表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

金を見なかった男

 その夜、俺は財布を持っていなかった。


 正確には、持っていた。鞄の底のポケットに薄い革の財布は入っていた。だが、そこに何が入っているかを確かめる習慣がなかった。

 金に無頓着でいるのは、綺麗なことだと思っていたからだ。


 駅前のロータリーは雨で光っていた。車のライトが水たまりを割って、濡れたアスファルトに線を引く。看板の文字が滲み、世界は安い映画みたいにぼやけて見えた。


 スマートフォンが震えた。画面に出た名前で、心臓が一瞬遅れる。


『悪い。今、病院なんだけど。保証金が足りない。今日中に——』


 電話の向こうの声は震えていた。普段は人に頼らないやつだ。そんなやつが“金の話”をしている。それだけで事態は深刻だと分かるはずだった。


 俺は、分かったつもりになった。


「いくら?」


『三十……いや、四十万。今すぐ。じゃないと——』


「四十か」


 口に出すと小さく聞こえた。四十万。

 人生を左右する数字なのに、まるで買い物の端数みたいだった。


 頭のどこかで計算をした。貯金はある。だが“いま”すぐ動かせる現金は? カードの限度額は? ATMの一日の引き出し上限は?

 そういうことを、俺は普段考えない。考えるのが下品だと思っていた。


 ——大丈夫。なんとかなる。


 なんとか、なる。

 その言葉で世界を済ませてきた。


『頼む。俺、もう……』


 電話の向こうで、誰かの泣き声が混ざった。女の声だ。看護師の声だ。

 俺は息を飲んだ。


「分かった。今行く。すぐ行く」


 電話を切って走り出した。雨が視界を叩き、靴の底が滑る。駅前のATMに飛び込む。

 画面にカードを差し込み、暗証番号を打つ。


 残高はある。

 だが、引き出し上限が出た。

 “本日の引き出し可能額を超えています”。


 一行の文字が、世界の壁だった。


 俺は別のカードを探す。鞄をひっくり返す。ポケットを漁る。指が震える。

 そのとき初めて、理解した。


 金は理念じゃない。

 金は制約だ。

 制約を知らない者は、守れない。


 スマートフォンがまた震えた。出る。声が、さっきより軽い。


『……間に合わなかった』


 言葉が脳に届く前に、膝が折れた。

 雨の音が遠ざかる。ATMの機械音が嫌に鮮明になる。


『医者が言った。処置はできたかもしれないって。保証金が……』


 俺は「ごめん」と言ったつもりだった。

 でも口から出たのは、息だけだった。


 金に無頓着だった。

 それは綺麗でもなんでもない。

 ただの無知だ。


 俺は立ち上がった。病院へ向かわなければならない。謝らなければならない。

 雨の中へ飛び出し、道路を横切ろうとした。


 ライトが見えた。

 近い。速い。

 クラクションの音。


 身体が動かない。

 足が、濡れた白線に縫い付けられたみたいに動かない。


 ——金のことを、ちゃんと見ていれば。


 その思考が最後だった。


 衝撃は音より先に来た。胸の骨が鳴り、世界が裏返る。

 次の瞬間、雨も光も消えた。


 暗闇。


 沈む感覚だけが残った。自分が溶けていく。輪郭が崩れていく。

 そして、暗闇の中に“音”が一つだけ浮かんだ。


 紙の擦れる音。


 それは幼い頃の記憶の音に似ていた。

 羊皮紙の匂い。封蝋が溶ける匂い。

 ありえない。そんな記憶はない。だが、鼻の奥に匂いが刺さる。


 誰かが囁いた。


「対価は、分かっているか」


 声は男でも女でもない。怒りも優しさもない。

 ただ、取引の声だった。


「……対価?」


「お前は金を見なかった。だから失った。次は、見えるようにしてやる」


「見えるように?」


「価値が。真贋が。損益が。裏切りが」


 言葉が並ぶたび、暗闇に薄い文字が浮かぶ。帳簿みたいに冷たい文字だ。

 俺は気づく。これは慈悲じゃない。教育でもない。


 契約だ。


「条件は?」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 泣き叫ぶより先に、取引を選んだ。

 それが俺の後悔の形だった。


「一つ。お前が守りたいものは、すぐには現れない」


「……?」


「お前はまず、守るための器を作れ。国の器だ。信用の器だ。チームの器だ」

「器ができたとき、守るべきものは現れる」


 理解した。

 これは試験だ。

 正しい人間を作る試験じゃない。勝てる人間を作る試験だ。


「受ける」


 言った瞬間、暗闇が割れた。


 冷たい土の感触。鼻を刺す鉄の匂い。遠くで鳴く鳥。

 目を開けると、石造りの天井があった。煤けた梁。粗い布。火の揺らぎ。

 ここは病院じゃない。駅でもない。


 身体が軽い。若い。手の甲に傷がない。


 起き上がろうとすると、視界が歪んだ。

 壁の釘、木箱、卓の上のナイフ、干し肉、コップ。

 それぞれに、薄い文字が浮かぶ。


 価値:低。

 価値:中。

 真贋:本物。

 危険:刃。

 所有者:不明。

 交換可能性:あり。


 俺は息を止めた。


 見える。

 見えてしまう。


 その瞬間、扉が開いた。甲冑の擦れる音。粗い言葉。見知らぬ男が二人、こちらを見る。


「おい、グレイヴ家の坊ちゃん。まだ寝てるのか」


 坊ちゃん。

 グレイヴ家。


 名前が、頭の中に落ちてきた。重い石のように、当然のものとして。


 セドリック・グレイヴ。


 地方領主の息子。王都から遠い辺境の、寒い領地。

 税と兵と飢えと紙。

 紙が剣を止め、紙が首を刎ねる国。


 俺——セドリックは、ゆっくり息を吐いた。


 次は、金を見落とさない。

 次は、信用を切らさない。

 守れなかったものの代わりに、守れる器を作る。


 そのためなら、冷たくなれる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ