小さな手で掴めるものは
夜の屋敷は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
昼下がりにはやわらかく廊下を満たしていた陽光は消え、今は壁に取り付けられたランプの灯りが点々と頼りなく浮かんでいる。
磨かれた床板に灯りが反射し、長い廊下に淡い金色の筋を描いていた。
耳に入るのは、遠くから響く警備兵の巡回の足音と、時折どこかで軋む木の音。
その静けさの中で、自室のベッドに横たわったまま、俺は目を閉じられずにいた。
(あのクッキー……)
昼間に執務室の前で聞いた父と兄の会話が、何度も頭の中で再生される。
毒の正体がわからない――あの言葉は、俺の中の科学者としての意地を妙に刺激した。
前世では、検査室で何百という試料を解析してきた。
毒物の同定なんて日常の一部だった。
だが、今は五歳の子供。
研究室も機材もなく、許可もない。
何より、目の前にあるのは魔法と魔術が混ざった、この世界独自のルール。
(俺の『鑑定』がもっと広く使えれば……)
天井を見つめたまま、ため息を飲み込む。
もやもやした焦燥が胸の奥で渦を巻き、身体の中で落ち着く場所を見つけられずに暴れている。
(くそ……)
胸の奥がじくじくと疼く。
知らないままでいることが、なぜか息苦しかった。
「……よしっ」
枕元のぬいぐるみをそっと押しのけ、布団から抜け出す。
床の冷たさに、思わず息をのんだ。
枕もとの引き出しを開けて、しまってあったハンカチを握りしめる。
灯りを消したまま、ドアの取っ手に手をかける。
――軋む音。
一瞬、心臓が跳ねた。
けれど、屋敷は静まり返ったままだ。
遠くで、夜警の足音が小さく往復している。
(執務室なら、確実にあのクッキーがあるはずだ)
そっとドアを閉め、月明かりだけを頼りに廊下を進む。
レインの足取りは慎重だが、子供の体であることの不便さを忘れてはいない。
体の小ささと、前世の体格の差が頭をよぎるたび、苛立ちが募る。
執務室の扉は閉まっていた。
取っ手に手をかけると、鍵がかかっているのがわかった。
昼間は開いていたのに——誰かが鍵をかけたのだろうか。
引き出しにクッキーをしまってある可能性が高い。
机の上に堂々と置いてあるよりも、鍵付きの引き出しで保管する方が自然だ。
(こういうの、前世でちょっとだけ触ったことがあるはずだ)
科捜研時代、違法にならない範囲で「検証」として簡単な錠前構造を確認したことがある。
簡単な構造の錠なら、何か細長い針金のようなものを伸ばして代用すれば、手探りで開けられることもある。
五歳児の手には難しい――けれど、頭の中は大人だ。
やってみる価値はある。
静かに机の周りを探してみると、ブローチをみつけた。
これなら後ろのピンを伸ばせば、なんとか使えそうだ。
明るさはないが、指先の感触で鍵穴の構造を確かめる。
指先が震える。
金属がこすれる音が妙に響いて、心臓の音と重なった。
それでも、頭の中では手順が自然に並んでいく。
昔の感覚が、確かにまだ残っていた。
カチャ。
僅かな手応え。
ここだ、と確信してピンを回す。
重なっていた金属が解けるように、鍵はゆっくりと外れた。
胸の中で小さな勝利の火花がはじける——けれど喜びを表現する余裕はない。
引き出しを静かに引くと、中にはクッキーが入った袋が置いてあった。
前に見たそれと同じ焼き色。
どこにでもあるようなクッキー。
でもコレがあのクッキーだとわかる。
レインは手を伸ばすのを一瞬ためらう。
だが、知りたいという衝動が勝った。
縛ってあった紐を解き、ちいさな指先でクッキーの端に触れ、『鑑定』を発動する。
《菓子類/成分:小麦・砂糖・油脂・卵/不明な反応性物質を微量に含む/状態:劣化なし》
表示を見て、胸がぎゅっと締めつけられる。
前より少しだけ情報が増えている。
微量の「不明な反応性物質」——それだけでは特定できない。
けれど、確かに何か混じっている。
昨日の自分より、少しだけ進んでいるという実感が、熱を帯びて胸を突く。
袋の中にあったクッキーの欠片をつまんで持ってきたハンカチで包む。
これでまた鑑定することができる。
図書室で俺の知らないこの世界の毒のことを調べれば、きっと。
そのとき、廊下の向こうから足音が響いてきた。
通り過ぎるのかと身を潜めていると徐々に音が近づいてくる。
レインの背筋が凍る。
音は確実に執務室の方へ向かってきている。
(来る!隠れないと)
引き出しを閉め、そっと取っ手から手を離す。
その瞬間だった。
カチャリ、と音がした。
反射的に身をかがめ、椅子の横を抜けて机の下に潜り込む。
ゆっくりと扉が開く音がし、靴音が近づいてくる。
ランプの光が揺れ、影が伸びて机の下まで這い寄ってくる。
思わず手で口を押さえ、喉の奥で息を止めた。
心臓が喉まで上がってくるようだった。
ふ、と息づかいが聞こえた。
「……やはり、ここに忘れていたな」
紙をめくる音。
グラードの足が椅子の隙間から見えた。
「ん?」
心臓がドクンと跳ねた。
「……締め忘れたか」
引き出しを引く音がする。
「……オレファンを狙った……だが、アイツはまだ仕事も……いや、もしかして」
低く呟くその声に、冷たいものが背筋を這う。
グラードの表情は見えない。
けれど、言葉の重みだけで胸が締めつけられた。
兄を狙った?――いや、違う可能性?
混乱と不安が入り混じる。
それでも、レインの心のどこかでは冷静な『科捜研の研究員』としての意識が顔を出していた。
(対象が誰であれ、毒の正体が分からない限り、また同じことが起こるかもしれない)
引き出しを閉める音の後に、カチッと鍵のかかる音が響いた。
グラードの足が椅子の隙間から消え、灯が遠ざかっていく。
扉が閉じる音が聞こえた。
足音が遠ざかっていく。
「はぁ~~~」
途端に力が抜けた。
よく見ると手に汗を掻いてる。
(……見つからなくて、よかったぁ~~)
レインは机の下からそっと顔を出す。
背中に冷たい汗が流れている。
震える手で胸元のブローチを握りしめ、深く息を吐いた。
(兄を狙った毒……いや、もしかしたら)
月明かりが机の上に淡く落ちる。
レインはそれを見つめながら、ひとつの思いを確かめるように呟いた。
(調べなきゃ。今度こそ、俺の手で)
レインの小さな胸の奥で何かが決壊した。
恐怖と好奇心が渦となって、頭の中をぐるぐる回る。
(コレが……何か分かれば)
ハンカチに包んだ、クッキーの欠片。
以前の自分なら、分析の手順も器具も知っている。
だが今は五歳の体。
出来ることは限られている。
だけど、諦めるわけにはいかない。
レインはそっと引き出しの鍵穴に手を触れた。
まだ冷たい金属の感触が、指先に残っている。
今夜の出来事を胸にしまい込みながら、静かな決意がその奥で燃えていた。




