天野月子の場合⑨
心を部屋に連れ戻した私は保冷剤をハンカチで包み、彼女の頬にそっと当てた。
心の涙はまだおさまらない。
私は心をゆっくりと抱きしめる。
「怖かったね。お姉ちゃんがついてるから大丈夫だよ。」
私の腕の中でコクリと頷く。
しばらくして泣き止んだ心と一緒に私は宿題に取り掛かった。
階下では父と母の言い争う声が聞こえている。
そういえば夕食はまだ摂っていないが今はそんな場合ではないだろう。
宿題を終えた頃、私は心と一緒にお風呂に入り、布団を敷いて照明を消した。
「お姉ちゃん、お腹空いたよ…。」
「お姉ちゃんも。でも今のお父さんとお母さんに近づくのはよくないから明日の朝まで我慢できる?」
「うん…。」
私は心が階下の物音や怒鳴り声が聞こえないように布団の中で抱きしめた。
何度も何度も心の背中をさすった。
心に安心してほしいという気持ちが半分、私が今誰かに触れていないと壊れてしまうという気持ちが半分。
心の呼吸が寝息に変わってからしばらくして私も眠ることができた。
翌朝、まだ眠っている心を起こさないように布団から抜け出してリビングに向かう。
朝食の用意を終えた母は私に背を向ける形でテレビを観ていた。
「おはよう、お母さん。」
恐る恐る挨拶をした私の言葉は空気を振動させただけで虚しくリビングに散った。
母は何も言わずに台所に向かう。
昨夜、父との言い争いが遅くまで続いたのだろうか目元には薄くクマができており無表情だ。
何か文句を言われることが嫌だったので心を起こしに行く。
心にはなるべく母を刺激しないように釘を刺し、私たちは静かに朝食を食べ、それぞれ支度をして家を出た。
心には学校で宿題を終わらしてくるように伝え、途中で別れた。
私の癒しの場所が学校だけになりつつある。
友人との会話もそうだし、何より山田君の存在が大きい。
家に帰ってからの出来事のせいで薄れていたが私たちは恋人関係になったのだ。
私にとって初めての恋人。私を守ると言ってくれた人。
彼のことを思うだけで私の心が温かくなった。
教室に着いた私は真っ先に彼に挨拶をする。
彼もどこか照れくさそうに、おはようと返してくれた。
たったそれだけのことなのに私の孤独感や恐怖心が薄れた。
昼休みには旧校舎の階段の踊り場で話をすることになった。
旧校舎はほとんど使われておらず二人きりになるのにはちょうど良かった。
私は昨日の出来事について彼に話した。
最初は驚いていたが途中から真剣に聞いてくれたのが救いだ。
「天野さんと妹さんがよければ放課後はうちに来る?」
彼の提案に私は戸惑った、いや思考が停止した。
そんな間抜け面をしているであろう私の様子を察して彼が言葉を続ける。
「家に居づらいならうちに居ればいいと思って。妹さんも家で勉強して遊びに行くなり僕や天野さんと遊べばいい。門限に間に合うように帰ればいいよ。うちも両親、共働きだから基本一人だし。」
彼の言葉はすべて私の心に沁み渡っていく。
そんなこと考えるだけで幸せだった。
「ありがとう。とっても嬉しいよ。妹に帰ってから相談してみるね。」
「うん。いい返事待ってるね。」
彼は周りに人がいないのを確認すると私を抱きしめてくれる。
私も抱きしめ返した。
家に帰ると心が宿題に取り組んでいた。
私は心に山田君と付き合っていることと彼からの提案を伝える。
最初、心はよくわかっていなかったが理解すると目を輝かせながら頷いた。
私は心と一緒にリビングに座っている母に声をかける。
表向きは私の友達が心の勉強を見てくれることにして門限は順守するから家に居ない時間が多くなることを告げた。
母はまるで私たちのことなど眼中にないようにテレビの画面を見つめながら頷くのみだった。
私は告げることを告げた後、心の手を引いて二階に上がった。
心も母の変化に怯えておりこれからはなるべく家に居る時間を減らしていこうと伝える頷いた。
その日、父はお酒を飲んで深夜に帰ってきた。
物音で起きた私の耳には昨日と同じで言い争う両親の声が明け方まで聞こえていた。
恐らくこれがこれから毎日続くのだろうと思うと心臓が見えない手に鷲掴みされるような苦しさを覚えたが隣で眠っている心の寝顔と山田君の言葉だけで頑張れる気がした。




