第七釜の主
造幣局の通路は、熱と沈黙でできていた。
上へ上がるほど空気は冷えるのに、息は重くなる。ここで重いのは鉛でも銀でもない。責任だ。
責任は人を殺す。しかも紙で。
「第七釜の監督室は上だ。口の利き方、間違えるなよ」
案内役の下級官が震え声で言った。
「間違えると?」
ロアンが聞く。
「あなたが抜けなくなる」
ヴィオラが先に答えた。
下級官が泣きそうな顔で頷く。
エルネが小さく言った。
「抜けなくなるって……」
「仕事が増えるって意味」
ロアンが真顔で言うと、エルネが真顔のまま返した。
「笑えない」
セドリックは黙って階段を上った。笑えないのは同意だ。笑えないから、笑える場所で笑う。
監督室の前には衛兵が二人いた。鎧が新しい。動きが揃っている。
鑑識眼が即座に教えてくる。
衛兵:王直属軍系(訓練)。
忠誠:造幣局ではなく“大蔵院筋”。
意図:遮断/時間稼ぎ。
ロアンが一歩前へ出ようとする。セドリックが指一本で止めた。
「剣を抜くな。ここは剣が負ける場所だ」
「分かってる。人生で——」
「それも抜くな」
ヴィオラが吹き出し、すぐに咳で誤魔化した。
セドリックは衛兵に勅命の巻物を見せる。
「グレイヴ領主家、セドリック・グレイヴ。偽造信用状の件で造幣局に協力要請が出ている。監督と話す」
衛兵は巻物を受け取らず、目だけで確認した。
「許可がない」
「許可ならある。大蔵院次官補ハルドの名で」
名を出すと空気が変わる。紙の刃は名前で振れる。
衛兵が一瞬だけ躊躇し、扉の内側へ合図を送った。
鍵が回る音。重い扉が開く。
室内は意外に整っていた。机、棚、帳簿、封蝋の棒、刻印の見本。
壁には、王家の紋章の試し押しが並ぶ。どれも完璧。完璧すぎて気味が悪い。
奥に男がいた。五十前後。肥えていない。武人でも商人でもない体つき。
目が笑わないのに、口が笑う。
「グレイヴ卿。田舎の空気を背負ってきたな」
監督――ヴァルディスと名乗った。第七釜の責任者。造幣局の“顔が利く”男。
「偽造の件で来た」
セドリックが言うと、ヴァルディスは椅子に深く座り直す。
「偽造? 造幣局の恥を、そんな言葉で呼ぶな」
「我々は王の印を作る。偽造は外の獣がやることだ」
リュシアが一歩前に出た。
目が冷たい。釜の火より冷たい。
「外じゃない」
ヴァルディスの視線がリュシアに落ちた。
「……ヴァルネの娘か。まだ生きていたのか」
その言い方で、室内の温度がさらに下がった。
エルネが歯を噛み、ロアンの握る鉄棒がきしむ。
セドリックは言った。
「封蝋が盗まれた。配合帳が抜かれた。偽造の封蝋に第七釜の癖がある。俺は原因を聞きに来た」
ヴァルディスは、笑いを薄くした。
「癖? 職人の迷信だ」
「迷信なら、証明できる」
リュシアが封蝋片を机に置いた。
封蝋片には焦げの微細な粒が混じっている。
「第七釜は煮方が荒い。焦げが出る。隠すために樹脂を少し多く入れる。匂いが甘く、あと味が苦い」
「この偽造の封蝋も同じ。釜の癖が一致してる」
ヴァルディスの指が止まった。
ほんの一瞬。だが鑑識眼には十分だった。
動揺:微。
怒り:表層。
恐怖:大蔵院。
守りたいもの:地位(最大)。
「娘。言葉を慎め。父がどうなったか忘れたか」
リュシアの顎が上がる。
「忘れてない。だから言う」
セドリックが間に入った。
「監督。次官補ハルドは“造幣局の管轄”と言った。造幣局は“大蔵院の仕事ではない”と言った」
「つまり、誰も責任を負わないつもりだ。責任が宙に浮けば、国は落ちる」
ヴァルディスは机の上の封蝋棒を指で転がした。
「国が落ちる? 落ちるのはいつも地方だ。王都は残る」
ロアンが低く言った。
「言ったな、いま」
ヴィオラが即座にロアンの袖を掴む。
「喧嘩しない。今は紙の殴り合い」
ロアンが渋々黙る。
セドリックは、机の上に“受領札”を並べた。昨日と一昨日、関所で取った証拠だ。
そして、束番号の紙片。第二倉。複数流通。
「第七釜の樹脂はどこから来る」
ヴァルディスが口角を上げる。
「大蔵院の倉だ。だから何だ」
「倉の出庫帳を見たか」
「見ない。見る必要がない」
セドリックは頷いた。
「なら見せてやる」
ヴィオラが帳簿を開き、指先で数字をなぞった。彼女の指は速い。清算の道を知っている指だ。
「第二倉から出た樹脂の量が、今月だけ“増えている”。増え方が不自然。
しかも出庫先が“造幣局”じゃなく、名義だけの下請けに分散してる」
ヴァルディスの目が細くなる。
「両替商の娘が、倉の帳を知っているのか」
「知ってるよ。帳簿は血管だから。血管が詰まれば死ぬ」
ヴィオラの声は軽いのに、内容は重い。
ヴァルディスが初めて椅子から身を起こした。
「……言いたいことは何だ」
セドリックは短く言った。
「第七釜は利用された。あるいは、お前が利用した」
室内の空気が切れる。
衛兵の手が剣に近づく。剣は抜けない。だが“抜く気配”だけで人は死ぬ。
エルネが一歩前に出た。声が低い。
「あなたが何をしたかは分からない。でも、今ここでまた誰かを消すなら、次は私が黙らない」
誰に対しての脅しでもない。誓いだ。
リュシアの目が一瞬だけエルネを見る。理解した目だった。
ヴァルディスはセドリックを見た。
笑みは消え、口は乾いている。
「若造。君は賢い。賢い者ほど――」
「早く死ぬ。聞いた」
セドリックは遮った。
「だから提案する。俺と取引しろ」
ヴァルディスの眉が動く。
「取引?」
「お前の地位を守る代わりに、“内通者”の尻尾を出せ。
お前が黒なら、お前は捨てられる。白でも同じだ。責任は誰かに押し付けられる」
ヴァルディスが苦く笑った。
「なるほど。地方の坊ちゃんは、脅し方が上手い」
「脅しじゃない。現実だ」
セドリックは机に、もう一つ置いた。
封蝋配合帳の欠けた頁の端――そこに残っていた“次官印”の痕。
「次官印が絡んでいる。お前が黙れば、お前が罪になる。喋れば、別の誰かが罪になる」
「……私に、誰を売れと言う」
「売るのは人間じゃない。流れだ」
セドリックは続けた。
「第七釜の出入り。樹脂の受け取り。配合帳の管理。
どの瞬間に、誰が触れたか。それだけでいい」
リュシアが口を開いた。
「刻印師はね、手を見れば分かる」
「印章を扱う手は、刃物を扱う手と同じ。癖がある。
誰が触ったか、見れば分かることもある」
ヴァルディスはリュシアを見て、少しだけ目を逸らした。
その視線は“憎しみ”ではない。別の種類の痛みだ。
鑑識眼が示す。
ヴァルディス:リュシア父と過去に関係/罪悪感(少)
本心:自分も脅されている(高)
鍵:大蔵院の札
セドリックは踏み込んだ。
「脅されているな。誰に」
ヴァルディスの喉が鳴る。
沈黙。長い。だが、完全ではない。沈黙は割れる前の音だ。
「……倉から札が来る」
やっと出た。
「“造幣局の責任を取れ”と。
拒めば、次は俺の印が偽造に使われる。そう言われた」
ヴィオラが息を吸う。
「印を奪われたら終わりだね」
「終わりではない」
セドリックが言った。
「印が奪われるなら、印の価値を変える。
偽造に使えば“自白”になるようにする」
ロアンが首を傾げる。
「どうやって」
セドリックはヴァルディスを見た。
「刻印師は印を彫る。印は“癖”だ。
癖に罠を仕込めばいい」
リュシアが目を細めた。
「……わざと欠けさせる? 微細な傷を入れる?」
「そうだ。偽造に使われた瞬間、どこから出た印か分かる」
ヴァルディスが笑った。初めて少しだけ、本当の笑いだった。
「狂っている。だが……職人のやり方だ」
セドリックは頷いた。
「協力しろ。お前は生きる。
そして、内通者は“印”で死ぬ」
ヴァルディスはしばらく黙り、最後に短く言った。
「分かった。だが条件がある」
「言え」
「ヴァルネの娘を守れ。
あいつが死ねば、次は俺が殺される。……いや、俺が殺すことになる」
セドリックは一拍だけ置いて言った。
「守る。契約だ」
リュシアが唇を噛む。
守る理由が、また一つ増えた。
そのとき、扉の外で足音が増えた。整った足音。
衛兵ではない。もっと揃っている。もっと静かだ。
鑑識眼が赤く点滅する。
来訪:大蔵院(上)。
目的:回収/遮断。
時間:今。
ヴァルディスが呟いた。
「来たな……札の主が」
セドリックは笑わなかった。
だが、少しだけ胸の奥が軽くなる。
相手が動いた。
動いたなら、尻尾が見える。




