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月子の場合  作者: ヒスイ
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天野月子の場合⑧

翌朝の天野家の雰囲気は息をするのにも苦労するほど重苦しかった。

いつもは明るい心も全く喋らず、箸と食器が触れる音とテレビのニュースの音声しか聞こえない。

私はさっさと朝食を済ませ、洗面所に駆け込む。

眠れたはずなのに顔が疲れ切っている。眠れたはず、それは嘘だ。

嫌なことを脳がシャットアウトするように意識を失っただけだ。

父も母もまるで幽霊のように青白い顔色をしていた。

鏡に映る自分の顔を塗りつぶすように、狂ったように、顔を水で何度も洗った。


登校すると下駄箱の奥、掲示板やベンチが置かれてる小さなホールに尾形とその取り巻きがニヤニヤしながら私を見ていた。


「月子ちゃん、おはよ〜。お父さん、大変そうだね~。」


尾形のニヤケ面から発せられた言葉に取り巻きが爆笑する。


「片田舎に通勤はやめてあげなよって親父に行ったけど、突然の辞令なら仕方ないよねぇ。」


「玲子の自殺の件が片付いたんだから気楽に余生は田舎で仕事してればいいんじゃね?」


松井の言葉がさらに私の神経を逆なでする。

キッと睨みつけるが相手は意にも介していない。


「こっわ〜。またカッターナイフ持って暴れても困るしとっとと教室行こうぜ。」


ヘラヘラ笑いながら階段を登っていく奴らの背中を見送ることしか出来ない自分が悔しかった。

自分の教室に入るとさっきまでの出来事が嘘だったかのように穏やかな空間が広がっている。

私はすれ違うクラスメイトに挨拶をしつつ席に着く。

複雑な気分のまま一日が始まるのだった。


放課後、最近は山田君と帰るのが通例になっている。

彼は目で合図をしてくれて、私がそれをくみ取り校門までは付かず離れずの距離を保つ。

校門から出れば私たちは自然と手を繋ぐことが増えた。

分かれ道の十字路までの十分ほど、雑談を交えながら彼の笑顔や手の温もりを感じることが最近の私の唯一の癒しだ。


十字路まで来ると彼は手を離さず何か言いたげにしていた。

私が、どうしたの?と尋ねると真っ赤な顔をこちらに向け、ゆっくりと口を開く。


「俺、天野さんのことが好きだ。今日もたぶん色々と悩んでるから言うか迷ったけど、俺に天野さんを守らせてほしい。悩みも苦しみも分けてほしい。」


時が止まったような感覚がした。

今の私に一番欲しい言葉を彼はかけてくれた。

それだけでも嬉しいのに好きだ、なんて。

私は久しぶりに嬉しくて涙が溢れる。

それを見た山田君はあたふたしつつも私の頭を優しく撫でて、抱きしめてくれた。

人に抱きしめられるのってこんなにも安心するのか、人の体温ってこんなにも温かいものなんだ、私の荒んだ心が彼で満たされていく。


「私も、山田君のことが、好き…。だから、私を守って…お願い…。」


「うん。大丈夫だよ、俺がついてるから。」


私はしばらく山田君の胸の中で泣き続けた。


山田君としばらく話してから家に帰る。

玄関のドアを開けると重苦しい空気が私を包み込む。

さっきまで彼に抱きしめられて軽くなった心が一気に沼に沈むような感覚を覚える。


「ただいま。」


リビングでテレビを眺めている母に声をかけるも母の目は虚ろであり、私の顔を見ることもなくおかえりと呟く。

私は虚しさを覚えながらも自室に戻る。

自室には心のランドセルが転がっているだけでリビングよりも静まり返っていたが今はそれくらいの静寂が心地よかった。

私は帰り道に山田君からかけられた嬉しい言葉を頭の中で何度も再生しながら横になり、気が付けば眠りに落ちていた。


次に目が覚めたのは父の怒鳴り声だった。


「どうして言われたことができないんだ!お前は!」


「ごめんなさい…。」


階下で心のか細い声が聞こえる。

私は慌てて飛び起き階段を下りた時にはちょうど父が心の頬をひっぱたくところだった。

小学五年生の心の体は軽々と吹き飛ばされる。

それくらいの勢いで父が心を叩くのを見たのは初めてだった。

温厚でどんなに怒っても優しく諭すように言い聞かせてくれるのが父だったはずだ。

決して私たち姉妹に手を上げることなんてなかったのに。


心は最初、何が起こったのかわからず呆然としていたが憤怒の表情の父と叩かれた頬の痛さから大声を出して泣き始める。

ふと、父の体から酒の匂いが漂っているのか感じた。

母もリビングから出てきたが心に優しくはせず父に同調して責めるような言葉をかけるばかりだ。

原因は心が宿題をせずに遊びに行っていたことらしいが、それは何も今始まったことではない。

父と母は何かに自分たちの抱えている不安や怒りをぶつけたいだけだと直感した。

私は倒れて泣いている心の前に立ち、私が宿題を手伝うから心を許してあげてほしいということを伝えたがそれは返って父の怒りの炎に薪をくべただけだった。


「お前と玲子がそうやって甘やかすから心は出来損ないになったんだろ!」


父からの思ってもいない心無い言葉に私は自分の耳を疑ったが妹を守るのが優先だ。


「わかったから心を叩かないであげて!明日からはちゃんと宿題をしてから遊びに行くように言い聞かせるから!」


「父親に口答えするなんて、子育てを間違えたか…。だから玲子も自殺したのか、全部俺のせいなのか…。」


父が急に泣き出し、母は変わらず虚ろな目でそれを眺めている。

私は確信した。

家族が壊れだしたのを。

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