天野玲子の場合③
その日は登校するまで平穏な日常だった。
妹たちを起こし、母親と一緒に朝食の準備とお弁当の準備をして、家族で朝食を摂り、制服に着替え、整容して家を出る。
校門をくぐり、友人たちと挨拶を交わす。
ただ、もう玲子の日常というガラスは、平穏というガラスは壊されていたのだった。
玲子が自分の下駄箱を開けると
ボトッ
という鈍い音とともに何かが落ちた。
それを目にして理解するまでに数秒を要したが現実はそこにあった。
首をもがれたスズメの死骸が二羽分。
玲子は声にならない叫び声を上げる。
開いたままの下駄箱に目をやると玲子はさらに後悔した。
もがれた首が玲子の上履きの中に二個、まるで玲子を恨むようにこちらを向いて置かれていた。
後退りする玲子、異変に気付いた周囲の同級生たちが玲子の代わりに悲鳴を上げた。
その悲鳴を聞きつけた教師が数人駆けつける。
玲子は目の前で起こっていることが理解できずその場にしゃがみ込んで動けないまま教師たちがスズメの死体を片付けていく。
上履きはどうするかと尋ねられたが破棄してもらうことにした。
教師から来客用のスリッパを借りて、まだ動揺した状態のまま教室に向かった。
「お、おはよー!」
彼女はなるべく平静を装い、いつもとおりに明るい声でクラスメイトたちに挨拶をするが返事はなく騒がしかった教室が一気に静まるのみだった。
玲子の背中に嫌な汗が流れる。
静寂の中、玲子は真っ直ぐに自分の席へ向かう。
「な、なにこれ…。」
そこで目にしたものは机に油性マジックで書かれた自分への暴言の数々、そして玲子の写真に突き立てられた無数の彫刻刀。
ハッと顔を上げると、黒板には大きく
『天野玲子は援助交際してまーす!』
と書かれていた。
玲子は遠退く意識を必死に保ちながら黒板の文字を消す。
そして席に戻り深く突き刺さっている彫刻刀を引き抜きロッカーの棚に置いた。
見るも無残な自分の写真はとにかく制服のポケットにしまい、机に突っ伏すと涙が溢れてきた。
泣いたのはいつぶりだろうか、そんな些細なことも決壊した涙のダムの前では押し流されていった。
昨日まではあんなに楽しかったのに。
学校に来るのが嫌なんて思ったこともなかったのに。
どうしてこうなった?
私が何か悪いことをしたんだろうか?
謝れば許されるのだろうか?
そもそも誰に謝ればいいのか?
玲子の脳内をぐるぐると疑問が駆け巡るが考えがまとまらず、涙も止まらない。
そんな中、教室の扉が開かれる。
「みんな、おはよー!」
「おっはよー!」
入って来たのは尾形と三田透子。
二人はまるで恋人同士のように腕を組んで入ってきた。
三田透子。彼女はクラスの女子の中でも派手なグループのまとめ役であり玲子は少し苦手意識を抱いていた。 透子も同じ気持ちなのかお互いに距離を取って話すことは滅多になかった。
そんな彼女と尾形がなぜ恋人のように振る舞っているのか。
玲子の頭はまたしてもパニックに陥る。
まだ涙に塗れた玲子の席に二人が歩み寄ってきた。
「うっわ、机汚ぇ…。てかまじで泣き顔ブス過ぎるんだけど。達也、こんなのと付き合わなくてまじ正解じゃない?」
「ほんとそれな。お前、昨日のことこれから後悔させてやるから覚えとけよ。」
透子の目には玲子を蔑む色が、尾形の目には玲子に対する怒りの色がはっきりと滲み出ていた。
「え…あ…あっ!!」
声にならない玲子の前髪を透子が思い切り掴んで顔を上げさせる。
吐息がかかるくらい近い距離にある透子の顔は玲子にとって恐怖の対象でしかなかった。
「お前に負けたのほんとムカついてたけどお陰様で達也と付き合えたから感謝してるよ。これは私からのお礼だよ。」
そう言うと透子は玲子の顔に唾を吐きかけ、前髪を掴んでいた手を離した。
力がほとんど入っていなかった玲子の顔は机に叩きつけられるように落下した。
「透子やめとけって。ブスがもっとブスになるじゃん。」
「あ、そっか。ごめんごめん、玲子〜。」
嘲笑う二人の声に被さる形でチャイムが鳴った。
「お前、チクんなよ。」
ゾッとするくらい冷たい達也の声が玲子の耳に響き、彼女は地獄の始まりを感じた。
たった一つの綻びだったのかも知れない。
けれどそれは思春期の過激で凶悪で恐れを知らない悪意を奮い立たせるには十分なものだった。
これはまだ地獄の序章。
加減も知らない暴力は加減を知らないが故に加速していく。