混ざりあう善意。
窓の外がかすかに白みはじめたころ、控えめなノックの音がした。
「坊ちゃま、朝でございますよ」
まだ夢の名残をまとった声で「ん……」と返すと、扉の向こうからメイレルの足音が近づく。
銀盆を抱えた彼女がそっと入ってきて、ベッド脇のテーブルにそれを置いた。
盆の上には、陶器の洗面鉢と、湯気の立つ清潔なタオル。淡い朝の光が銀の縁をきらりと照らす。
「まあ……ずいぶん眠たそうなお顔。昨日は夜更かしでも?」
「ううん……」
レインは慌てて首を振ったが、目元のぼやけた焦点が言い訳を台無しにする。
メイレルはため息をひとつ漏らし、柔らかく微笑んだ。
「お顔を拭きましょうね。冷たいですよ」
彼女が絞ったばかりのタオルをそっと額に当てる。
ひやりとした水気が肌を伝い、眠気の膜を剥がしていくようだった。
「つめた……」
「ふふ、これで少し目が覚めますよ」
頬や首筋を丁寧に拭かれ、冷たさが過ぎたあとにほんのりとした心地よさが残る。
レインは小さく息をつき、ぼんやりした瞳でメイレルを見上げた。
その顔を見て、彼女は小さく首を傾げる。
「……やはり、少しお疲れのようですね。体が重いのでは?」
「うん……ちょっと、ねむい……」
その素直な返事に、メイレルは頷いて微笑む。
「では、軽く温かいものを召し上がって、もう少しお休みになったほうがよろしいですね。すぐにお持ちしますね」
メイレルが出ていくと、部屋に静けさが戻る。
レインはシーツを胸のあたりまで引き上げ、ぼんやりと天井を眺めていた。
(この世界の体、ほんと眠気に勝てないな……前は三時間睡眠でも平気だったのに)
小さくあくびを噛み殺し、ぼんやりと指先をいじる。
まもなく、再び扉が開く。
今度の銀盆には、湯気をたてるミルクと、香ばしい匂いのコーンスープが並んでいた。
「お待たせしました。お腹を空かせたままでは眠りも浅くなりますから、少しだけ召し上がって」
盆をテーブルに置き、メイレルがスプーンを手渡す。
レインは両手でカップを持ち、そっとミルクを口に含んだ。
甘くて優しい温かさが喉を滑り落ち、体の芯にぽうっと火が灯る。
続けてスープをひと口。
とうもろこしのやわらかな甘みが広がり、まぶたの重さがいっそう増していく。
「……おいしい」
「よろしゅうございました。さあ、もう一度お休みください。お昼まで、ぐっすりですよ」
「うん……」
メイレルがカーテンを半分閉め、光をやわらげる。
薄暗い部屋に、湯気と香りがまだほんのりと残っていた。
布団に沈み込むと、全身の力がするりと抜ける。
(……寝る子は育つ、か。ばあちゃんの言うとおりだな)
そんなぼやきを最後に、レインはすぐに深い眠りへと落ちていった。
◆ ◆ ◆
――三時間だけのつもりが、目を開けたときにはもう昼を過ぎていた。
まぶたの裏に残っていた重さが消え、頭の中の靄もすっかり晴れている。
体の芯に、静かな熱が戻ってきたようだった。
昼食を終えるころ、レミがそっと声をかけてくる。
「午後はどうなさいますか?」
「本を読みたい」
そう答えると、レミは少しだけ微笑んで首を傾げた。
「絵本をお持ちします?」
「ううん、大丈夫。ひとりで読んでみたい」
「……では、お静かに。眠気が戻ったら、すぐお呼びくださいね」
そう言って下がるレミの背を見送り、俺は図書室へ向かった。
陽の角度が変わった午後の図書室は、朝と別の顔をしている。
窓からの光が棚の背表紙を斜めに撫で、紙と革の匂いがひんやりと胸を満たした。
(昨日の続きだ)
背伸びして引き抜いたのは、薬草と毒草をひとまとめに扱った厚手の図鑑。
挿絵が細密で、用途と禁忌が対で書いてあるのがいい。
ページをぱらぱらとめくる。目を引いたのは、蜂蜜色に透ける滴を抱えた白花の項。
【グリアス ――蜜は疲労回復、花弁は滋養強壮。単独ならば安全域広い。だが蜜と花を同時に濃縮・混和すると、効能が過反応し、体内魔素と衝突して過駆動状態を招く。幼少・小型体に禁。】
指先が止まる。
(……混ざると、毒)
めくる手が少し速くなる。
別項には応用例もあった。
【蜜入りシロップ】【花茶】。
そして欄外、小さく追記。
【※希に、焼き菓子など加熱過程で香り成分が固定化され、相互作用が増幅する例あり。甘味で掩蔽されやすく注意。】
脳のどこかで、硬いスイッチが落ちた音がした。
(混ざる。増幅。――あのクッキー)
椅子がきしむ音も気にせず本を棚へ押し戻し、走った。
廊下の絨毯が足裏に柔らかくまとわりつく。
自室の扉を閉め、鍵をそっとかける。
机の引き出しの奥――レオン兄上からの誕生日に贈られた小さな宝箱。
俺しか開けられない簡易魔法錠。
手のひらを触れ、名前を心で唱えると、箱が喉を鳴らして開いた。
ハンカチに包んだ硬い感触。慎重に開く。
昨夜の、あの欠片。
呼吸を整える。
今度は「成分」だけじゃない。
「相互作用」「用量」「対象」の窓を開けるイメージで――鑑定。
《菓子片/構成:小麦・砂糖・油脂・卵・バター少量/混和成分:グリアス蜜・グリアス花(低温乾燥粉末)/反応:香気固定化に伴う効能過駆動(相乗毒性)/用量・体格依存:成人(体格大)→悪心・嘔吐・眩暈程度/幼少(体格小)→重篤化の恐れ/状態:焼成後安定、唾液・体温で反応活性化》
――来た。
胸がきゅっと縮むのと同時に、背骨の奥が熱くなる。
(グリアスの蜜。グリアスの花。合わせて毒。子どもは禁忌。)
昨夜「不明な反応性物質」だった空白が、読み解ける言葉に置き換わっていく。
知識が鍵穴を見つけ、鑑定が錠を回した。
欠片を見つめながら、上一つ分の呼吸を止める。
(ってことは……このクッキーは、そもそも『大人向けの栄養菓子』のつもりで作られてる。疲れてる人に効くように――いや、効かせすぎた)
指先に、うっすら汗が滲んだ。
視線が自然と窓の外へ流れる。
庭師が剪定している。
子どもが口ずさむ歌が遠くで跳ねる。
(兄上を狙った毒だったことは間違いない。でも――『殺すため』じゃない)
脳裏に、淡い香りとともに差し出された紙袋の情景が浮かぶ。
兄が仕事帰りに受け取ってきた「差し入れ」。
選んだ人の手が見えるようなリボン。
丁寧に結ばれた、少し不器用な蝶結び。
胸の真ん中が、別の種類の痛みで鈍く鳴った。
(兄上を慕っていた誰か。疲れてる兄上を案じて、効き目の『強いもの』を――。でも知識が足りなくて、混ぜてはいけないものを混ぜた)
最初の事件は、悪意の刃ではなく、善意の矢印が角度を間違えた結果。
だが結果として『毒』は毒だ。
俺は倒れた。
子どもの体で、たったひと口で。
唇が自然に引き結ばれる。
(偶然が重なった事件――それなら、なおのこと止めなきゃいけない。知らずに同じことを繰り返すかもしれないから)
欠片をハンカチに戻し、宝箱に納める。
箱が小さく音を立てて閉じた。




