日野月子の場合⑭
東京の家に着くころにはすっかりと日が暮れていた。
何度来ても人の多さに慣れることはなく、人混みをかき分けながらアパートにたどり着く。
家具等は明日、搬入予定で今日は何もない抜け殻のような部屋で抜け殻のような私が固く冷たいフローリングに横たわる。
電気を付けなくても街灯の灯りが部屋をそれなりに照らしており、電車の音や人々の喧騒が程よく耳に触れる。
それでも私は家族が焼け死んだ日の公園を思い出す。深海のようなあの公園。深海にいたから私は助かり、家族は殺された。
アキラは私が甘美な眠りを貪っているうちに父親に殺されかけた。
ポケットからそっとカッターナイフを取り出す。ギチギチという音とともに刃が飛び出し街灯の光を反射し鈍く光る。
深海に棲んでいる私の中の獣は日に日に獰猛さを増しており、もし放火犯やアキラの父親が私の目の前に現れたら大衆の面前でも私は襲い掛かるだろう。
でも。それでは意味がない。
確実に一人一人、殺すのだ。
誰にも見えないところでひっそり、それでいて華々しく、惨たらしく、惨めに、生まれてきたことと自分の犯した罪を悔いながら、殺すのだ。
その為に獣を飼いならさないといけない。一時の激情に身を焼かれてはいけない。心と顔に仮面を被ろう。獣と私の感情を隠す仮面を。
翌朝、搬送業者からのインターホンの音で目が覚める。
フローロングで寝てしまったので体のあちこちが痛む。
家具、家電の搬入と設置をてきぱきとこなしてもらい、日本人らしい生活で出来る程度の家になる。
家具家電はどれもアキラと決めて買ったものなどで心がチクチクと痛む。
私は届けてもらった金庫にアキラが貯めた現金を入れる。いくらか数えたことはないが私と同じでかなりの数のお札だ。
私は自分用に買った金庫に札束を入れ、そこから当面の生活費を抜き取り財布に入れた。
なにをするにも億劫でベッドに寝転がっていると気づけば窓から夕陽が射し込む時間になっていた。
私は重い腰を上げて持ってきた黒のワンピースを着る。佐々木さんから頂いていた洋服は荷物になるし私はこの黒のワンピースが好きだから半袖と長袖と複数着買ってそれを着回すことにした。
ちなみにこの黒装束はアキラから散々、喪服と馬鹿にされたが気に入っているのだから仕方ない。
こっちで売春をする必要がないくらいお金もあるし見てくれなんてどうでもいいのだ。
大学に入学した私は地味で目立たない真面目な学生として生きていた。
講義も全て出席し拝聴したが特にこれといって興味を惹かれるものはない。
それでも単位と暇つぶしのため積極的に出席だけはしていた。教授と呼ばれる偉そうな人間が話す言葉は言い回しこそ奇抜だったり小難しかったりするものの嚙み砕いて解釈すると特に難しいことを言っているわけではない。
構内を散策するのも最初は楽しかった。高校とは比べ物にならない敷地面積には学生用の様々な設備が整えられており、コンビニ、チェーンのカフェ、図書館は分野ごとに大別され二か所、学食も和洋中でそれぞれ一店舗ずつ、申請すればいつでも自由に使える学習棟には最新のPCや映像機器に加え図書館に置いていない学術書や研究資料、そして過去の論文まで閲覧可能となっている。
大学自体にはなんの興味もなかったが図書館と学習棟には暇な時間さえあれば入り浸るほど熱中していた。
特に専攻している心理学の論文、医学部生用に置いてある解剖生理学や薬学の知識は私を虜にしてやまないもので時間を忘れて本や資料を読み漁っていた。全て復讐に繋げれるから。
そんな学生生活も秋を迎える頃。
私は夏休みのほとんどを祖母宅とアキラの看病で費やし、東京に戻ってからは後期からの授業も慣れつつあった。
毎日黒いワンピースで登校する私は同じ学部の生徒からかなり変わった目で見られていた。
傍から見れば同じ服を常に着ているように見えるので当然の話なのだが、実際は着まわしているため清潔感はそれなりだ。
この格好の恩恵は着る服を選ぶ時間を省略できることともう一つあった。
変人扱いされることでサークル等の鬱陶しい勧誘や他の学生から声をかけられないことだ。
これがなかなかに便利で卒業することだけが目的の私からすれば、人間関係は希薄なほど有難かった。
とある日、彼女はやってきた。
私はいつも通り、空き時間に図書館から借りた本を喫茶スペースで読みふけっていた。
外はちょうど良い気候になってきたしそろそろベンチで読むのも悪くないな、なんて考えているとガラガラの喫茶スペースでわざわざ私の対面の席に座る女性。
整った顔立ちに大きな黒縁の眼鏡、綺麗に染まった明るい茶髪。座っているので分かりづらいが身長は百七十くらいあるらしい。らしい、というのは同じ学部の学生であり何度もすれ違ったことがあるからだ。
クリーム色の薄いコートの下は黒のニット、ズボンは彼女の脚の長さと美しさが際立つスキニージーンズ。
私が知っているくらい有名な学生、柳春。
帰国子女で大学入学までアメリカで過ごしており、どういうわけか日本に帰国してこの大学に通うことになったらしい。
本人のルックスとスタイルも相まってアプローチをする男子学生は数多くいるが惨敗している、らしい。
何度かグループワークで一緒になったこともあるが彼女の意見はいつも鋭く、良い意味で常識にとらわれず、核心も的確に突いてくるため成績も非常に優秀だ。
そんな彼女がどうして私の対面に座るのか謎だ。
「ここ座ってもいい?」
いいも何も既に座っている。
「どうぞご自由に。」
彼女の持っているカップからコーヒーの香りが漂い私の鼻孔をくすぐる。
私は解剖学の本を眺めているが彼女は私を眺めつつ、コーヒーを一口啜り口を開く。
「日野月子さん、天野月子さん、どっちで呼ばれるのが好み?」
私はハッとして彼女を見る。
柳春は私を興味深そうに見つめている。
「姉が自殺で逝去、その三年後に自宅が放火され両親と妹が焼死。去年はあなたの親友である宮川明さんが父親から暴力を受け現在入院中。合ってるかな?」
黒縁眼鏡の奥にある茶色い瞳が私を覗き込む。
心臓を鷲掴みにされたような恐怖感と自分の大切な過去を土足で踏み荒らされた嫌悪感が混じった殺意とも怨嗟ともとれる目で私は彼女を見つめ返した。
遠くの空からは重たい雲がかかっており雷鳴が聞こえていた。




