三田透子の場合①
「おう、準備はできたぞ。」
岡が灯油缶からガソリンを撒き散らし私たちの方を振り向く。
時刻は深夜零時をとっくに回っている。
元から閑静な住宅街は私たちの呼吸音しか聞こえないくらいに静寂が支配していた。
誰しもが岡から目を背けていた。
私はそんな根性なしたちに少しイライラしながら一歩前に出る。
「もうここまで来たら後戻りなんて出来ないのよ!」
私は岡の手からジッポを奪い取り、全員を下がらさせる。
今いる庭から天野家の人間の姿はカーテンに閉ざされて見えない。
眠っている彼らに向かって唾を吐く。
これで私たちが犯した罪は炎に消える。
数歩下がった私はジッポに火を点け、ガソリンで湿る草むらに放り投げた。
火は私たちの思う数倍の速度で燃え広がり、天野家を飲み込んでいく。
急いで人目のつかない林に隠れて燃え崩れていく家を眺める。
火の粉が爆ぜる音、家屋が崩れ落ちる音に紛れて悲鳴のような声が聞こえ、遠くからサイレンが鳴り響く。
私を含めた全員はやり遂げた達成感なんてものはなく、後味の悪い、不快な満足感が体中を支配して誰一人その場を動けない。
冬だというのにコートの下はじっとり汗をかいている。
そこに予想外の人物が登場する。
天野月子が泣き叫びながらどこからともなく現れ、大人たちに宥められる。
そして絶対に気づくはずのない距離にいる私たちを憤怒と憎悪のこもった眼差しで睨みつけた。
そこで私は目を覚ます。
空調の効いた寝室で寝ているはずなのに私はパジャマが肌に張り付くほどの脂汗をかいている。
ダブルベッドの隣で寝ている光彦さんを起こさないように私はベッドを抜け出し、シャワーを浴びる。
壁時計は午前五時を指している。
シャワーを終えた後、朝食と光彦さんのお弁当作りに取り掛かる。
あれからもう十年以上経ったというのに未だに見る悪夢。特に最後の、天野月子のあの瞳は夢の中だけの光景なのに私はあの瞳に怯えている。
そんなことを考えていると後ろからふわりと抱きしめられる。
「おはよう、透子。今日も早起きありがとう。自慢の奥さんだよ。」
彼の低い声と柔軟剤の甘い匂いに混じるタバコの臭い、私を抱きしめるたくましい腕が悪夢を掻き消してくれる。
そう、私はもう三田透子ではない。早川透子になったのだ。
偏差値もそこそこの都内の大学を卒業し、気乗りしない合コンで今の夫、早川光彦さんと出会った。
大手銀行の営業職で両親も都内でそこそこのお金持ち。ルックスも良く優しい。
結婚するにこれほどの優良物件はなかった。
私の熱烈なアタックに応えてくれ、私たちはつい先日婚姻届けを提出した。
このマンションは彼の両親からの結婚祝いとしてもらった新居で、駅も近い高層階。
家具も全て誰もが羨むブランドで統一されている。
今の私は幸せの絶頂期なのだ。そう、悪夢が霞むほどに。
「あなたこそ、私の自慢の旦那様よ。光彦さん。」
お弁当を包み終えた私は彼に向き直りキスをする。
そのまま一緒に朝食を摂り、彼を見送ってあらかたの家事を済ませて私は結婚式場に向かった。
一週間後に控えている結婚式の打ち合わせだ。
休日は光彦さんもついてきてくれるが出来れば平日の内に面倒な打ち合わせておきたい。
式場に着くと個室に通されプランナーが現れる。
「お待たせしてすみません、早川様。いつもお世話になっております、柳です。今日はこちらの打ち合わせ内容でお間違いないでしょうか?」
スタッフルームから担当プランナーの柳さんが出てきてタブレットに要点をまとめたものを見せてくれる。
人生の晴れ舞台、それを任せるウエディングプランナーは彼女でよかったと心底思える。
仕事の速さ、アドバイスの的確さ、女性ならではの気遣い、どれも群を抜いている。
まるで敏腕経営者のような腕前に光彦さんでさえ唸るほどなのだ。
順調に打ち合わせは進んでいき、問題となるウエディングドレスの選択となった。
数多のそれらの中からどれを選ぶかは毎回宝探しのようでありながら膨大過ぎて私を悩ませる。
「今日もお悩みですね。どれもお似合い、なんて常套句はさすがに言えませんが少しお耳をお貸しいただけませんか?」
柳さんが私の耳に口を近づけ耳打ちする。
「誠に勝手ながら私の知り合いのデザイナーに早川様にお似合いのドレスを作っていただきました。どこにも流通していない一点物で早川様が世界で最初に着用していただければと思っております、私の個人的な繋がりですのでぜひ早川様に着ていただければ…。」
そう言って柳さんが見せてくれたタブレットに移されたのは真っ黒なウエディングドレス。胸や肩に黒薔薇の細工が施してあり私の目を釘付けにした。
「いかがでしょうか?最近人気なんですよ、黒のウエディングドレス。清純、あなたに染められたいを象徴する白とは対照的で、あなた以外に染まらないという意味が込められていて永遠を誓うにはうってつけかと。」
私は即決した。
翌日には試着もし、鏡に映る自分の姿に我ながらうっとりした。
柳さんも満面の笑みで私を見てくれていた。




