金を見なかった男
その夜、俺は財布を持っていなかった。
正確には、持っていた。鞄の底のポケットに薄い革の財布は入っていた。だが、そこに何が入っているかを確かめる習慣がなかった。
金に無頓着でいるのは、綺麗なことだと思っていたからだ。
駅前のロータリーは雨で光っていた。車のライトが水たまりを割って、濡れたアスファルトに線を引く。看板の文字が滲み、世界は安い映画みたいにぼやけて見えた。
スマートフォンが震えた。画面に出た名前で、心臓が一瞬遅れる。
『悪い。今、病院なんだけど。保証金が足りない。今日中に——』
電話の向こうの声は震えていた。普段は人に頼らないやつだ。そんなやつが“金の話”をしている。それだけで事態は深刻だと分かるはずだった。
俺は、分かったつもりになった。
「いくら?」
『三十……いや、四十万。今すぐ。じゃないと——』
「四十か」
口に出すと小さく聞こえた。四十万。
人生を左右する数字なのに、まるで買い物の端数みたいだった。
頭のどこかで計算をした。貯金はある。だが“いま”すぐ動かせる現金は? カードの限度額は? ATMの一日の引き出し上限は?
そういうことを、俺は普段考えない。考えるのが下品だと思っていた。
——大丈夫。なんとかなる。
なんとか、なる。
その言葉で世界を済ませてきた。
『頼む。俺、もう……』
電話の向こうで、誰かの泣き声が混ざった。女の声だ。看護師の声だ。
俺は息を飲んだ。
「分かった。今行く。すぐ行く」
電話を切って走り出した。雨が視界を叩き、靴の底が滑る。駅前のATMに飛び込む。
画面にカードを差し込み、暗証番号を打つ。
残高はある。
だが、引き出し上限が出た。
“本日の引き出し可能額を超えています”。
一行の文字が、世界の壁だった。
俺は別のカードを探す。鞄をひっくり返す。ポケットを漁る。指が震える。
そのとき初めて、理解した。
金は理念じゃない。
金は制約だ。
制約を知らない者は、守れない。
スマートフォンがまた震えた。出る。声が、さっきより軽い。
『……間に合わなかった』
言葉が脳に届く前に、膝が折れた。
雨の音が遠ざかる。ATMの機械音が嫌に鮮明になる。
『医者が言った。処置はできたかもしれないって。保証金が……』
俺は「ごめん」と言ったつもりだった。
でも口から出たのは、息だけだった。
金に無頓着だった。
それは綺麗でもなんでもない。
ただの無知だ。
俺は立ち上がった。病院へ向かわなければならない。謝らなければならない。
雨の中へ飛び出し、道路を横切ろうとした。
ライトが見えた。
近い。速い。
クラクションの音。
身体が動かない。
足が、濡れた白線に縫い付けられたみたいに動かない。
——金のことを、ちゃんと見ていれば。
その思考が最後だった。
衝撃は音より先に来た。胸の骨が鳴り、世界が裏返る。
次の瞬間、雨も光も消えた。
暗闇。
沈む感覚だけが残った。自分が溶けていく。輪郭が崩れていく。
そして、暗闇の中に“音”が一つだけ浮かんだ。
紙の擦れる音。
それは幼い頃の記憶の音に似ていた。
羊皮紙の匂い。封蝋が溶ける匂い。
ありえない。そんな記憶はない。だが、鼻の奥に匂いが刺さる。
誰かが囁いた。
「対価は、分かっているか」
声は男でも女でもない。怒りも優しさもない。
ただ、取引の声だった。
「……対価?」
「お前は金を見なかった。だから失った。次は、見えるようにしてやる」
「見えるように?」
「価値が。真贋が。損益が。裏切りが」
言葉が並ぶたび、暗闇に薄い文字が浮かぶ。帳簿みたいに冷たい文字だ。
俺は気づく。これは慈悲じゃない。教育でもない。
契約だ。
「条件は?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
泣き叫ぶより先に、取引を選んだ。
それが俺の後悔の形だった。
「一つ。お前が守りたいものは、すぐには現れない」
「……?」
「お前はまず、守るための器を作れ。国の器だ。信用の器だ。チームの器だ」
「器ができたとき、守るべきものは現れる」
理解した。
これは試験だ。
正しい人間を作る試験じゃない。勝てる人間を作る試験だ。
「受ける」
言った瞬間、暗闇が割れた。
冷たい土の感触。鼻を刺す鉄の匂い。遠くで鳴く鳥。
目を開けると、石造りの天井があった。煤けた梁。粗い布。火の揺らぎ。
ここは病院じゃない。駅でもない。
身体が軽い。若い。手の甲に傷がない。
起き上がろうとすると、視界が歪んだ。
壁の釘、木箱、卓の上のナイフ、干し肉、コップ。
それぞれに、薄い文字が浮かぶ。
価値:低。
価値:中。
真贋:本物。
危険:刃。
所有者:不明。
交換可能性:あり。
俺は息を止めた。
見える。
見えてしまう。
その瞬間、扉が開いた。甲冑の擦れる音。粗い言葉。見知らぬ男が二人、こちらを見る。
「おい、グレイヴ家の坊ちゃん。まだ寝てるのか」
坊ちゃん。
グレイヴ家。
名前が、頭の中に落ちてきた。重い石のように、当然のものとして。
セドリック・グレイヴ。
地方領主の息子。王都から遠い辺境の、寒い領地。
税と兵と飢えと紙。
紙が剣を止め、紙が首を刎ねる国。
俺——セドリックは、ゆっくり息を吐いた。
次は、金を見落とさない。
次は、信用を切らさない。
守れなかったものの代わりに、守れる器を作る。
そのためなら、冷たくなれる。




