⋆ エピローグ ⋆
吟遊詩人の物悲しい歌声が響く。どこか遠い異国の言葉で歌っている。歌詞の意味は判らなくても、何かを嘆く歌だと判る。
「詩人さんよぉ、もっと明るい曲にしたらどうだい? そこのニイちゃん、泣き出しちまったぞ」
相客が苦情を言うが、詩人が気にする様子はない。
西の街へと向かう荷馬車は金物屋の物、大きな荷台には男ばかり五人の客、その中にアースとフィルの姿もあった。荷馬車に揺られ膝を抱えて俯いて、フィルが思い起こすのはキュアとの昨夜の事だった。
そう、すべてが初めてだった。ときめきも温もりも優しさも情熱も、すべて自分のため、恋しい相手のため、愛しさのため、そんなのは初めてのことだった。
夢見るような時間が過ぎ、これから先もこんな時を持てる暮らしがずっと続いていくと思ったのに――
キュアの部屋、ベッドの上でキュアがフィルの背を撫でる。
「バラの入れ墨? 違う、花の部分、これは痣?」
「あぁ、盗賊の頭が面白がって茎と葉の入れ墨をした。花のところは多分、生まれつきの痣だ」
「へぇ、フィルの目印だね」
「目印?」
「この痣を見れば、たとえフィルがどんなに〝変わってしまっても〟フィルだと判る」
夜明けは間近に迫っていた。
「そろそろ先に行って待っている」
起き上がったフィルをキュアが瞳で追う。ベッドに横たわったままキュアがフィルを見送っている。
「西の出入口近くの金物屋だ。行けばすぐ判る。出発は一刻後……待っているよ」
キュアの返事を聞くことなく、フィルは部屋を出た――
吟遊詩人は歌い続ける。馬車は街から離れ続ける。
「領主さまのところに行かなくてもよくなったの。領主さまの気が変わったんだって」
キュアの部屋で愛し合った後、まだ熱の冷めていない瞳でキュアが言った。
「座長がね、好きな男がいるなら一緒になってもいいって言ってくれた――ほら、窓から飛び降りた時、わたし、客にこう言って逃げたんだ」
惚れた男がいる、その男が窓の下でわたしを待ってる。連れて逃げてくれるって約束してる――
「まさか、誰かがそこにいて受け止めてくれるなんて思ってもなかったから。フィルでよかった。フィルだったから、本当のことになった――それをあの客、座長に言ったらしいの。男がいる女を寄こすなんて美人局か、って、カンカンだったらしいよ。まぁ、領主を断わるのは無理だったみたいだけど……座長ね、そんな男がいるなら、もう客を取らなくても、誰かに身請けされなくてもいい。その男を連れて来いって」
「連れて来い?」
「うん――座長が言うにはね、座員たちには内緒にしてて、わたしにも今まで言わなかったけど、わたし、座長の娘なんだって。母さんの大好きな男って座長だったの。座長には、もう亡くなったけど奥さんがいたから一緒になれなかった。誰にも内緒だったんだって」
だから、母さんが病気になっても見捨てなかったし、わたしに客を無理強いすることもなかった。お金のことも言われなかった。
「その男に座員になって貰って、一緒になればいいって。それで二人で一座を継いで欲しいって。座長が父さんなら、母さんが愛した人なら、大切にしたいなって思ったの。座長、ほかには子ども、いないしね――ねぇ、フィル、曲芸一座で暮らすのはイヤ? 苦労もあるけど、それなりに楽しいよ。フィルは身が軽いから、曲芸を覚えるのもきっと早い。壁をスルスルのぼってたよね」
フィルはそれに答えなかった。旅の一座にいたら、いつかフィルを知る誰かに見られるかもしれない。フィルが曲芸一座にいたと、いずれフィルを追う者に届く。造り酒屋の旦那はともかく、盗賊の頭はフィルを取り返すだけじゃすまない。フィルの目の前で、関わった全てに陰惨な制裁を加え、おまえが招いたことだとフィルを責めるだろう。キュアを巻き込んじゃいけない。一座を巻き込んじゃだめだ。一緒に行けるはずがない――
朝早い出立に、揺れる荷馬車の荷台では身を横たえて眠り始める者もいた。ガタガタと寝心地がいいはずもないのに、眠り込むのは疲れからか?
「旅の道ずれがいるんだ」
フィルがアースのことをキュアに話す。本心は、胸を締め付ける苦しさで言えなかった。
「そいつが荷馬車の手配をしてくれた。キュアを連れてきてもいいと言っている。夜明けから一刻経ったら、西の出入口から街を出る」
キュアがフィルを見ずに応えた。
「一座の暮らしはきっと楽しいよ――だって、フィルにはわたしがいる。わたしにはフィルがいる」
葛藤にキュアの声が震えて掠れる。
気が済んだのか、吟遊詩人が歌をやめた。竪琴をサックに仕舞うと、代わりに包みと革袋を出した。包みの中身はパンだった。
ギリギリまで金物屋の前で待った。ひょっとしたら来るかもしれない。だけど来なかった。やっぱり戻ろうか、ギリギリまで迷った。でも、戻れなかった。
判っていた。
キュアは〝母の愛〟を捨てられない。一座を離れれば後悔する。その後悔に苦しむのはキュアよりもフィルだろう。そしてフィルは、キュアに累が及ぶのが怖かった。大事なものが壊されるのを恐れた。
思いを残したまま、フィルはアースと一緒に荷馬車に乗った。
キュアはフィルを選ばなかった。フィルがキュアを選ばなかったからか?
『それは違うよ』
キュアの声が聞こえてきそうだ。
フィルはキュアを選んだ。キュアはフィルを選んだ。だからこそ選べなかった。ふたりとも、背負える覚悟はあるのに、背負わせる覚悟ができなかった。離れていくしかなかった……
「何も食べていないのだろう?」
アースがパンをフィルによこす。
「革袋の水も飲め。腹を満たして少し眠れ。イヤでも気力が湧いてくる」
アースは何も聞かなかった。昨夜の女はどうしたと、きっと思っているだろうに何も聞かずにいてくれた。
頷いて、やけに塩っぱいパンを齧る。水で飲み下せば、少しは心も落ち着いてくる。
『憧れてるの。大好きな人とのキス……見つめ合って、好きだよってお互いに囁いて、優しく抱き締め合って、そしてそっとキスするの』
キュア……その憧れは叶ったのかい? 本当に、相手は俺でよかったのかい?
そしてフィルは思う。おまえの初めての全部を俺が貰っちまった。それに俺の初めては……全部おまえにやっちまったなぁ――
どこから飛ばされてきたのか、花弁が風に躍らされている。もう、桜の季節は終わりなんだと、ふと思う。パンを全部飲み込んで革袋をアースに返すと、フィルはごろりと横になった。なんだか眠いや。そう言えば一睡もしてない。だからこんなに世界が滲んで見えるのかな……
アースはチラリとフィルを見ただけで何も言わない。ただ前を見て、これから進む先に思いを馳せていた。




