封蝋の匂い
大蔵院の門は、笑わない。
石の壁は分厚く、扉の鉄は冷たい。門番の目は眠っているようで、こちらの心臓だけを起こす。
セドリック・グレイヴは、その前に立った瞬間に理解した。
ここは金を扱う場所じゃない。
人間の未来を差し押さえる場所だ。
「ようこそ、グレイヴ卿」
案内の文官は愛想が良い。愛想が良いほど怖い。
ヴィオラが小声で言った。
「笑わない人より、笑う人の方が刺してくるよね」
ロアンがぼそっと返す。
「笑う奴は剣を抜かない。代わりに紙を抜く」
「紙を抜くって何それ」
「……抜いたら終わる紙」
妙に上手いのが腹立つ。セドリックは何も言わずに歩いた。
廊下は長い。窓が少ない。空気が乾いている。封蝋の匂いがする。
扉をいくつか抜けると、会議室に通された。長机、椅子、壁いっぱいの棚。棚に並ぶのは本ではなく、帳簿だ。
そして席の奥に、ひとり。
痩せた中年。衣は地味だが、指に倉印の指輪。
目が硬い。硬い目は、柔らかい嘘を吐く。
「大蔵院次官補、ハルドだ」
名乗りは短い。自信があるからだ。
「グレイヴ卿。あなたが地方で起こした“騒ぎ”は、王都でも聞こえている」
「騒ぎは起こしていない。暴発を止めただけだ」
「同じことだ。止めた者が責任を負う」
次官補ハルドは微笑んだ。
微笑みが、刃の形をしている。
「あなたが持つ偽造信用状。流通経路。証言。すべてが必要だ」
セドリックの鑑識眼が、男の言葉の裏に薄い文字を出す。
欲:情報(高)
恐怖:上(王・御前会議)
目的:支配(証言の囲い込み)
真意:偽造の根絶ではない/責任の移転
ヴィオラが一歩前に出る。帳簿を抱えたまま、柔らかく言った。
「次官補殿。情報は価値です。価値には対価が必要です」
「対価なら用意する」
ハルドが即答した。
「グレイヴ領への優遇。関税の減免。追加の信用状枠。あなたの領は救われる」
エルネの眉が微かに動く。“救われる”という言葉は、彼女には甘い毒だ。
ロアンは腕を組んだまま吐き捨てる。
「救うって言い方が嫌いだ。最初から首を握ってる奴の言葉だ」
ハルドはロアンを見ない。見ないのが正解だ。剣の人間は、紙の人間にとって雑音でしかない。
「条件がある」
ハルドが言った。
「あなたの証言は、御前会議で“正しい方向”に使われるべきだ」
「そして――」
視線がヴィオラに滑る。
「両替商の娘は、ここに置く。清算網の安全のためだ」
檻の言い換えだ。
ヴィオラは笑顔を崩さないまま言った。
「それは“安全”じゃなく“没収”ですね」
ロアンが小声で囁いた。
「没収って言うな。ここで言うと帳簿に書かれる」
「もう書かれてるよ」
ヴィオラの返しが早い。ロアンが黙る。
セドリックは机に指を置いた。
「話が早い。取引はしない」
空気が一瞬止まる。
ハルドの笑みが、ほんの少し薄くなる。
「あなたは賢い。しかし賢い者ほど――」
「早く死ぬ。分かっている」
セドリックが遮ると、ハルドは目を細めた。
「なら、あなたの賢さを試そう。偽造はどこで起きている」
「地方ではない」
「証拠は?」
セドリックは懐から、束番号を書いた紙片と、受領札の控えを机に置いた。
ヴィオラの帳簿の端を軽く叩く。
「大蔵院第二倉。そこを通った束が複数流通している」
ハルドの指が止まった。
止まったのは一瞬だけだが、十分だ。
鑑識眼が告げる。
動揺:あり
隠蔽:強
次手:矛先逸らし
「第二倉か。大蔵院を疑うのは賢明ではない」
「疑っていない。辿っているだけだ」
セドリックは冷たく言った。
「偽造は“紙”ではなく“封じ”が破られている。封蝋の癖が違う」
「封蝋……」
ハルドが初めて、ほんの少しだけ苛立った。
「その話は造幣局の管轄だ。大蔵院の仕事ではない」
来た。矛先逸らし。
だが、逸らした先は“核心”だ。
セドリックは立ち上がった。
「なら造幣局へ行く。勅命の期限は迫っている。偽造の原因を掴めば、俺の証言は価値になる」
「勝手に動かれると困る」
「困るのは、困る理由がある者だけだ」
ハルドの笑みが完全に消えた。
代わりに、事務的な声が出る。
「案内を付ける。余計なことはするな」
「余計なこととは?」
「“関係のない人間”に近づくな」
セドリックは答えずに会議室を出た。
廊下を歩きながら、エルネが小声で言う。
「……造幣局に行けば、何か分かるの?」
「封蝋が分かる。封蝋が分かれば、誰が“国の喉”に指を入れているか分かる」
ロアンがぼそっと言った。
「つまり、喉に指入れてる奴を折るんだな」
「折らない。買う」
「買うのも嫌いだな」
「折るより安い」
ロアンは言い返せず、黙った。
⸻
造幣局は王都の内側、城壁の影にあった。
門は堅い。衛兵は多い。剣を抜くと死ぬ場所だ。つまり、剣以外の力が支配している。
案内役の下級官が言った。
「ここは王の金属と印を扱う。無礼は死だ」
「助かる。俺も無礼は嫌いだ」
セドリックが言うと、ヴィオラが横で囁いた。
「無礼は嫌い(ただし言い方は無礼)」
ロアンが吹き出しそうになって咳をした。エルネは真顔のままだ。真顔が一番怖い時がある。
地下へ降りる。
熱が上がる。匂いが濃くなる。銀を溶かす匂い、紙を乾かす匂い、そして封蝋の甘い匂い。
工房の中央に、女がいた。
髪をきつく結び、袖を肘まで捲り、指先を蝋と煤で汚している。
その汚れを恥じていない。むしろ刃みたいに誇っている。
「そこ。足音が大きい。紙が揺れる」
顔も上げずに言う。
セドリックは足を止めた。
女がようやく顔を上げる。目つきが、誰も信用していない目だ。
「……誰」
案内役が慌てて言う。
「こちらはグレイヴ卿。偽造信用状の鑑定で――」
「へえ。地方のお坊ちゃんが、ここまで来たんだ」
女は鼻で笑い、手元の封蝋片を指で弾いた。
「リュシア・ヴァルネ。刻印師の娘。今は、名乗るほどでもないけど」
リュシア。
セドリックの鑑識眼が、勝手に文字を浮かべる。
価値:極大
危険:極大
鍵:封蝋・印章の癖
動機:父の名誉(失踪)
標的:口封じ(高)
生きた鍵。生きた弱点。
「これを見ろ」
セドリックが信用状を差し出すと、リュシアは受け取らない。
代わりに、机の上の封蝋片を二つ摘まみ、匂いを嗅ぎ、ほんの少し舐めた。
顔が歪む。
「……混ぜ物が違う。でも違い方が上手い。ここまでやれるのは“外”じゃない」
案内役が硬直する。
「内……部?」
「造幣局の釜の癖を知ってるやつがいる。封蝋は飾りじゃない。温度、樹脂の比率、冷まし方。全部が癖になる」
セドリックの鑑識眼が、封蝋片の上に答えを重ねる。
樹脂:王都北の希少樹
調達:大蔵院倉(第二倉)
帳簿:改竄痕あり
セドリックは結論だけを置いた。
「大蔵院の倉を通っている」
リュシアの目が細くなる。
「あなた……何者」
「鑑定役だ」
「嘘。あなたの目、紙じゃなく“流れ”を見てる」
痛いほど鋭い。
そのとき、工房の奥で金属が擦れる音がした。
静かすぎる足運び。作業員ではない。
ロアンが半歩前に出る。剣は抜かない。代わりに工具棚の鉄棒を握る。
影が二つ、柱の陰から滑り出た。造幣局の作業服。だが目が死んでいる。
セドリックの鑑識眼が赤く点滅する。
目的:口封じ
優先:リュシア
副次:証拠の回収
背後:大蔵院/不明
「リュシア、下がれ」
セドリックが言うより早く、リュシアは机の下から短い刃物を抜いた。
「ふざけないで。ここは私の釜だ」
ロアンが低く言う。
「強情なのは嫌いじゃない。死にやすいけどな」
「余計なこと言わないで」
ヴィオラが即座に突っ込む。
こんな時に口が回るのが、逆に怖い。
影が距離を詰める。狙いは喉。声を奪うやり方だ。
ロアンが鉄棒を振り、最初の一撃を逸らす。金属が鳴る。
エルネが負傷した作業員を引き寄せ、救護に入る。彼女の手は迷わない。迷わないのに、目だけが怒っている。
セドリックはリュシアの腕を掴んだ。
「離せ!」
「喋るな。今は資産だ」
「最悪!」
「正確だ」
言いながら、セドリックは自分の外套を引き裂き、リュシアの肩に被せた。
封蝋釜の蒸気が跳ね、熱い蝋が飛ぶ。リュシアの頬を掠め、外套に焼け跡を残す。
リュシアが一瞬、息を呑む。
「……何して」
「死ぬな」
短い言葉だけが出た。
優しい言葉は得意じゃない。だが行動は、得意にしなければならない。
影の一人がセドリックへ飛び込む。
セドリックは避けない。避ければリュシアが取られる。
代わりに、机の上の信用状束を掴み、相手の顔に叩きつけた。
紙が舞う。
本物も偽物も、同じように宙を舞う。
ロアンが叫ぶ。
「紙で殴るな!」
「剣が抜けない場所だ!」
「じゃあ俺は何で殴ればいいんだよ!」
「人生だろ」
「意味が分からねえ!」
ヴィオラが笑いを噛み殺しながら言う。
「ロアン、人生で殴ると捕まるよ」
笑っている場合じゃないのに、空気が一瞬だけ緩む。
その一瞬が、命を繋ぐ。
セドリックは襲撃者の手首を捻り、骨が鳴る角度で押さえた。
「誰の命令だ」
相手は歯を食いしばる。
恐れている方向が見える。死ではない。印だ。帳簿だ。
セドリックは相手の胸元から札を引き抜く。封蝋の欠片に押された印。
大蔵院倉印。
「……なるほど」
セドリックはロアンに顎で示す。
「縛れ。殺すな。生かして価値に変える」
ロアンが舌打ちしつつ、縄で縛り上げる。
エルネが負傷者を支えながら怒鳴る。
「これ以上血を流したら、ここは封鎖される! リュシアも、あなたたちも出られない!」
正しい。
だから、今ここで終わらせる必要がある。
リュシアが震える手で刃物を握りしめながら言った。
「……私を守るのは、あなたの利得?」
「そうだ」
セドリックは迷わず答えた。
答えたあとで、少しだけ言葉を足した。
「だが利得に変える前に死なせない。俺の前で資産を消すな」
リュシアは笑うべきか怒るべきか迷い、結局、睨んだ。
「契約なら条件がある」
「言え」
「父の行方。大蔵院が関わってるなら――そこへ連れていけ」
「私を道具にするなら、私もあなたを道具にする。公平でしょ」
セドリックは頷いた。
「公平だ。契約する」
工房の隅で、封蝋の香りが漂う。甘い匂いの奥に、焦げた匂いが混じっている。
信用が燃える匂いだ。
セドリックは机の下に落ちた薄い冊子を拾った。封蝋配合の記録帳。
ページが一枚だけ、綺麗に抜けていた。
抜けた紙片の端に、別の印が残っている。
大蔵院、次官印。
セドリックは笑わなかった。
笑う価値は、まだない。




