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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

NO TRACE ―影を追う者― III 封鎖された街

作者: ゴヘイ
掲載日:2026/09/19

第一章 最初の患者


雨の降らない夜だった。


それでも榊冬馬は、NO TRACE調査事務所を出る時に一本の黒い傘を手に取った。長く探偵を続けていると、空模様とは関係なく、何となく傘を持って出たくなる夜がある。冬馬の経験では、そういう日は決まって面倒な事件が起きた。


その日の午後八時過ぎ、事務所を訪れた依頼人は三島由佳という三十代半ばの女性だった。


「主人を探してほしいんです」


由佳はそう言いながら、一枚の写真を冬馬の前に置いた。眼鏡を掛けた痩せ型の男性が、少し困ったような笑顔を浮かべている。


「行方不明になったのは、いつですか」


冬馬が訊ねると、由佳は首を横に振った。


「行方不明ではないんです。三日前、勤務中に高熱を出して救急搬送されました。その日の夜、病院から感染症の疑いがあるので隔離すると連絡があったんです。でも翌朝、問い合わせたら、そんな患者はいないって……」


「搬送記録は?」


「救急にも問い合わせました。でも主人を運んだ記録はないと言われました」


冬馬は写真から視線を上げた。


「ご主人の名前は?」


「三島啓介です」


「職業は?」


「システム会社に勤めています」


「倒れる前、何か変わったことを話していませんでしたか」


由佳はしばらく考え込み、やがて小さく頷いた。


「会社の近くに、変な救急車が止まっていたと言っていました。普通なら病院名が書かれていますよね。でも、何も書いていなかったそうです」


冬馬の胸に小さな違和感が生まれた。


前の事件で追った《NULL ARCHIVE》は、人間の社会的な存在記録を抹消する計画だった。今回も、似た匂いがする。


「依頼を受けます」


「本当ですか?」


「ただし、普通の失踪事件ではない可能性があります。それでも調べますか」


由佳は迷わず頷いた。


「お願いします」


翌朝、冬馬は啓介が搬送されたという病院を訪れた。


受付で名前を告げても、回答は予想通りだった。


「そのような患者は入院しておりません」


「三日前の夜に救急搬送されたはずです」


「搬送記録にもございません」


事務的な返答だった。


冬馬はそれ以上食い下がらず、その場を離れた。


だが病院内を歩いていると、突然、奥の廊下から医師と看護師が走ってきた。透明なカバーで覆われた担架を押している。中では若い男性が激しく咳き込み、苦しそうに身体を震わせていた。


「第四隔離ブロックへ!」


医師の声が廊下へ響いた。


冬馬は歩みを止めた。


この病院には、受付が説明しなかった隔離区画が存在する。


裏手へ回ると、搬入口に数台の車両が止まっていた。冬馬はそのうち一台の側面を見て、表情を変えた。


見覚えのある企業ロゴ。


HELIXの関連企業だった。


「またお前らか」


呟いた直後、院内に警報音が響いた。


赤い非常灯が点滅する。


『緊急事態が発生しました。来院中の皆様は職員の指示に従ってください』


ほぼ同時に、周囲の人々のスマートフォンが一斉に鳴った。


冬馬も端末を取り出す。


《市内複数地点において原因不明の感染症を確認。一部地域に移動制限を実施します》


窓の外を見ると、幹線道路へ警察車両が集まり始めていた。


封鎖。


検問。


救急車。


街が、静かに閉じられ始めている。


その時、冬馬の携帯が鳴った。


非通知。


「誰だ」


『榊冬馬』


知らない男の声だった。


静かで、妙に落ち着いている。


「名前を知っているなら、用件も言え」


電話の向こうで男が笑った。


『探偵なんだろう?』


「だから何だ」


『ゲームをしよう』


冬馬は何も答えない。


『この街はこれから閉じる。そして、少しずつ壊れていく』


窓の向こうで封鎖ゲートが閉まった。


『人間は恐怖に晒された時、最後まで人間でいられると思うか?』


「目的は実験か」


『さすがだな』


冬馬の声が低くなる。


「お前は誰だ」


わずかな沈黙。


『CARRIER』


それだけ言うと、男は楽しそうに続けた。


『俺を見つけろ。この街が死ぬ前にな』


通信が切れた。


冬馬は携帯を下ろした。


窓の外では、巨大な都市が少しずつ一つの檻へ変わっていた。


第二章 封鎖線


翌朝、街から日常の音が消えていた。


電車は動かず、バスの本数も極端に減っている。幹線道路には警察車両と防護服を着た職員が並び、街の外へ通じる主要道路はすべて封鎖されていた。


感染者数はまだ多くない。


それでも恐怖は、感染よりはるかに速く広がっていた。


冬馬が検問を遠巻きに眺めていると、背後から聞き慣れた声がした。


「勝手に動くなと言ったはずだ」


振り返ると、久世慎吾が立っていた。


捜査一課の刑事である。


「聞いてない」


「昨日三回電話した」


「出てない」


「それを聞いてないと言うな」


久世は紙袋を投げて寄越した。


中には水とパンが入っている。


「今のうちに食っておけ。物流まで止まったら笑えなくなる」


冬馬はパンを取り出しながら訊いた。


「患者は何人だ」


「確認できているだけで十五地点。感染者は四十二人」


「共通点は?」


「今のところない。年齢も職業も生活圏もバラバラだ」


「移動経路は」


「重なっていない」


冬馬はパンを噛みながら眉を寄せた。


「自然感染にしては不自然すぎる」


「やっぱりそう思うか」


久世も同じ結論に達していたらしい。


「それと、事件前日に一人消えた科学者がいる」


「名前は?」


「真鍋恭介。五十二歳。感染症研究が専門だ」


冬馬の目が動いた。


「犯人扱いか」


「上はそう見てる」


「お前は?」


久世は煙草を取り出しかけて、封鎖地区の表示を見て戻した。


「出来すぎていると思ってる」


二人は最初の患者である三島啓介の勤務先を調べた。


会社は既に閉鎖され、社員は自宅待機になっている。


啓介が使っていたはずの机には何もなかった。


名札も、私物も、書類も。


まるで最初からその人物が存在していなかったように。


「前の事件と似てるな」


久世が言った。


「似てるけど、今回は少し違う」


冬馬は机の下へ屈み込んだ。


床に紙片が落ちている。


拾い上げると、手書きの文字があった。


《M.K. 19:30 東五倉庫》


「M.K.?」


久世が覗き込む。


冬馬は紙を裏返した。


薄い指紋。


「真鍋恭介かもしれない」


その夜、冬馬は一人で東五倉庫へ向かった。


巨大な建物の中には照明がほとんどなく、天井近くに設けられた窓から月明かりだけが差し込んでいる。


「真鍋恭介」


冬馬の声が倉庫へ響いた。


返事はない。


代わりに、暗闇の奥から男が歩いてきた。


長身。


黒いコート。


顔の半分ほどが灰色の外殻に覆われている。


背中には細長い管状器官がいくつも伸びていた。


「待っていた」


昨日の声だった。


「CARRIER」


「真鍋はどこだ」


冬馬が訊くと、CARRIERは口元を歪めた。


「探偵なら、自分で探せ」


次の瞬間、姿が消えた。


頬に風。


冬馬は反射的に身体を傾けたが、拳がわずかに顔を掠めた。


遅れて衝撃が来る。


CARRIERは既に冬馬の横へ回り込んでいた。


低い蹴り。


冬馬は脛で受ける。


骨まで響くような重さだった。


冬馬は一歩踏み込み、右拳を放った。


CARRIERは首を傾けるだけでかわし、脇腹へ肘を打ち込んだ。


冬馬の身体が横へ滑った。


「生身のままでは厳しいか?」


「心配するな」


冬馬は腰へ手を伸ばした。


赤い光が走る。


深緑と黒の外殻が身体を覆い、細長い触角が頭部から伸びる。


橙色の複眼が暗闇に灯った。


CARRIERが興味深そうに眺める。


「それが、お前の本当の姿か」


「違う」


冬馬は構えた。


「仕事着だ」


床を蹴る。


倉庫全体が震えるほどの踏み込みだった。


冬馬は一瞬で間合いを詰め、CARRIERの顔面へ拳を叩き込んだ。


初めて。


まともに入った。


CARRIERの身体が後方へ飛び、鉄柱に激突する。


それでも怪人は立ち上がった。


口元には笑みを浮かべたままだった。


「いいな」


冬馬がゆっくり近づく。


「次は逃がさない」


第三章 逃げた科学者


CARRIERは鉄柱から背を離すと、拳を握り直した。


冬馬が再び距離を詰める。


今度は真正面からだった。


右拳。


CARRIERは左腕で受け止める。


外殻同士がぶつかり、乾いた金属音が倉庫へ響いた。


冬馬は拳を引かず、そのまま肩から体重を乗せる。


CARRIERの身体が後退したところへ、腹部へ膝蹴りを叩き込む。


一発。


さらにもう一発。


三発目。


CARRIERの姿勢が崩れた。


だが、CARRIERも黙ってはいない。


冬馬の両肩を掴むと、額を正面から叩きつけた。


頭突き。


複眼に激しい衝撃が走る。


冬馬が一歩下がった隙に、CARRIERの背中の管状器官が大きく開いた。


白い霧が噴き出す。


冬馬は床を強く蹴り、後方へ跳んだ。


霧が足元へ広がる。


「病原体か」


「どうだろうな」


「試してみるか?」


CARRIERは床を蹴り、壁を走った。


そのまま壁面を二歩、三歩と駆け上がり、天井近くから反転して冬馬へ落下する。


踵が振り下ろされる。


冬馬は両腕を交差させて受けた。


凄まじい衝撃で床が割れた。


CARRIERが着地した瞬間、冬馬は足首を掴んだ。


「捕まえた」


そのまま身体ごと振り回し、鉄柱へ叩きつける。


鉄骨が大きく曲がった。


CARRIERは苦しそうに息を吐きながらも笑った。


「怒らないのか?」


「何に」


「街が壊れ始めている」


冬馬は歩みを止めない。


「それで?」


「大事な人間はいないのか?」


ほんの一瞬だけ。


美咲の姿が脳裏を過ぎった。


それをCARRIERは見逃さなかった。


冬馬の胸へ拳が入る。


装甲越しでも身体が浮くほどの一撃だった。


「いるんだな」


冬馬は瓦礫を押し退けて立ち上がる。


「関係ない」


「人間は面白い。自分の大事なものが危険に晒された途端、正義も理念も簡単に捨てる」


冬馬は首を鳴らした。


「人間を語りたいなら」


再び走る。


「少しは人間を見てから言え」


低く身体を沈めてCARRIERの懐へ入り、肩からぶつかった。


怪人の身体が浮く。


その腰を掴み、床へ叩きつける。


CARRIERが床を転がったところへ冬馬は馬乗りになり、腕を捻り上げた。


「真鍋はどこだ」


「知らない」


「嘘だ」


力を強める。


外殻が軋んだ。


「知っていても言わない」


冬馬は拳を上げた。


CARRIERは冬馬の複眼を見ながら呟く。


「殺すのか?」


拳は数センチ手前で止まった。


「しない」


冬馬はCARRIERの腕を放した。


「喋らせる」


その瞬間。


倉庫全体に警報が響いた。


爆発。


床下から猛烈な衝撃が突き上げる。


冬馬が姿勢を崩した隙に、CARRIERは煙の中へ消えた。


爆発が収まったあと。


床には一枚の研究員証が残されていた。


《真鍋恭介》


裏面には手書きで、


《私は犯人ではない》


冬馬はカードを拾い上げた。


「分かってる」


翌日、冬馬と久世は真鍋の研究所を調べた。


研究室は荒らされていた。


機材は破壊。


研究データも持ち去られている。


「逃亡前に全部持っていったと見られてる」


久世が言った。


「逆だ」


冬馬は壁へ掛けられた研究チームの写真を見る。


「逃げるために持っていったんじゃない」


「じゃあ何のためだ」


「止めるためだ」


冬馬は真鍋の研究員証を取り出した。


「真鍋は自分が作ったものを止める方法を持って逃げた」


第四章 CARRIER


事件発生から三日。


感染者は百二十七人へ増えていた。


しかし死者は一人も出ていない。


冬馬は、その数字に強い違和感を覚えた。


「殺すことが目的なら、効率が悪すぎる」


久世が眉を寄せる。


「人が死んでないのが不満か」


「違う。目的が別にある」


冬馬は街の地図を広げた。


感染者が確認された場所へ赤い印を置く。


次に、SNSで感染者情報や噂が最初に流れた地点へ青い印を置いた。


二つはほぼ重なっていた。


「病気より先に噂が広がってる」


「意図的に?」


「CARRIERは街を感染させたいんじゃない」


冬馬は地図を見つめる。


「恐怖を感染させたいんだ」


その日の夜、冬馬はCARRIERを見つけた。


高層ビルの屋上。


怪人は冬馬を確認すると、隣のビルへ跳んだ。


冬馬も変身し、追う。


一棟。


二棟。


三棟。


雨に濡れた屋上を、二つの異形が高速で駆け抜ける。


CARRIERが振り返りながら腕を振った。


鋭い鱗状の破片が飛ぶ。


冬馬は身体を捻ってかわし、給水塔の側面を蹴って跳躍した。


空中でCARRIERへ追いつく。


回し蹴り。


CARRIERは腕で受けたが、衝撃で別の屋上へ落下した。


冬馬も追って着地する。


「逃げるな」


「逃げている?」


CARRIERは笑った。


その時。


下から悲鳴が聞こえた。


冬馬が屋上の端へ近づく。


道路。


一人の男性を群衆が取り囲んでいた。


「感染者だ!」


「近づくな!」


誰かが男を突き飛ばした。


別の人間が殴る。


男は地面へ倒れる。


CARRIERが冬馬の横へ立った。


「見ろ」


冬馬は黙る。


「俺はあの連中に何も命令していない」


「噂を流した」


「情報を置いただけだ」


「同じだ」


「違う」


CARRIERは楽しそうだった。


「選んだのは人間だ」


冬馬は迷わなかった。


屋上から飛び降りる。


着地した衝撃でアスファルトが割れた。


群衆が悲鳴を上げる。


異形の冬馬が倒れた男性の前へ立った。


「やめろ」


その低い声だけで、人々は後退した。


「化け物……」


誰かが呟いた。


冬馬は気にしない。


倒れている男性を起こす。


「歩けるか」


「……はい」


「なら帰れ」


男を逃がしたあと、冬馬は屋上を見る。


CARRIERは消えていた。


冬馬は拳を握った。


追跡を捨てた。


だが。


間違っていない。


そう思った。


第五章 恐怖という感染


四日目になると、街は目に見えて変わった。


スーパーでは商品棚が空になり、薬局には長い列ができた。感染者が出たと噂された地区では住民同士の口論が増え、一部では暴力事件まで起きていた。


感染症そのものよりも、恐怖が人間の判断を蝕んでいた。


冬馬は事務所で流れてくる情報を整理していた。


そこへ非通知の電話。


「何だ」


『楽しんでいるか?』


CARRIERだった。


「お前ほどじゃない」


『人間は簡単だろう? 一つ噂を置けば勝手に疑い、一つ恐怖を与えれば勝手に敵を作る』


冬馬は話を聞きながら録音していた。


そして。


背景音へ耳を澄ます。


風。


金属。


その奥。


鐘。


「お前が広げているのは病気じゃない」


『何?』


「恐怖だ」


電話の向こうで一瞬だけ沈黙が生まれた。


冬馬は市内の地図を見る。


鐘が定期的に鳴る場所。


三か所。


さらに風向きと反響。


一つに絞れる。


「見つけた」


電話を切った。


旧教会。


冬馬が内部へ入ると、奥の祭壇にCARRIERが座っていた。


「さすが探偵」


「真鍋はどこだ」


「またそれか」


「俺は探偵だ。探すのが仕事だからな」


CARRIERが立ち上がった。


その時。


教会の奥に置かれた通信機からノイズが入る。


『……榊……冬馬……』


冬馬の目が見開かれる。


「真鍋!」


CARRIERが笑う。


「本人から依頼が来たらしいな」


冬馬は一気に距離を詰める。


CARRIERも外殻を展開した。


拳がぶつかる。


冬馬はそのまま左の拳を腹部へ打ち込み、さらに右肘を顎へ振り上げる。


CARRIERは二撃目を腕で防ぎ、冬馬の脇腹へ膝を叩き込んだ。


冬馬が後退したところへ、爪が振り下ろされる。


冬馬は頭を下げて避け、懐へ入り込んだ。


腰を抱える。


持ち上げ。


床へ叩きつける。


木製の床板が砕けた。


CARRIERは横へ転がり、その勢いで立ち上がる。


「真鍋の場所を言え!」


冬馬の拳が飛ぶ。


CARRIERは腕で受け、低い蹴りを返す。


冬馬が跳んでかわしたところへ、CARRIERは壁を蹴って上空から飛び込んだ。


冬馬は着地と同時に半歩だけ横へずれる。


CARRIERの踵が床を砕く。


その隙。


冬馬の後ろ蹴りが腹部へ突き刺さった。


CARRIERは祭壇まで吹き飛んだ。


木材が崩れる。


「真鍋はどこだ!」


冬馬が再び問う。


CARRIERは瓦礫から起き上がり、血を拭った。


「俺も探している」


冬馬の動きが止まる。


「何?」


「HELIXも俺も、お前も」


CARRIERは笑った。


「追跡者は三人だ」


第六章 見えない依頼人


真鍋から送られてきた通信は数秒だった。


しかし冬馬にとって、数秒あれば十分だった。


繰り返し録音を再生する。


ノイズの奥。


水。


一定間隔の機械音。


久世が横から聞く。


「何か分かるか」


「排水ポンプだ」


「それだけで場所が分かるのか?」


「市内の地下排水施設を全部回ればな」


久世が顔をしかめる。


「お前は時々、本当に嫌なことを簡単に言う」


九か所。


違う。


十四か所。


違う。


二十一か所目。


冬馬は立ち止まった。


同じ機械音。


地下設備室。


扉を開ける。


暗闇の奥。


真鍋恭介が座り込んでいた。


「真鍋恭介」


男がゆっくり顔を上げる。


「榊……冬馬さん?」


「依頼を聞く」


真鍋は一瞬呆気に取られ、やがて疲れ切った笑いを浮かべた。


「私を探してくれ」


「もう見つけた」


「違う」


真鍋は首を振った。


「研究データを探してほしい。あれがなければ、止められない」


冬馬は真鍋の前へ腰を下ろす。


「お前が作ったのか」


長い沈黙。


「……はい」


真鍋は俯いた。


もともとは、新興感染症に対する治療技術の研究だった。


HELIXは研究費と設備を提供した。


真鍋は人を救うための研究だと信じた。


だが完成した技術は、別の用途へ転用された。


「私は人殺しです」


「誰か死んだか」


「これから死ぬかもしれない!」


「なら、まだ間に合う」


真鍋が顔を上げる。


冬馬は真っ直ぐ見返した。


「自分で作ったものなら、自分で止めろ」


「……」


「逃げるな」


その瞬間。


壁が吹き飛んだ。


冬馬は反射的に真鍋を押し倒した。


CARRIERの爪が、さっきまで冬馬の胸があった位置を切り裂く。


冬馬は腕を掴み、頭突きを叩き込む。


CARRIERは蹴りで冬馬を引き離した。


壁へ衝突。


CARRIERが真鍋へ向かう。


「真鍋!」


冬馬は床を蹴った。


CARRIERの背後へ飛び付き、首に腕を回す。


二人が転がる。


冬馬が上になる。


拳。


一発。


二発。


三発。


CARRIERは腕で顔を守りながら、下から膝を突き上げた。


冬馬の身体が浮く。


立場が逆転する。


CARRIERの爪が冬馬の喉へ迫る。


冬馬は両腕で手首を押さえた。


数センチ。


「どけ!」


冬馬は脚をCARRIERの腹へ当て、一気に蹴り飛ばした。


CARRIERの身体が宙へ浮く。


冬馬は立ち上がると変身装置を起動した。


深緑の外殻。


橙色の複眼。


一瞬でCARRIERとの距離を消す。


拳が胸へ。


外殻が砕ける。


「真鍋を」


もう一発。


「連れていかせない!」


第七章 追跡者は三人


CARRIERとの戦闘には勝った。


しかし真鍋は、その間にHELIXの別働隊によって連れ去られた。


「陽動か」


事務所へ戻った冬馬は壁へ拳を当てた。


久世が隣で腕を組む。


「珍しいな。自分からやられたって認めるの」


「次はない」


HELIXの車両ルートを調べる。


夜。


雨。


冬馬はバイクを走らせた。


前方。


黒いバン。


アクセルを開く。


並んだ瞬間、助手席の窓が開いた。


拳銃。


発砲。


冬馬は身体を伏せた。


弾丸がミラーを砕く。


さらに一発。


冬馬は車両へ接近。


バイクから跳んだ。


屋根へ着地。


工作員が窓から銃を出す。


冬馬は銃身を蹴り上げた。


武器が道路へ落ちる。


車両が蛇行。


冬馬は屋根へ指を食い込ませて耐える。


その時。


頭上。


気配。


CARRIERが高架から落下してきた。


二人が走行中の車両上で衝突する。


CARRIERの拳。


冬馬は手首を外へ流す。


肘を脇腹へ。


CARRIERは膝を腹へ返す。


車両が急カーブ。


二人の身体が大きく傾いた。


冬馬は車体側面を蹴って跳び、両足でCARRIERの肩を蹴り飛ばした。


CARRIERが屋根から落ちる。


だがガードレールを掴み、辛うじて転落を免れた。


冬馬は車内へ侵入する。


荷室。


空。


「囮……」


無線機が鳴った。


『残念だったな』


CARRIERの声。


冬馬は無線を取る。


「お前もだろ」


『何?』


「真鍋はここにいない」


沈黙。


冬馬は笑った。


「三人とも、同じ相手に踊らされてる」


初めて。


CARRIERは何も返さなかった。


第八章 罪を作った男


冬馬は、真鍋が連れ戻された場所を旧研究棟だと推測した。


「どうしてそこだ」


久世が訊く。


「逃げた人間を、一番戻りたくない場所へ連れて行く」


「根拠は?」


「人間の性格だ」


研究棟へ侵入。


冬馬はすぐに工作員と遭遇した。


一人目。


銃口がこちらを向く。


冬馬は変身すると同時に発砲を受けた。


弾丸が装甲へ当たり、火花を散らす。


そのまま踏み込み、胸へ掌底。


男の身体が壁まで吹き飛ぶ。


二人目が鉄棒を振り下ろす。


冬馬は腕で受けた。


棒が途中から折れる。


返す肘が顎へ入り、男はその場に崩れた。


背後。


足音。


冬馬は触角で空気の動きを拾う。


振り向かずに後ろ蹴り。


三人目の腹へ命中。


通路の奥。


真鍋が拘束されていた。


「立て」


冬馬は拘束装置を破壊する。


「データが地下にある」


「案内しろ」


二人が移動を始めたところで、警報音。


CARRIER。


「今度こそ真鍋を渡せ」


「断る」


「何故そこまで守る」


「依頼だからだ」


戦闘。


CARRIERの腕から刃が伸びる。


横薙ぎ。


冬馬は半歩下がった。


刃が胸装甲を掠め、火花を散らす。


冬馬はCARRIERの手首を掴んだ。


捻る。


だがCARRIERは身体ごと回転して拘束を外し、冬馬の首へ肘を叩き込む。


冬馬は頭を下げてかわす。


腹へ拳。


CARRIERは受ける。


肩へ爪。


装甲が削られる。


冬馬は膝をCARRIERの大腿部へ。


重心が崩れる。


腰を掴む。


持ち上げる。


床へ叩きつけた。


「あと二分!」


真鍋がサーバー室から叫ぶ。


「長い!」


冬馬が返す。


CARRIERの背中の器官が開く。


白い霧。


冬馬は壁を蹴り、その上を跳び越えた。


空中から踵落とし。


CARRIERの肩。


外殻が砕ける。


「取れた!」


真鍋の声。


冬馬はCARRIERを蹴り飛ばすと、真鍋を抱えて窓から飛び出した。


三階。


落下。


着地と同時に膝を曲げ、衝撃を殺す。


背後で研究棟が爆発した。


「何故……」


真鍋が呟く。


「何だ」


「何故、私を責めないんです」


冬馬は走りながら答えた。


「責めるのは後でいい」


真鍋を見る。


「今は街を救え」


第九章 選ばせる怪人


CARRIERから連絡が入った。


『二つに一つだ』


「その言葉、嫌いなんだよ」


『真鍋を守るか、避難所を救うか』


別地区。


爆破予告。


多数の避難者。


『どちらかしか選べない』


冬馬は久世を見る。


「聞こえてるか」


「聞こえてる」


「避難所を頼む」


「分かった」


CARRIERが声を上げる。


『他人に任せるのか?』


「ああ」


『ヒーローらしくないな』


冬馬は少し笑った。


「何度言わせる。俺は探偵だ」


避難所は久世たちが担当。


冬馬は真鍋を守る。


CARRIERの計算は外れた。


その夜。


屋上。


冬馬とCARRIERは再び向かい合った。


「人間は結局、自分だけを選ぶ」


CARRIERが言う。


「そうする奴もいる」


冬馬は変身する。


「しない奴もいる」


CARRIERも外殻を展開する。


「綺麗事だ」


「人間を一つの答えに決めつける方が簡単なんだよ」


二人が同時に走る。


拳が交差する。


冬馬が低い姿勢から腹へ拳。


CARRIERがそれを受けながら冬馬の膝へ蹴りを入れる。


冬馬は跳んだ。


空中で身体を回転。


踵がCARRIERの側頭部へ。


CARRIERは倒れない。


冬馬の脚を掴む。


投げる。


冬馬は屋上を転がり、端で止まった。


片手。


縁を掴む。


CARRIERが歩いてくる。


冬馬の指を踏む。


「落ちろ」


「断る」


空いている手でCARRIERの足首を掴む。


引く。


CARRIERが倒れる。


冬馬は反動を利用して屋上へ戻る。


立ち上がる勢いのまま拳。


CARRIERの顔面。


仮面の一部が砕けた。


その下。


人間の目。


冬馬はそこに恐怖を見た。


「お前も怖いんじゃないか」


CARRIERの動きが止まる。


「黙れ!」


猛烈な連打。


冬馬は両腕で受け続ける。


一発。


二発。


三発。


装甲へ亀裂。


それでも。


冬馬は笑った。


「図星か」


第十章 都市という実験場


真鍋が持ち帰った研究データから、事件の全貌が明らかになった。


今回のテロは単なる大量殺傷ではない。


HELIXは都市全体を実験場として使っていた。


封鎖。


感染。


買い占め。


暴力。


デマ。


差別。


助け合い。


自己犠牲。


極限状態で、人間の感情と社会秩序がどのように変化するのか。


すべて観測対象だった。


「CARRIERも実験体だ」


冬馬が言う。


真鍋が頷く。


CARRIERはかつて災害対策に関わる職員だった。


大規模災害。


混乱。


物資を奪い合う人々。


避難所での暴力。


弱者を押し退ける者。


その光景を何度も見た。


HELIXは。


その絶望を増幅した。


「人間は、最後には必ず自分だけを選ぶ」


それがCARRIERの思想になった。


冬馬の携帯が鳴る。


CARRIER。


『俺が間違っていると思うか』


「思う」


『何故』


「お前は人間を一つの答えに決めつけた」


『現実を見た結果だ』


「選ぶ奴もいる」


冬馬は静かに言う。


「選ばない奴もいる」


『綺麗事だ』


「だから」


冬馬はコートを取る。


「証明する」


『来い』


市内最後の装置。


場所は告げられない。


冬馬はこれまでの感染地点、噂の発生地点、CARRIERの移動経路を重ねた。


中心。


中央駅。


「ここだ」


第十一章 恐怖より速く


雨の中。


冬馬のバイクが封鎖された道路を疾走する。


中央駅。


ブレーキ。


後輪が滑り、大きな水飛沫が上がった。


冬馬はバイクから飛び降りながら変身する。


深緑の外殻。


橙色の複眼。


CARRIERが駅前広場に立っていた。


「来たか」


「待たせたな」


CARRIERが踏み込む。


拳。


冬馬は手首を外側へ流し、そのまま懐へ入る。


肘。


胸。


CARRIERが下がる。


冬馬が蹴りを放つ。


CARRIERが腕で受ける。


衝撃で駅のガラスが割れた。


CARRIERは頭突き。


冬馬の複眼へ直撃。


火花。


しかし冬馬は下がらない。


腹へ拳。


一発。


二発。


三発。


CARRIERが冬馬の腕を掴む。


肩投げ。


冬馬の身体が宙を舞う。


だが。


空中で身体を回転。


足を柱へ着ける。


蹴る。


反転。


飛び膝。


CARRIERの顎へ入った。


怪人が倒れる。


冬馬は追う。


拳を振り下ろす。


CARRIERが両腕で防御。


冬馬は体重を乗せる。


CARRIERは下から蹴り。


冬馬を押し退ける。


二人が離れる。


呼吸。


雨。


無人の駅に警報だけが響いている。


「何故そこまで守る」


CARRIERが訊いた。


「依頼だから」


「それだけか」


「十分だ」


CARRIERの背中の器官がすべて開いた。


大量の白い霧。


冬馬は。


退かなかった。


「馬鹿か!」


霧の中へ走り込む。


視界。


ゼロ。


だが。


冬馬には触角がある。


空気の振動。


足音。


呼吸。


右。


拳。


命中。


CARRIERがよろめく。


次。


左。


蹴り。


脇腹。


CARRIERも爪を振るう。


冬馬の胸装甲が裂ける。


だが。


冬馬はその腕を掴んだ。


「捕まえた」


頭突き。


CARRIERの動きが止まる。


冬馬の脚部外殻が大きく開く。


内部。


筋繊維と機械組織が同時に収縮する。


床が割れる。


跳躍。


駅舎の天井近くまで。


身体を回転。


落下。


踵がCARRIERの胸へ直撃した。


爆発したような衝撃。


床が陥没する。


CARRIERは中央に倒れていた。


背中の器官。


停止。


冬馬は荒い息を吐きながら近づいた。


「恐怖より」


CARRIERを見下ろす。


「少しだけ速かったな」


第十二章 封鎖解除


CARRIERは生きていた。


外殻は消え、人間の姿へ戻っている。


雨が顔を濡らしていた。


「人間は……変わらない」


力のない声。


冬馬はその隣へ座った。


「そうかもな」


CARRIERが冬馬を見る。


「なら、何故……」


「変わらないからだ」


遠く。


救急車。


消防車。


警察車両。


「助ける奴もいる」


CARRIERはしばらく冬馬を見ていた。


「お前は……人間か」


冬馬は少し考えた。


「知らない」


CARRIERは初めて。


怪人ではなく。


普通の男のように笑った。


そのまま目を閉じた。


数日後。


真鍋が持ち出した研究データから対処法が確立された。


患者の症状は徐々に改善。


新規感染者も減少。


封鎖区域は一つずつ解除された。


電車が動く。


店が開く。


学校へ子供たちが戻る。


家族が抱き合う。


街が。


日常を取り戻していく。


NO TRACE調査事務所。


久世が缶コーヒーを机へ置いた。


「街は助かった」


「ああ」


「なら勝ちだろ」


冬馬は窓の外を見る。


「違う」


「またそれか」


「HELIXは観測データを持ち出した」


「証拠は?」


「ない」


久世は呆れたように笑った。


「探偵の勘か」


「嫌な予感だ」


「一番当たる奴だな、それ」


その日の午後。


真鍋が事務所を訪れた。


「自首します」


冬馬は頷く。


「そうしろ」


「逃げません」


「それがいい」


真鍋は扉へ向かう。


だが途中で立ち止まった。


「榊さん」


「何だ」


「私は……やり直せるでしょうか」


冬馬はすぐには答えなかった。


「知らない」


真鍋が俯く。


冬馬は続けた。


「でも生きてるなら、調べる時間はある」


真鍋は少し笑った。


そして。


泣いた。


夜。


事務所。


電話が鳴った。


冬馬が受話器を取る。


「NO TRACE」


『探してほしい人がいます』


女性の声。


冬馬はペンを取った。


「名前は」


窓の外では雨が降っている。


昨日まで恐怖に閉じ込められていた街は。


また歩き始めている。


冬馬も同じだった。


受話器越しに名前を聞く。


メモを取る。


コートを羽織る。


照明を消す。


扉を開ける。


廊下へ。


一つの足音が遠ざかる。


また。


誰かが残した。


わずかな痕跡を追うために。


――NO TRACE.


第三巻 完

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