の事件が起きた。


スーパーで咳をした男性が「感染者だ」と決めつけられ、複数の客から暴行を受けた。


男性の検査結果は陰性だった。


その翌日には、感染者が一人出ただけの集合住宅全体がインターネットで名指しされ、住民が近隣の店から入店を拒否された。


水道水から感染する。


行政が死者を隠している。


特定の人種だけが感染源になっている。


科学的根拠のない情報が、猛烈な速度で拡散していった。


冬馬は複数の投稿を比較した。


内容は少しずつ違う。


だが、最初の投稿時間と使用されている画像に規則性がある。


偶然広がっているのではない。


誰かが火を点けている。


そこへ一般の人々が情報を付け足し、自分たちで炎を大きくしている。


冬馬はスマートフォンを机へ置いた。


CARRIERが広げているのは病原体だけではない。


恐怖そのものを感染させようとしている。


---


第四章 CARRIER


CARRIERを再び見つけたのは、封鎖区域内にある高層ビルの屋上だった。


冬馬が扉を開けると、CARRIERはフェンスの近くから街を見下ろしていた。


道路は検問所によって分断され、駅前では食料品を求める人々が列を作っている。遠くでは救急車が何台も走っていた。


「随分楽しそうに見てるな」


冬馬が声を掛けると、CARRIERは振り返らずに答えた。


「面白いと思わないか」


「何が」


「人間だよ」


ようやく振り返った男の顔には、笑みらしいものが浮かんでいた。


「感染者を避け、知らない人間を疑い、食料を奪い合い、根拠のない情報を広げる。病原体が一人へ感染する間に、恐怖は何百人にも広がる」


「だからデマを流したのか」


「俺はきっかけを与えただけだ。信じて広げたのは人間自身だ」


冬馬は小さく息を吐いた。


「便利な言い訳だな」


CARRIERの表情から笑みが消えた。


身体が異形へ変わる。


冬馬も続いて変身した。


先に動いたのはCARRIERだった。


低い姿勢から一気に踏み込み、冬馬の腹部へ拳を打ち込もうとする。


冬馬は左腕を下げて拳を受け流し、身体が横へ抜ける前に右拳を顎へ返した。


CARRIERは首を捻って直撃を避けたが、拳が頬の外殻を掠めた。


冬馬はそのまま追撃し、左肘を胸部へ打ち込む。


CARRIERは両腕で防ぎながら後退し、冬馬の腹を蹴って間合いを作った。


背中の器官が開く。


白い霧が広がった。


冬馬は風向きを確認しながら横へ走った。


CARRIER自身も霧の中へ姿を消す。


視界だけを頼りにすれば、確実に遅れる。


冬馬は触角へ意識を集中した。


屋上を吹く風。


金属フェンスの振動。


靴底が床を蹴る小さな音。


左。


冬馬が振り向いた瞬間、CARRIERの拳が迫っていた。


冬馬の右腕と相手の腕が正面からぶつかる。


衝撃が肩まで響いた。


その時。


下の道路から怒鳴り声が聞こえた。


冬馬は一瞬だけそちらを見た。


数人の人間が、一人の男を取り囲んでいる。


「感染者だ!」


誰かが叫び、男を突き飛ばした。


男は必死に否定している。


それでも周囲の人々は聞こうとしない。


CARRIERが冬馬の視線に気付いた。


「どうする?」


冬馬は相手へ顔を戻した。


「何が」


「俺を追えば、あの男は殴られる。あの男を助ければ、俺は逃げる」


CARRIERの声音には、明らかに試す響きがあった。


「選べ」


冬馬は一秒も迷わなかった。


フェンスを越える。


ビルの側面にある非常階段へ着地し、そのまま何階分もの階段を一気に駆け降りていく。


「榊!」


背後からCARRIERの声が聞こえたが、冬馬は振り返らなかった。


路上へ降りると、男を殴ろうとしていた人物の腕を掴んだ。


「やめろ」


「そいつ感染してるんだぞ!」


「検査したのか」


誰も答えなかった。


冬馬は異形の姿のまま周囲を見回した。


「何も確認せず、怖いから殴っただけだろ」


人々は冬馬の姿に怯え、少しずつ離れていった。


助けられた男は路上へ座り込んだまま震えている。


冬馬が屋上を見上げた時には、CARRIERの姿は消えていた。


それでも後悔はなかった。


逃がした敵より。


今、目の前で傷付けられようとしていた人間を選んだ。


もしそれさえCARRIERの観察対象だったとしても、選んだのは冬馬自身だった。


---


第五章 恐怖という感染


封鎖三日目になると、街の表情は明らかに変わっていた。


スーパーでは保存食を巡って客同士が言い争い、ドラッグストアには開店前から長い列ができていた。感染者が出た地域の住民を乗車拒否するタクシーまで現れ、医療従事者の家族が周囲から距離を置かれる事例も増えている。


感染症が身体へ入るより早く。


恐怖が人間関係へ入り込んでいた。


夜。


CARRIERから電話があった。


『気付いたか』


「何に」


『病原体より速いものだ』


冬馬は相手の言葉を聞きながら、背景音へ注意を向けた。


風の音。


広い空間に響く反響。


そして。


一定間隔で鐘が鳴っている。


冬馬は壁の地図へ目を向けた。


封鎖地域内に残る古い教会。


「そこで待ってろ」


『何?』


冬馬は通話を切った。


旧教会へ到着すると、礼拝堂の照明はほとんど消えていた。


祭壇の前にCARRIERが立っている。


「真鍋はどこだ」


冬馬が訊くと、CARRIERは呆れたように笑った。


「会うたびにそれだな」


「お前も探してるんだろ」


CARRIERの表情が初めて変わった。


冬馬は一歩近づいた。


「真鍋を捕まえているなら、俺に探させる必要はない。お前も居場所を知らない」


数秒の沈黙のあと、CARRIERは肩をすくめた。


「正解だ」


「HELIXも探してるな」


「それも正解だ」


冬馬の中で、ばらばらだった線がつながり始めた。


自分。


CARRIER。


HELIX。


三者が同じ人間を追っている。


「真鍋が持っているものは何だ」


CARRIERはしばらく冬馬を見つめたあと、低い声で答えた。


「この街を終わらせられるものだ」


「ウイルスか」


「逆だ」


冬馬の目が鋭くなった。


「対抗手段を持ってるのか」


CARRIERは答えず、異形の姿へ変化した。


その沈黙だけで十分だった。


冬馬も変身する。


CARRIERが長椅子の間を一気に詰めてきた。


冬馬は右拳を外側へかわしながら相手の脇へ入り、肘を肋骨へ打ち込んだ。


CARRIERの身体が横へ流れ、木製の長椅子へぶつかる。


木材が割れた。


しかしCARRIERは倒れた長椅子を蹴り上げ、破片で冬馬の視界を塞ぐ。


その陰から低い姿勢で突進し、肩を冬馬の腹へ入れた。


冬馬は後方の柱へ背中から激突した。


息が詰まる。


CARRIERが追撃の拳を放つ。


冬馬は柱へ片手をつきながら身体を横へ逃がした。


拳が石柱へ食い込み、表面が砕ける。


冬馬はすぐ背後へ回り、首ではなく肩口へ回し蹴りを入れた。


CARRIERが床へ倒れる。


冬馬は腕を取り、背中側へ捻り上げた。


「真鍋はどこだ」


「知らないって言っただろ」


「なら、どこへ行くと思ってる」


CARRIERは床へ押さえつけられながら笑った。


「俺より先に、HELIXが見つける」


その瞬間。


教会の窓ガラスが割れた。


銃声が響く。


冬馬はCARRIERから手を離し、横へ跳んだ。


弾丸が床へ食い込む。


黒い装備を着た男たちが複数、割れた窓と入口から入ってくる。


HELIX。


CARRIERは立ち上がりながら言った。


「ほらな」


冬馬は周囲の敵を見た。


自分。


CARRIER。


HELIX。


真鍋を追う三者が。


とうとう同じ場所へ集まり始めていた。


---


第六章 見えない依頼人


真鍋恭介は、冬馬へ助けを求めた依頼人ではなかった。


それでも、街を救うためには彼を見つけなければならない。


教会で倒したHELIXの工作員が持っていた端末を久世が解析すると、真鍋が最後に通信した地点の一つが旧地下水処理施設付近であることが分かった。


冬馬は一人で現場へ向かった。


長く使用されていない地下施設には湿気が籠もり、壁沿いを走る太い配管からは一定の間隔で水滴が落ちている。足元へ溜まった浅い水へ靴を入れるたび、小さな音が暗い通路へ響いた。


最奥の管理室へ入ったところで、人が床へ座り込んでいるのを見つけた。


汚れた白衣。


伸びた髭。


冬馬が写真で確認していた男だった。


「真鍋恭介」


男は驚いて顔を上げ、壁際まで後ずさった。


「HELIXか」


「違う」


冬馬は名刺を床へ滑らせた。


真鍋は拾い上げ、そこに書かれた文字を見た。


「探偵?」


「そうだ」


「こんな状況で?」


「依頼人の夫が感染した」


真鍋の表情が変わった。


「症状は」


冬馬が三島啓介の症状と経過を説明すると、真鍋は両手で顔を覆った。


「やはり使ったのか……」


「何を」


しばらくして、真鍋は顔を上げた。


「私が作った」


冬馬は黙って続きを待った。


「正確には、私が作った技術をHELIXが変えた。元々は新型感染症へ迅速に免疫反応を起こすための研究だったんだ。感染させるためじゃない」


真鍋は震える手で頭を抱えた。


「研究データを渡した時には、医療技術として使われると思っていた。だが連中は、人為的に感染を制御できる部分だけを抜き出した」


「対抗手段は?」


「ある。ただし完成していない」


冬馬は真鍋を見据えた。


「完成させろ」


真鍋は首を横へ振った。


「私は人殺しだ」


「まだ死者は出てない」


「これから出る!」


真鍋は突然声を荒らげた。


「私が作ったものなんだ! 私があいつらへ渡した!」


冬馬は立ち上がった真鍋を見ても、声を荒らげなかった。


「だったら、なおさら止めろ」


「何?」


「罪悪感で逃げ続けても感染者は治らない。自分を責めるのは後でいくらでもできる」


真鍋が冬馬を見る。


「今は、自分が作った知識を使え」


真鍋の表情が揺れた。


その時。


通路の奥で水を踏む音がした。


冬馬はすぐに振り返り、真鍋の前へ立った。


暗闇からCARRIERが現れた。


「やっと見つけた」


真鍋の顔から血の気が引く。


冬馬は相手との間へ身体を入れた。


CARRIERが変身する。


冬馬も続いた。


地下施設は狭く、霧を使われれば逃げ場が少ない。


案の定、CARRIERは最初から背中の器官を開き、白い霧を通路いっぱいへ噴き出した。


冬馬は真鍋の身体を抱えるようにして横の管理室へ押し込んだ。


「奥へ走れ!」


真鍋が走り出す。


冬馬は追おうとするCARRIERの前へ立った。


振り抜かれた拳を前腕で受け、すぐ肘を胸へ返す。


CARRIERは身体を捻ってかわし、膝を冬馬の腹部へ入れた。


強い衝撃で身体が折れる。


冬馬はそのまま倒れず、相手の脚を両腕で抱え込んだ。


CARRIERが片脚になった瞬間、冬馬は軸足を払った。


相手が背中から床へ落ちる。


冬馬は上へ乗り、拳を振り上げた。


だが顔面へ打ち込む直前に止めた。


「何のために真鍋を探してる」


CARRIERは下から冬馬を見た。


「街を完成させるためだ」


「どういう意味だ」


その答えを聞く前に。


施設の別方向で爆発が起きた。


冬馬が振り返る。


煙の向こうからHELIXの工作員が現れ、真鍋を取り押さえていた。


「榊!」


冬馬はすぐにCARRIERから離れた。


だが遅かった。


工作員たちは真鍋を別通路へ引きずり、そのまま車両用の出口へ消えていく。


冬馬とCARRIERは同時にそこを見た。


二人とも。


HELIXに一歩先を行かれた。


---


第七章 追跡者は三人


真鍋を乗せたと思われるHELIXの輸送車は、封鎖区域の北側へ向かっていた。


冬馬はバイクで車両を追った。


幹線道路へ入ったところで、輸送車の窓から銃口が現れた。


冬馬は車体を左へ傾けた。


弾丸がすぐ横の路面へ当たり、小さな火花を散らす。


二発目。


今度は右へ。


距離を縮める。


冬馬は輸送車の後部へ接近すると、アクセルを固定して一度ステップの上へ立ち上がった。


タイミングを合わせる。


車体が並ぶ。


冬馬はバイクから跳んだ。


輸送車の屋根へ両手をつき、そのまま身体を引き上げる。


無人になったバイクは道路脇へ倒れて滑っていった。


冬馬が屋根を移動すると、側面の窓から工作員が拳銃を向ける。


冬馬は屋根へ身体を伏せた。


弾丸が頭上を抜ける。


そのまま窓の上へ移動し、踵でガラスを蹴り割った。


車内へ入る。


最初の工作員が拳銃を構える。


冬馬は銃を握る手首を掴み、銃口を天井へ押し上げた。


発砲音。


そのまま肘を腹部へ入れる。


男が前屈みになる。


二人目がナイフを突き出す。


冬馬は刃先を外側へかわし、手首を捻って腕を背中側へ固定すると、身体ごと車内の壁へ押しつけた。


輸送車が激しく蛇行する。


冬馬は座席へ片手をついて体勢を保った。


その時。


屋根へ何かが着地する大きな音がした。


次の瞬間。


天井の一部が破られ、CARRIERが車内へ降りてきた。


「お前も来たか」


冬馬が言うと、CARRIERは答える代わりに拳を放った。


冬馬は腕で受け止めた。


走行する狭い車内で二人がぶつかる。


CARRIERは冬馬の肩を掴み、割れた窓の方へ押し込んだ。


冬馬は窓枠へ片足をついて踏ん張り、相手の脇腹へ肘を入れる。


CARRIERの力が緩んだ。


続けて胸へ蹴りを入れる。


CARRIERは割れた窓から半身を外へ出したが、すぐに屋根の縁を掴んで落下を免れた。


冬馬は後部の荷台へ向かった。


扉を開ける。


誰もいない。


真鍋の姿はなかった。


「囮か」


屋根へ戻ったCARRIERが聞き返す。


「何?」


冬馬は運転手の襟を掴んだ。


「真鍋はどこだ」


運転手は苦しそうに笑った。


「最初から乗ってねえよ」


CARRIERの表情から余裕が消えた。


怒りに任せて車内の壁を殴る。


金属板が大きくへこんだ。


冬馬は男の反応を見ながら考えた。


HELIXは最初から、冬馬とCARRIERがこの車を追うことを想定していた。


なら。


真鍋は別の場所へ運ばれている。


どこへ。


冬馬は真鍋の話を思い出した。


完成していない対抗技術。


残された研究データ。


「旧研究棟だ」


CARRIERが顔を上げる。


「何?」


「真鍋が元々いた研究所だ。対抗手段を完成させるのに必要なデータが残ってるなら、HELIXはそこへ連れていく」


CARRIERは何も言わなかった。


だが。


同じ答えへ辿り着いたことは表情を見れば分かった。


味方ではない。


目的も違う。


それでも。


今だけは。


二人の追う先が同じだった。


---


第八章 罪を作った男


旧研究棟には、予想した以上の人数が配置されていた。


冬馬が裏口から侵入すると、廊下の角で警備員と鉢合わせた。


男が拳銃を抜く。


冬馬は変身しながら射線を外れた。


発砲。


弾丸が肩の外殻へ当たり、火花が散る。


装甲が防いでくれるとはいえ、衝撃そのものが消えるわけではない。


冬馬は痛みに構わず距離を詰めた。


銃身を掴んで上へ向け、空いている手で胸部へ掌底を打ち込む。


男の身体が壁へぶつかる。


別の工作員が横から拳を放った。


冬馬は頭を沈めてかわし、相手の身体が流れたところへ肘を腹部へ入れた。


男が膝をつく。


冬馬はそれ以上攻撃せず、地下研究室へ向かった。


最奥の実験室。


真鍋は椅子へ拘束され、複数の研究員が端末からデータを抽出している。


冬馬は扉を蹴破った。


「真鍋!」


真鍋が顔を上げた。


「榊!」


研究員たちは一斉に逃げようとしたが、冬馬は追わず、まず真鍋の拘束を外した。


「対抗手段は?」


「ここに基礎データがある」


真鍋は端末へ走った。


「これさえ持ち出せれば完成させられる」


「急げ」


データの転送が始まる。


その時。


天井が大きく破れた。


瓦礫と一緒にCARRIERが降りてくる。


真鍋の顔が強張った。


「そのデータを渡せ」


CARRIERが言った。


冬馬は真鍋の前へ立った。


「何に使う」


「終わらせる」


「街を?」


「実験をだ」


冬馬の動きが僅かに止まった。


CARRIERは冬馬を見た。


「HELIXはこの街を観察している。だが、見ているのは奴らだけじゃない。俺も見ている」


「何を証明したい」


CARRIERの眼が僅かに細くなった。


返事の代わりに。


踏み込んできた。


冬馬は拳を前腕で受けた。


すぐに左拳を胸へ返す。


CARRIERは両腕で防ぎながら一歩下がった。


冬馬は追う。


右膝を腹部へ入れる。


CARRIERの身体が前へ折れる。


だが相手も冬馬の背中へ肘を打ち下ろした。


冬馬は床へ片手をつきかけたものの、その姿勢から脚を横へ払った。


CARRIERの膝が崩れる。


「取れた!」


真鍋の声。


冬馬が振り返ると、端末の転送が完了している。


「行くぞ」


冬馬は真鍋の肩を抱え、研究室の窓へ向かった。


真鍋が目を見開く。


「三階だぞ!」


「階段を使ってる時間がない」


窓を蹴り破る。


真鍋を抱えたまま飛び出す。


落下。


着地の直前。


冬馬は両脚を深く曲げ、衝撃を全身へ逃がした。


足元のコンクリートが僅かに割れる。


真鍋は言葉を失っていた。


背後で研究棟が爆発する。


HELIXがまた証拠を消し始めた。


二人は走った。


真鍋は息を切らしながら訊いた。


「何で私を責めない」


冬馬は前を見たまま答えた。


「責めるのは後でできる」


「でも私は――」


「今は街を救え」


その言葉に。


真鍋は黙った。


握っている端末へ目を落とす。


自分が何をしたのかは消えない。


それでも。


今から何をするかは。


まだ選べる。


---


第九章 選ばせる怪人


真鍋が対抗処置の製造準備に入った直後、冬馬の携帯へCARRIERから連絡が入った。


『二つある』


「何が」


『真鍋を守るか、避難所を救うかだ』


冬馬の表情が変わった。


市立体育館には、封鎖区域から避難した千人以上の人間が集まっている。


「何をした」


『換気設備へ仕掛けた。真鍋の居場所を離れればHELIXが取る。ここに残れば、避難所にいる人間が感染する』


冬馬はすぐ隣にいた久世へ視線を向けた。


「体育館へ行ってくれ」


久世は説明を求めなかった。


冬馬の顔を見ただけで緊急事態だと理解した。


「分かった」


CARRIERが電話越しに笑った。


『他人へ任せるのか』


「当たり前だ」


『自分で両方救わないのか?』


冬馬はコートを羽織った。


「俺は神様でもヒーローでもない」


少し間を置いて続ける。


「探偵だ」


電話を切った。


指定されたビルの屋上へ着くと、CARRIERは既に待っていた。


「つまらない答えだった」


「お前が勝手に二択にしただけだ」


CARRIERが変身する。


冬馬も深緑の姿へ変わった。


拳が飛んでくる。


冬馬は右へ身体をずらし、その腕を掴んで前へ引いた。


CARRIERの重心が前へ移る。


肩を腹部へ入れ、勢いのまま投げる。


だがCARRIERは受け身を取り、すぐに立ち上がった。


白い霧が広がる。


屋上は風が強い。


冬馬は霧の流れる方向を見た。


風下へ逃げるのではなく、風上側へ大きく回り込む。


CARRIERも追う。


二人は屋上の端へ近づいた。


CARRIERの両手が冬馬の胸を押す。


足元が滑る。


片脚が屋上の外へ出た。


冬馬はフェンスを掴んで落下を防いだ。


数十メートル下に道路が見える。


CARRIERが上から冬馬を見下ろした。


「怖いか」


冬馬は下を一度見た。


「そりゃ怖い」


予想していなかった返答だったのか、CARRIERの動きが僅かに止まった。


「怖くない人間なんていない」


CARRIERが冬馬の指を踏もうと足を上げる。


その前に冬馬は相手の足首を掴んだ。


一気に引く。


CARRIERの体勢が崩れた。


その勢いを利用して、冬馬はフェンスを越えて屋上へ戻る。


二人が同時に床へ倒れる。


冬馬はすぐに上を取り、拳をCARRIERの顔の寸前まで振り下ろした。


そこで止めた。


「お前も怖いんだろ」


CARRIERの眼が揺れた。


「何を言ってる」


「人間が、自分の信じた通りに動かないことが」


CARRIERの表情が変わった。


怒り。


それまで余裕を崩さなかった男が、初めて感情を露わにした。


「黙れ!」


CARRIERの頭突きが冬馬の顔面へ入った。


冬馬の身体が後ろへ倒れる。


立ち上がるまでの僅かな時間に、CARRIERは霧を放ち、姿を消した。


追えなかった。


だが。


冬馬は別のものを見つけた。


CARRIERが人間を観察している理由。


その奥には。


人間に対する嫌悪だけでなく。


自分の結論が崩れることへの恐怖がある。


---


第十章 都市という実験場


真鍋が研究データを復元すると、HELIXがこの街で行っていた実験の全体像が少しずつ見えてきた。


目的は、感染症によって大量の死者を出すことではなかった。


感染という危機へ直面した時、人間がどのように行動するか。


行政へ従うのか。


デマを信じるのか。


他人を排除するのか。


食料を奪うのか。


見知らぬ人を助けるのか。


自分を危険へ晒してでも誰かを守るのか。


街そのものが巨大な実験場だった。


真鍋は画面を見ながら青ざめた。


「私の研究を……こんなもののために」


冬馬は横で資料を読んでいた。


「お前がこの実験を始めたわけじゃない」


「でも、技術を渡した」


「それは消えない」


真鍋が冬馬を見る。


冬馬は続けた。


「だから終わらせろ」


別のファイル。


CARRIERの過去。


本名は伏せられている。


しかし。


経歴は残っていた。


災害対策。


危機管理。


大規模災害や事故の現場を何度も経験している。


そこで見たのは。


助け合いだけではなかった。


避難物資を奪う人間。


負傷者を置いて逃げる人間。


噂だけで他者を攻撃する人間。


その光景を繰り返し見た結果。


彼は。


人間は追い詰められれば必ず自分だけを選ぶ。


そう信じるようになった。


HELIXはそこへ接触した。


その思想。


失望。


恐怖。


利用した。


「人間を証明したいんじゃない」


冬馬が言った。


真鍋が画面から顔を上げる。


「どういうことだ」


「自分が正しかったって証明したいんだ」


その時。


携帯が鳴った。


CARRIER。


『中央駅へ来い』


「何をする」


『最後の観察だ』


通話は切れた。


真鍋の表情が変わる。


「中央駅には大型の換気システムがある」


冬馬は立ち上がった。


「そこへ病原体を繋げられたら?」


「封鎖区域の地下空間へ一気に拡散できる」


冬馬はコートを取った。


真鍋も立ち上がる。


「対抗処置はあと少しだ」


「作れ」


「榊」


冬馬は振り返った。


「間に合わせる」


それだけ告げて。


中央駅へ向かった。


---


第十一章 恐怖より速く


雨の降る中央駅には、人の姿がなかった。


封鎖によって営業を停止した構内には照明だけが残り、誰もいない改札の向こうから換気設備の低い音が聞こえている。


冬馬は地下ホームへ降りた。


CARRIERが待っていた。


背後には、換気設備へ接続された大型装置がある。


「遅かったな」


冬馬は装置を見た。


「まだ動いてない」


「あと三分だ」


冬馬は変身した。


「十分だ」


CARRIERも異形へ変わった。


二人が同時に走る。


冬馬の右拳をCARRIERが左腕で受ける。


すぐに反対の拳が返ってくる。


冬馬は頭を横へずらしてかわし、相手の胸へ肘を打ち込んだ。


CARRIERの身体が一歩下がる。


その隙へ右膝を入れようとした瞬間、CARRIERの膝が先に冬馬の腹部へ突き刺さった。


冬馬の呼吸が止まる。


CARRIERは続けて冬馬の肩を掴み、ホームの床へ投げようとした。


冬馬は腕を相手の肘へ絡ませながら腰を落とし、逆にCARRIERの重心を崩した。


肩を入れる。


投げる。


CARRIERの背中が床へ叩きつけられた。


だがすぐに立ち上がり、背中の器官から大量の霧を噴き出す。


ホームが白く染まった。


視界が消える。


冬馬は複眼を閉じた。


触角へ集中する。


換気設備。


線路。


雨水。


機械。


そのすべてが振動を生んでいる。


その中から。


人間一人分の動きを。


探す。


右。


違う。


上。


気付いた時には遅かった。


CARRIERの拳が冬馬の顔面へ入った。


冬馬は柱へ背中からぶつかった。


相手が追ってくる。


冬馬は柱へ片手をつき、身体を横へ逃がした。


CARRIERの拳が柱へ直撃する。


コンクリートが砕ける。


冬馬は背後へ回り、肘を首の付け根へ打ち込んだ。


CARRIERが前へよろめく。


冬馬はその脚を払った。


倒れた相手を追わず、装置へ走る。


残り二分。


背後から脚を掴まれた。


冬馬の身体が床へ倒れる。


CARRIERが上から押さえ込む。


「逃げるのか」


「忙しいんだよ」


冬馬は下から片脚をCARRIERの腰へ入れ、身体ごと持ち上げた。


横へ転がす。


すぐ立つ。


装置。


一分。


CARRIERも立つ。


冬馬へ突進。


右拳。


冬馬は避けない。


直前で半歩だけ内側へ入る。


拳が肩の横を通過する。


CARRIERの胸部が完全に開く。


冬馬は床を強く踏み込み、腰の回転と肩の押し込みを一つへ繋げた。


右拳が胸部へ直撃する。


外殻が大きく砕けた。


CARRIERの身体が後方へ飛び、床へ転がった。


冬馬は装置へ走った。


残り三十二秒。


配線が多い。


どれが本線なのか。


無線が鳴る。


真鍋。


『榊、聞こえるか!』


「聞こえる」


『青い端子は囮だ。その下に黒い制御線がある!』


冬馬はパネルを外した。


黒い線を見つける。


十五秒を切る。


タイマーは止まらない。


『補助電源だ! 右下に独立した電源がある!』


冬馬は装置の裏側へ手を入れた。


七秒。


金属箱を掴む。


五秒。


コネクターが外れない。


三秒。


力を込める。


端子ごと引き抜く。


数字。


二。


そこで停止。


換気設備の音が止まった。


地下ホームに。


静寂が戻る。


冬馬はしばらく装置へ手をついたまま呼吸を整えた。


背後では、CARRIERが仰向けになったまま天井を見ている。


冬馬は変身を解除し、ゆっくり近づいた。


「恐怖より、少しだけ速かったな」


CARRIERは苦しそうに笑った。


「たまたまだ」


冬馬はその横へ座り込んだ。


「そうかもな」


結果として。


街はまだ生きている。


それで十分だった。


---


第十二章 封鎖解除


真鍋が完成させた対抗処置は、行政と医療機関の協力によって封鎖区域内へ配布された。


治療が始まって数日。


新規の重症者は明らかに減少し、それまで高熱と呼吸困難に苦しんでいた患者たちにも回復の兆しが見え始めた。


三島啓介もその一人だった。


冬馬が病院を訪れた時、病室のガラス越しに由佳と啓介が抱き合っているのが見えた。


二人とも泣いている。


冬馬は中へ入らなかった。


依頼された人間を見つけた。


生きて帰した。


それなら。


探偵の仕事は終わっている。


病院を出ると。


雨はもう上がっていた。


CARRIERは変身能力を失い、人間の姿で拘束されていた。


治療を受けている彼と冬馬が再び会ったのは、それから数日後だった。


面会室で向かい合って座ると、CARRIERはしばらく何も言わなかった。


やがて。


「人間は変わらない」


そう言った。


冬馬は椅子へ身体を預けた。


「そうかもな」


CARRIERが顔を上げる。


「なら、何であそこまでして助ける」


冬馬は少し考えた。


「変わらないからだろ」


「意味が分からない」


「追い詰められれば誰かを見捨てる奴もいる。怖くなれば嘘を信じる奴もいる。自分だけ助かろうとする奴だっている」


CARRIERの口元へ小さな笑みが浮かんだ。


「ほらな」


「でも、それだけじゃなかった」


冬馬は続ける。


「寝ずに患者を診た医者がいた。知らない人間へ食料を分けた奴がいた。危険な避難所へ入った久世がいた。逃げたままでいることもできたのに、戻って研究を完成させた真鍋もいた」


CARRIERは何も言わない。


「お前が見ようとしてた答えは、最初から一つしかなかった」


「何?」


「人間は最後には自分だけを選ぶって答えだ」


冬馬は目の前の男を見る。


「でも人間は一つじゃない」


長い沈黙。


CARRIERは視線を落とした。


やがて。


「お前は人間なのか」


冬馬は自分の手を見た。


改造された身体。


人間から遠くなった部分。


それでも。


「知らない」


素直に答えた。


CARRIERが僅かに笑った。


「変な答えだ」


「よく言われる」


街の封鎖は、その二日後に段階的に解除された。


検問所が撤去され。


電車が動き。


閉じていた店へ明かりが戻った。


それでも。


何もなかったことにはならない。


恐怖から誰かを傷付けた記憶。


差別された記憶。


壊れた関係。


同時に。


誰かを助けた記憶も残った。


真鍋は自ら警察へ出頭した。


冬馬は建物の前まで見送った。


「やり直せるでしょうか」


真鍋が訊いた。


冬馬は少し考えたあと答えた。


「分からない」


真鍋が苦笑する。


「あなたは、そればかりですね」


「分からないものを分かるとは言えない」


冬馬は続けた。


「でも、生きてるなら調べる時間はある」


真鍋は少しだけ笑い。


警察署へ入っていった。


その夜。


久世がNO TRACEへ来た。


「これで終わったな」


冬馬は机に置いた資料から顔を上げた。


「街はな」


久世の表情が変わった。


「何かあったのか」


冬馬はHELIXの施設から回収された通信ログを差し出した。


大量の観測データが。


施設崩壊直前に外部へ転送されている。


人々がどう恐れ。


どう逃げ。


どう暴力を振るい。


どう助け合ったのか。


そのすべてを。


HELIXは持ち帰った。


久世は資料を閉じた。


「じゃあ、あいつらにとってこの事件は失敗じゃない?」


冬馬は窓の外へ目を向けた。


電車が走っている。


人が歩いている。


ようやく日常が戻り始めた街。


「あいつらが欲しかったものがデータなら」


冬馬は静かに答えた。


「多分な」


久世はしばらく黙っていた。


その時。


事務所の電話が鳴った。


冬馬は受話器へ手を伸ばした。


一つの街を覆っていた事件は終わった。


だが。


影そのものが消えたわけではない。


「NO TRACE調査事務所です」


電話の向こうから。


新しい誰かの声が聞こえてきた。


冬馬はノートを引き寄せ、新しいページを開いた。


次に追う人間の名前を書くために。


そして。


誰かがその名前を消そうとした時。


自分だけは忘れないために。


――NO TRACE.


第三巻 完


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