天野玲子の場合⑤
帰り道、人目も憚らず泣きながら玲子は歩く。
同じ中学の生徒、見知らぬ高校生や大人が玲子を物珍しげに凝視してくるが今の玲子には気にならない。
恥ずかしかった、悔しかった、つらかった、みっともなかった、尊厳を踏み躙られた。
まさか自分がそんな気持ちになるとは、対象になるとは夢にも思ってなかった。
こんな日が来るとは思ってなかった。
昨日までの日常がスズメの死骸が落ちる音と共に崩れ落ちるなんて昨日の自分に言っても信じないだろう。
それくらいの衝撃だった。
自分の中の大切な何かが壊された。
あと五分もあれば家に着いてしまう。
早く涙を止めなければと思えば思うほど涙が溢れてくる。
ついに歩みを止めて民家のコンクリートの壁にもたれかかり、しゃがみこんでしまう。
頬から垂れ落ちた涙がアスファルトに跡を作っては消えていく。
もう立ち上がれない、足に力が入らない。
「お姉ちゃん…?」
自分の嗚咽に混じって末っ子の心の声が聞こえる。
しまった、と思って急いで涙を拭くが心が走り寄って来る。
「玲子お姉ちゃん!どうしたの?大丈夫?」
心は玲子と同様にしゃがみこみ、姉の頭を優しく撫でる。
「だ、大丈夫だよ!ちょっとそこで転んで痛くて泣いちゃった。心は優しいね。」
真っ赤に腫れた目を必死に細めて笑顔を作る。
「痛いの大丈夫?玲子お姉ちゃん、一緒に帰ろ?」
立ち上がった心が玲子に手を差し伸べる。
涙を拭って、心の手を取って立ち上がる。
「心配かけてごめんね。帰ろうか。」
手を繋いで歩き、二人で玄関のドアを開けた。
「ただいまー!」
「ただいま。」
「おかえりー。」
月子の声がリビングから聞こえる。
今日はリビングで宿題をしていたのだろう。
玲子は心と一緒に洗面所に行き手を洗う。
鏡を見ると目の周りの赤さよりも三田に蹴られた左頬が腫れていることが目立っていた。
両親に心配されないようになんとかしないと、という思いが瞬時に巡る。
手を洗ってすぐに玲子は冷凍庫から保冷剤を取り出して頬に当てる。
冷たさが痛みを緩和させてくれる。
「お姉ちゃん、それどうしたの?」
気付くと飲み物を取りに来たのだろう月子が不思議そうに玲子を見ていた。
「ちょっと転んでさ、変なところにぶつかって」
「泣くほど痛かったの?」
月子の鋭い質問が刺さる。
相変わらず勘のいい妹だ。
「うん。中学生になって泣いたの初めてかも。」
精一杯の作り笑いだが月子の目はまっすぐにいつもと違う玲子の様子を捉えていた。
「もしかして殴られた?昨日告白してきた男とかに?」
なんでこんなに的確に言い当てて来るのだろう。
いや、厳密には言い当ててはいないが核心を突いている。
「そんなことされるわけないじゃん。お姉ちゃんドジだからこういうこともあるよ。月子は心とお風呂入っておいで。」
これ以上話しているとボロが出そうで玲子は少し強引に月子を遠ざけた。
月子は何か言いたげな表情をしつつも心を誘って脱衣所に向かっていった。
その後、帰ってきた両親からも頬の腫れについては追及されたがのらりくらりと受け流してようやくベッドに入れた。
明日はどうなるのだろうか。
明日も同じようなことをさせられるのだろうか。
それとももっと酷いことをさせられるのだろうか。
頭の中を嫌な想像がぐるぐると巡る。
その夜、玲子は初めて一睡もできず翌朝を迎えるのだった。