天野月子の場合・終
家族が寝静まった後、私は黒いワンピースを着て、肩から黒いポーチを提げてそっと家を抜け出す。
時刻は0時を少し回ったくらい。深夜俳諧は私の趣味になりつつあった。
地方都市でありベッドタウンでもあるこの街の夜は静かで深い。
昼間はあれだけうるさかった蝉の鳴き声も今はコオロギの声にバトンタッチしている。
街灯の光が届かない道は月明かりが薄く照らしてくれていて、私はそちらの方が好みだ。
いつか、母に私の名前の由来を聞いたことがある。
「太陽のように明るくなくていい、月明かりのように静かに照らしてくれる優しい子になってね。」
母はそう言って微笑んでいた。
当時はよく分からなかったが今、この道を歩いていると分かる。
街灯の灯りでは眩しすぎる人がいる、太陽に背を向けないといけない人もいる、そんな人たちを照らしてくれる月はどんなに優しいものなのかを。
無理やりさせられてるとはいえ売春行為でお小遣いをもらって知らない男に抱かれている自分が正にそうだ。
ポーチの中には数えたこともないがペンケースには収まりきらなくなったお札が入っている。
綺麗なお金ではない、汚れたお金。いつか私を救ってくれるかもしれないお金。
そんなことを考えていると公園に着いた。
昼間は主婦の井戸端会議、子どもたちの笑い声、ボールが跳ねる音、遊具が忙しなく舞う音で騒がしいこの公園もこの時間はまるで海の底のように静かで落ち着く。
いつか聞いたことのある映画のタイトルで、私は貝になりたい、というものがあった。映画の中身は知らないが私もこのまま深海にひっそりと暮らす貝になりたい。
ベンチに座りながら観たこともない映画、見たこともない深海の景色に思いを馳せる。
そんな私の静寂を搔き消すように救急車とサイレンの音がけたたましく鳴り響く。
近くの消防署から出動したようだ。
こんな夜中に火事だろうか。もう一度静かに目を閉じるがサイレンの音は近づいてくる。
未成年がこんな深夜に公園で物思いに耽っているのは褒められたことではない。
私は念のため物陰に身を隠す。
赤い車体と白い車体、そして赤く回転するランプとけたたましいサイレン音が公園を通過した。
私が歩いてきた方に向かって。
人と鉢合わせしたらあまり良い結果にはならないのはわかっている。
しかし未だに鳴り止まないサイレンの音に不気味さと不安感を煽られて私は静かに、足早に自宅に向かうこととした。
自宅の前に到着した私が目撃したのは昼よりも明るく、夏の陽射しよりも熱い光景だった。
自宅が燃えている。真っ赤な炎に包まれて燃え盛っている。
私は現実を受け止められずその場に立ち尽くした。
「月子ちゃん!!どこ行ってたの!!」
近所のおばさんの声で我に返る。
そして私は考えるよりも早く燃え盛る炎に向かって走り出した。
「心!!お父さん!!お母さん!!」
消火活動にあたっていた消防隊員が私に気づき制止させる。
「君!危ないよ!」
防護服を振り払おうとするも私の力ではびくともしない。
「妹が、両親が中にいるかもしれないんです!!」
「君、ここの家の子!?今はだめだ!火の勢いが強すぎて誰も入れないんだ!」
「死んじゃう!心が死んじゃう!お父さんもお母さんも死んじゃう!私はどうなってもいいから三人は助けないと!」
暴れる私を救急隊員が押さえつけ、消防士は消火活動に戻る。
火の手はすでに屋根まで浸食している。
そして私の見てる前で一階が崩落。それにつられて二階も一階を押しつぶす形で崩れ落ちた。
「あ、ああ、あああ…あああああ…。」
私の足から力が抜け、地面に座り込む。救急隊員が何かを私に向かって叫んでいるが聞こえない。
聞こえるのは火が爆ぜる音と崩壊する自宅の音だけ。その不気味な音を聞きながら私の意識は暗闇に消えた。
目を覚ました私はベッドに寝かされていた。
鼻につく薬品の匂いと真っ白で飾り気のない部屋、病院だということがすぐに分かった。
窓から差す光は眩しく、日中だということが分かった。一体、何時間眠っていたのだろうか。
ハッとして私はベッドから降り、揃えて置かれていた靴を履く。
家族はどうなった?火事は?
急いで病室の扉を開けると病室の前に居たのであろう警察官二人がぎょっとした瞳で私を見た後、近寄って来る。
「天野月子さんですね?」
冷静な声が妙に脳に突き刺さる。
「はい、あの、家族は…。」
「…ついてきてください。」
神妙な面持ちで歩き出す二人の後を私は不吉な予感、いや確信に近いものを感じながらついていく。
すれ違う看護師や医師、患者やその家族が物珍しそうに私を見ている。
エレベーターに乗り、扉が開いた先は病院の地下だった。
薄暗い廊下の突き当りの部屋の前にスーツを着た男性が一人立っている。
その部屋までたどり着くと私の確信は絶望に変わった。
『霊安室』
堅く冷たい味気のない字が書かれたプレート。
それを見つめる私にスーツの男が話しかける。
「天野月子さんですね。私は刑事の武井といいます。」
武井と名乗った男が警察官に目配せをすると彼らは去っていった。
「お辛いでしょうが、念のため確認にご協力お願いできますか?」
嫌だと言えば何かが変わるのだろうか。
私はコクリと頷く。
それを見た武井はゆっくりと霊安室の扉を開ける。
冷ややかな空気と一緒に線香の香りが漂ってくる。そしてそれよりも強く嗅覚に刺さるのはまるで肉が焦げたかのような匂い。
簡素な部屋の中にはベッドが三床。それぞれに白い布がかけられており、大中小と縦に長く膨らんでいる。
「昨晩、天野さん宅から発見されたご遺体です。確認といっても、もう顔も性別も判別不可能なほど損傷していますが。」
武井の言葉を聞きながら私は一番小さなふくらみが乗っているベッドに歩み寄る。
焦げ臭い匂いは酷くなる。
「あの晩、あなた以外の家族は家で眠っていましたか?最後に確認、もしくはあなたが家を出たのは何時頃ですか?」
「私が家を出たのは0時半を少し過ぎたくらい、その時家族は全員眠っていました。」
「…わかりました。確認はもう結構ですよ。まだあなたには辛すぎる。」
武井の忠告を無視して私は白い布をゆっくりと剥がす。
それはかろうじて人の形を保っている黒い物体だった。
衣服も髪の毛も肌も何もかも焼け焦げ、炭化したそれの表情は私には苦痛に満ちたものに見える。
「心、ごめんね。お姉ちゃん、あなたのこと守れなかったね。お姉ちゃん失格だよね。ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね…。」
私は心だった遺体を抱きしめる。
服が汚れることなど気にしない。私はもう喋れない心を精一杯抱きしめながら泣いた。
しばらくして泣き止んだ私はゆっくりと心をベッドに寝かす。
「天野さん、これはまだ捜査中なんですが今回の火事、ガソリンを使った放火の可能性が高いんですよ。」
武井の言葉に私は怒りが湧いた。
「誰が!!そんなことしたんですか!!」
感情のまま叫び、武井に掴みかかる。
武井は冷静に
「深夜の犯行だったため目撃情報は少ないのですがあなたの家の庭にポリタンクを持って侵入する制服姿の男女数名と私服姿の男が目撃されています。」
と語る。
私はすぐに察しがついた。
尾形たちだ。でもなんのため?
決まっているトラブル回避のため私を殺そうとした。
でもなぜこんな真似を?
恐らくお姉ちゃんの自殺の疑惑ごと消し去るため。
でもあいつらは失敗した。私を殺せなかった。
私の中で大切な何かが音を立てて崩れる。
殺してやる。
私の大切な人を奪った奴ら全員を殺してやる。
ただ単に、勘単に、呆気なく、質素に殺すのではなく苦痛にまみれた死をくれてやる。
天野月子は死んだ。
天野月子の心は今死んだ。
私は復讐するためだけに生きる肉になる。
心なんていらない。動く肉があればいい。
あいつらを殺すためなら私はこれからどんな苦難があっても乗り越えられる。
お姉ちゃん、心、お父さん、お母さん、ごめんね。
ダメなことなのはわかってるよ。
だけど、私はこれから人を殺すために生きるね。
さようなら。
きっと私は天国には行けないだろうからここでお別れだね。
大好きだよ。今までもこれからも。




