天野月子の場合⑯
「この度は誠に申し訳ありませんでした。」
車いすに座ったままではあるが山田の謝罪の言葉と深々と首を垂れる言動から今回の集まりが開始された。
それに連れられて彼の両親も頭を下げる。
大人から教わったのであろうその無機質な教科書通りの謝罪の言葉に私は一寸たりとも心が動かない。寧ろ不快感が心にまたしても筆から垂れる墨汁のように黒い沁みを作っていく。
私たちの境界にある木製のテーブルの上にあるガラス製の花瓶、これで頭を勝ち割ったらどれだけ私の気が済むか。手がピクリと動きそうになった瞬間、彼が頭を上げて私を見る。
これでいいだろう?だからお互いもう関わらないようにしてくれ、目で訴えてくる。私はそんな彼の瞳の奥まで覗き込むように見つめ返す。先に目を逸らしたのは彼の方だった。
「こちらからはこれを。」
重苦しい空気を破ったのはさらに重々しく威圧に満ちた川原さんの言葉だ。同時に数枚の書類がテーブルに置かれる。
誓約書、と記されたそれには親同士の間で決められたことを川原さんが法に当てはめて罰則など追加した書類となっていた。
難しい文言で私にはほとんど意味が理解できなかったが書類の最後の欄には同意欄としてこの場にいる全員の署名欄があった。
向こうの弁護士からは一枚のSDカードが卓上に置かれた。
「これが件のSDカードになります。確認後、破棄してくださってかまいません。」
件の。この小さな機械に私と心の屈辱が詰まっていると考えると私はそれがどんな汚物よりも醜い物体に見えた。
川原さんは手に持っていた高級そうな黒革の鞄からノートPCを取り出すとSDカードを挿入する。
私と両親に目配せをする。その視線の意味は分かる。中身の確認をどうするかを問うている。
両親は動けずいたが私が頷く。これ以上両親を苦しめたくない。曲がりなりにも自分が選んだ交際相手だった人と自分の愚行だ。私が確認して消す義務がある。
「月子、無理しないで。」
母が蚊の鳴くような声で私を心配するが私は大丈夫の意味も込めてゆっくり頷く。
それを見た川原さんがゆっくりとPCの画面を私に向ける。そこにはかつて携帯電話の画面内に羅列されていたものと同じ私たちの記録があった。私はあの日削除した記憶と照らし合わせて画像に間違いや過不足がないかを確認する。
心の瞳は父が目隠しをする形で覆ってくれているため時間をかけることができた。
確認作業が終わったことを川原さんに伝えるとSDカードをパソコンから引き抜き私に手渡す。
「こちらは破棄でかまわないのですよね?」
「え、ええ…。」
川原さんに問いかけられた相手の弁護士が困惑しながら頷く。
川原さんは私に向き直り、ニコッと笑う。
「月子ちゃん、壊してもいいみたいだよ。」
その意図に気づいた私も微笑み返し、SDカードを床に投げつけスニーカーで踏みつけた。
スニーカー越しに割れた感触が伝わるが私は何度も何度も踏みつけた。
どれくらい時間が経っただろうか、私が足を退けると見るも無惨に砕け散ったSDカードがそこにあった。
視線を感じて山田家の方を見ると両親も子どもも私を化け物を見るような怯えた目で見ていた。私はそれが滑稽で口角が吊り上がる。
「ヒッ」
と誰か分からないが息をのむ音と声が混じった雑音が耳に入る。
川原さんは床に散らばった汚物の名残を綺麗に拾い上げ廊下にあったゴミ袋に捨てて戻ってきた。
最後に私たちは川原さんが用意した書類に目を通して全員がサインをして解散となった。
山田が最後まで自分の言葉で私に謝罪をしなかったことは気に食わなかったがこれで一生関わることがなくなったと思えば幾分気が晴れた。
病院を出た私たちは駐車場で川原さんにお礼を言う。
またいつでも困ったら相談してくださいね、と笑顔で両親と私たちに深々と頭を下げて黒のセダンに乗り込んで去っていった。
性別こそ違うも私もあんな素敵な人になりたいと心から思える大人に出会えた気がした。
一か月の休学期間を終えた私と心は復学を果たした。
行きの通学路では心と二人で頑張ろうと指切りをし、分かれた。
心の方は問題ないだろう。問題は私の方だ。
一か月ぶりに登校した私は教室の扉の前で深呼吸をする。意を決して扉を開けるとそれまで騒がしかった生徒たちが一斉に私を見た後、静まり返った。
予想はしていたが各々畏怖、好奇、またはそれが入り混じった視線を私に向ける。
山田との一件は恋愛関係のもつれで私が彼を階段から突き落とし、私に迷惑をかけた彼が転校することになったと学校側には伝わっていると川原さんから聞いた。
かなり薄められた内容だが大筋はその通りであるものの切れ端を見れば私はとてつもなくバイオレンスな人間として創作されてしまった。まあ、確かに彼を突き落とした時の私は半分獣に近いような精神状態だったわけだが。
私が静かに椅子に座ると喧騒が少しずつ戻るがやはり意識されている。やれやれと思っていると小学生からの友人が私に話しかけてくれた。彼女たちはまるで事件がなかったかのように接してくれ、私にとってそれは非常にありがたかった。
今日からまたやり直そう。
貸してもらったノートを写しながら私は静かに決心を固めた。




