天野玲子の場合②
尾形からの告白を断り、急ぎ足で家に帰って勢いよく玄関の扉を開けた。
「ただいまー。」
「おかえりー。」
ニ階にある姉妹の部屋から一人分の返事が聞こえる。
玄関にある靴をみる限り、一番下の妹の心は遊びに行っているのだろう。
宿題は終わってるのだろうか、そんなことを考えながら2階に上がり、妹たちの部屋を覗く。
「お姉ちゃん、おかえり。」
勉強机に向かって宿題をしていた真ん中の妹の月子がにっこりと笑顔で振り返る。
肩にかからない程度で切り揃えたボブヘアの黒髪が揺れる。
「ただいま、月子。心は遊びに行ったの?宿題は終わらせてた?」
「私が帰ってきた時にはもういなかったし、ランドセルもほら。」
月子が指さした先にはランドセルが床に転がっており、中身を開けた形跡はなかった。
恐らくいつものように宿題もせずに遊びに出かけたのだろう。
玲子は少しため息を吐いて月子の頭を撫でた。
くすぐったいのか月子は目を細める。
「帰ってきたらお説教しないとね。」
「そんなことより、お姉ちゃんなにかいいことあったの?声がいつもより明るい。」
月子がニヤニヤしながら玲子の顔を見る。
月子は人の変化に気づくのがやけに鋭い。外見も内面もだ。
鈍感な玲子には月子のそんな特技が羨ましく思えていた。
「実はね…。クラスメイトに告白されちゃった。」
「ええー!!どんな人?イケメン?お金持ち?」
月子は握っていた鉛筆を放り投げる勢いで置いたあと、玲子の顔をグッと覗き込んで尋ねる。
妹の新鮮な反応に玲子は少したじろぎながらも
「顔は…たぶんかっこいい…性格もいい人だよ。てか、お金持ちは関係ないでしょ!」
「へぇ〜。もちろんオッケーしたんでしょ?おめでとうお姉ちゃん!あぁ、うちのお姉ちゃんもついに彼氏持ちかぁ。明日みんなに自慢しないとなぁ。」
「ちょっと落ち着きなさい!」
苦笑いしながら月子をなだめる。
「告白は嬉しかったけど勉強とか家のこととかあるし断ったよ。行きたい高校の偏差値結構高めだし、お父さんもお母さんもまだまだ忙しそうだし、それにこんなに手のかかる妹がニ人もいるしね。」
玲子が月子の頭をくしゃくしゃと撫でる。
月子は嫌がる素振りも見せながら頬を緩める。
「やめろおおおおお。…私たちのこととか気にかけてくれてるのは嬉しいけど、結局お姉ちゃんは恋愛にそこまで興味ないだけなんじゃないの?」
月子の芯を突いた質問に玲子は面食らう。
自分の妹ながら勘の鋭さには本当に感心する。
「まぁ…ね。さて、お母さんが帰って来る前にお味噌汁でも作ろうかな。」
玲子が自分の通学鞄を持ち、部屋を出ようとした時、玄関の扉が開き可愛らしい声が聞こえてきた。
「ただいまー!」
一番下の妹、心がバタバタと元気良く階段を駆け上がってきて姉妹の部屋に飛び込んできた。
玲子や月子とは違い、ポニーテールでハーフパンツに半袖のTシャツ、日焼け跡が眩しい元気を体現したような女の子だ。
月子は小学六年生、心は小学四年生になる。
ちなみに月子と心は二人で一部屋をシェアする形で使っており、玲子は一人で一部屋を与えられている。
「心!ただいまーじゃないでしょ!手も洗ってないし、宿題もせずに出かけるし!」
「れ、玲子お姉ちゃん…まさか部屋にいるなんて…。今すぐ手を洗って宿題しまーす!」
心は踵を返して洗面所まで走っていった。
ポニーテールがプラプラと軽快に揺れているのが彼女の動揺を現しているようで見ていて飽きない。
玲子は短くため息を吐き、自室に戻って鞄を置いて一階の台所に向かっていった。
天野家は父親が市役所の職員、母親はスーパーのパート店員であり、全員が家に揃うのは早くて夜六時。遅くても七時には帰って来る。
両親の家事負担が少しでも軽くなるように玲子は自主的に掃除や晩ご飯の副菜や汁物を作るのが今や日課になっていた。
時刻は夜七時、家族が食卓に揃う。
心や月子が学校であった出来事を話し、両親がそれに笑って応える。
食後は妹二人、父、玲子、母の順にお風呂に入って行き、寝る前に復習と予習を一時間ほどこなして就寝する。
日々の何気ない日常を寝る前に噛み締める。
隣の妹たちの部屋からは穏やかな寝息が聞こえてくる。 そのリズムに誘われて玲子も眠りに落ちていく。
玲子はこんな日がいつまでも続けばいいと思っていたし、続くと思っていた。
幸せはまるでガラスのようだ。
普段は透明で見えないが光を当てるとキラキラ輝く。
そして少しの刺激で呆気なく砕け散る。
その少しの刺激に玲子が気づくことはなく、砕け散ったことに気づくのみだった。




