刻印師の手、帳簿の喉
造幣局の地下は、夜になっても熱かった。
釜の火は落としても、匂いは落ちない。封蝋の甘さと、焦げた樹脂の苦さが、喉の奥に貼りつく。
セドリックは縛った襲撃者を椅子に座らせた。口は塞がない。口を塞ぐのは殺すときだ。
ロアンが鉄棒を肩に担いだまま言う。
「で? ここで“価値に変える”ってやつか」
「尋問じゃない。取引だ」
「取引って言い換えると優しく聞こえると思ってんの?」
ヴィオラが横から刺す。
エルネは血のついた布を洗いながら、無言でこちらを見ていた。怒っている。優しい人間が怒るときは、正しさの方が怖い。
リュシアは少し離れた机の上に、封蝋片と刻印道具を並べている。
襲撃されても手が止まらないのが、職人の悪い癖だ。
セドリックは襲撃者の胸元にあった倉印の札を指で弾いた。
「これは本物だ。どこの倉だ」
襲撃者は唾を飲み込み、黙った。
鑑識眼が、黙りの中身を見せる。
恐怖:大蔵院(次官筋)
弱点:家族ではない/“帳簿”
報酬で動く確率:中
脅迫で折れる確率:高(だが証言が汚れる)
セドリックは声の温度を変えずに言った。
「お前は“口封じ”の駒だ。駒は捨てられる。捨てられた駒は、最後に給金すらもらえない」
ロアンがぼそっと言う。
「嫌な現実」
「現実は嫌なものだ」
セドリックは襲撃者の前に銀貨を三枚置いた。
「これは今の給金。嘘じゃない。触っていい」
襲撃者の目が銀貨に落ちる。指が震え、銀に触れ、ほんの一瞬だけ顔が緩む。
銀は嘘をつかない。紙は嘘をつく。
「次に、お前が生きるための条件を置く」
セドリックは二枚目の紙を置いた。受領札だ。昨日の橋守り料の控え。印がある。
「俺の家印で保証する。王都へ入った後、お前を“盗賊”として処理させない」
「代わりに、お前は“誰が”お前に命令したかを言う。名前じゃなくていい。印でいい」
襲撃者は目を泳がせた。
名前は殺される。印は交渉になる。
「……印、だと?」
「そうだ。大蔵院の倉印は見た。次は“誰の印章”だ」
襲撃者の唇が歪む。言えば死ぬ。言わなければ今ここで捨てられる。
駒が迷っている時間は短い。
そこへ、リュシアが背中越しに言った。
「喋らないなら、手で分かるよ」
全員の視線が彼女へ向く。
リュシアは封蝋片を持ち上げ、襲撃者に見せた。
「封蝋の匂いってね、釜だけじゃない。手に残る。樹脂と油の匂い。洗っても残る。職人は分かる」
「……何が分かる」
「誰が“触った”か。少なくとも、造幣局のどの班の匂いかは分かる」
セドリックが思わず視線を細める。
「匂いで班まで?」
リュシアが鼻で笑う。
「刻印師を舐めないで。
印章は“押すだけ”じゃない。彫りの深さ、角度、欠け方、押し圧、封蝋の温度。全部が癖になる。癖は手に出る」
彼女は刻印道具を一つ取り、机に置いた。小さな鏨。刃先が光る。
「刻印師ってのはね、王の顔を彫る仕事だよ。失敗すれば“偽造”扱いで首が飛ぶ。
だから、嘘を嫌う。嘘は首に直結するから」
エルネが小さく言った。
「……あなたのお父さんも、それで」
リュシアの手が一瞬止まった。
だが、すぐに動き出す。止まるのは痛い。動く方が痛みを薄める。
「父は偽造に加担したって“帳簿に書かれた”。それだけで消えた」
「刻印師は、印を作る。でも印に殺される。笑えるでしょ」
笑えない。
だからこの話は強い。
襲撃者が、ついに口を開いた。
「……次官印だ」
セドリックの鑑識眼が、言葉を確定する。
真偽:高
一致:あり(配合帳の欠頁印と一致)
「大蔵院の次官印。命令は“言葉”じゃない。札で渡された。倉印の札と一緒に」
ヴィオラが息を吸う。
「次官が直接、口封じを?」
「直接じゃない。次官印を持つ“誰か”だ」
セドリックが言うと、襲撃者は首を振った。
「俺が見たのは、印だけだ。顔は見てない。
でも……札を渡した手は、造幣局の人間じゃない。指が綺麗だった。書類の人間の指だ」
セドリックは机の上の封蝋配合帳を指で叩いた。
一枚抜けている。抜けたページがどこへ行ったか。それが次の戦場だ。
「取引成立だ。お前は生かす。ただし、逃げたら価値が落ちる。価値が落ちたら捨てる」
襲撃者が青ざめた。
「……分かった」
ロアンが低く笑う。
「優しいな。セド。捨てるって宣言してるのに」
「宣言しないと信用にならない」
「それ信用じゃなくて恐怖だろ」
「恐怖は短期の信用だ」
「最悪」
ヴィオラが横で囁く。
「でも正しい。最悪だけど」
⸻
その頃、造幣局の上では騒ぎが広がっていた。
“造幣局で襲撃”。それだけで噂は羽が生える。羽が生えれば、勝手に王都中へ飛ぶ。
案内役の下級官が戻ってきた。顔が真っ青だ。
「グレイヴ卿……大蔵院から連絡が。あなたは今すぐ戻れ、と」
「戻らない」
セドリックは即答した。
「造幣局の封蝋が破られている。原因を掴むまで動かない」
「ですが! 大蔵院はあなたの“証言”を——」
「証言は価値だ。価値を値切るなら、売らない」
下級官は言葉を失った。
ロアンが小声で言う。
「値切るなって言ってるやつが一番値切る顔してる」
ヴィオラが小声で返す。
「それ言うとまた帳簿に書かれるよ」
エルネが咳払いをした。二人とも黙る。
セドリックはリュシアを見た。
「刻印師の班、分かると言ったな。どの班が“癖を漏らした”?」
リュシアは封蝋片をもう一度嗅ぎ、指で擦り、目を閉じた。
「……第七釜。封蝋の煮方が荒い。焦げが出る。
それを隠すために樹脂を少し多く入れる癖がある。今の偽造の封蝋も、その癖がある」
ヴィオラが眉をひそめる。
「第七釜って、上級監督の管理じゃない?」
下級官が震えながら頷いた。
「はい……監督は、王都でも顔が利く人で……」
顔が利く。
つまり、印が利く。
セドリックは短く言った。
「会いに行く」
「今から!?」
「今しかない。今なら向こうも“騒ぎ”で動く。動くなら尻尾が出る」
ロアンが腕を鳴らす。
「ようやく殴れる相手か」
「剣は抜くな」
「分かってる。人生で殴る」
「それだけはやめろ」
ヴィオラが笑い、エルネが眉間に皺を寄せ、リュシアが呆れた顔をした。
「……あなたたち、緊張感って知らないの?」
セドリックが答える。
「知っている。だから、笑えるときに笑う」
リュシアは一瞬だけ、目を逸らした。
笑えるときに笑う。そんな余裕を、彼女は持てなかった。
セドリックはリュシアに外套の焼け跡を見せないよう、前に立った。
「来い。契約だ」
「命令?」
「契約」
「同じに聞こえる」
「違う。契約なら、対価を払う」
「対価は?」
セドリックは一拍だけ置いて言った。
「父の行方へ繋がる道を見せる。
その代わり、お前は封蝋の真贋を俺のために嗅げ。刻印師として」
リュシアの指が、刻印道具の柄を強く握った。
「……分かった」
言葉は短い。だが、それは彼女なりの誓約だった。
こうして、セドリックの“チーム”は一人増えた。
守りたいものは、まだ現れていないはずだったのに。
それでも、封蝋の匂いが教えてくる。
守るべきものは、いつだって帳簿より先に燃える。




