空色の事実と甘い記憶。
午後の終わり、廊下はオレンジ色に傾いていた。
台車の車輪音、離れた部屋からのピアノの音階練習、厨房の鍋がふつふつ鳴る音――屋敷の日常が、穏やかな層を作って流れている。
俺は壁際に置かれた机へ向かい、天板の上に、さきほど欠片をしまった小さな箱をそっと置いた。
木製の箱は、まだ指先に残る温度を抱えたまま、静かにそこにある。
そのまま、机の二段目の引き出しに手をかける。
子どもの力では少しだけ重いが、きぃ、と控えめな音を立てて引き出しが開いた。
中に収まっていたのは、きちんと揃えられた私物だ。
ノートが二冊。
それから、表紙の角が少し丸くなった絵本が一冊――文字の練習用に使っているもの。
さらに、木箱入りの色鉛筆がひとつ。
俺はノートのうち一冊と、色鉛筆の箱を取り出し、引き出しを静かに閉めた。
余計な音を立てないように、指先に神経を集中させる。
椅子に腰掛け、ノートを膝の上に置く。
表紙は無地。背表紙にも題名はない。
子ども用の、薄くて柔らかい紙だ。
表紙をめくると、いきなり色が飛び込んできた。
拙い線で描かれた、真っ赤な丸。
輪郭は歪で、少しはみ出している。
……たぶん、リンゴだろう。
その下に、大きな字で書かれている。
緑色の色鉛筆で、力いっぱいなぞった文字。
『りんご』
間違いない。
これはレインが書いたものだ。
次のページをめくる。
今度は、淡いピンク色。
ピンクの鉛筆で描かれた、縦に長い丸が五つ。
その下には、緑の線が一本。
左右に、細長い丸が二つ。
何の花なのかは、正直よく分からない。
それでも、下に添えられた文字が答えを教えてくれる。
『はな』
文字は少し震えていて、線も一定じゃない。
それでも、一生懸命書いた痕がはっきりと残っている。
ページをめくる。
三ページ目。
四ページ目。
どれも同じように、色と文字が並んでいる。
そして、五ページ目。
そこだけは、何も描かれていなかった。
真っ白な紙。
俺は、そこでページをめくるのをやめた。
しばらく、その空白を見つめる。
「……よし。ここでいいか」
小さく呟き、色鉛筆の箱を開ける。
中から、薄い水色の鉛筆を一本取り出した。
幼い、ぷっくりとした指では、鉛筆は少し持ちにくい。
それでも、前よりはずいぶん慣れてきた。
俺は息を整え、紙に先端を触れさせる。
力を入れすぎないように、線を意識しながらゆっくりと、書き付けていく。
――グリアス蜜(疲労回復)
――グリアス花(滋養)
――混和→過駆動(甘味で掩蔽、香気固定)
――体格依存(子ども禁)
最後の一行を書き終えたところで、鉛筆の先がわずかに止まった。
紙の上の文字を見つめながら、喉の奥が、きゅっと狭くなる。
(……だから、俺が倒れた)
大人なら「少し気分が悪くなる」程度で済んだもの。
それが、子どもの体では――たった一口で、意識を失う。
鉛筆を持つ指先に、遅れて小さな震えが走る。
理屈は、もう全部そろっている。
原因も、結果も、説明できる。
それでも。
紙の上に並ぶ淡い水色の文字は、どこか他人事みたいに静かで、その静けさが、かえって胸の奥をざわつかせた。
(知らなかっただけで、ここまで来てしまう)
その考えが胸をかすめた瞬間、張りつめていた集中が、ふっと緩んだ。
鉛筆を握る指先の力がわずかに抜ける。
――そのときだ。
背後に、人の気配があることに気づいた。
「レイン、何を書いている?」
オレファンだ。
書き物机にもたれ、俺の手元を覗き込む。
反射的にノートを閉じた。
子どもの早業に、兄が少し目を丸くする。
「……ないしょ。えっと、字の練習」
咄嗟に口をついて出た言葉は、半分は本当で、半分は嘘だった。
反射的に選んだ言い訳としては、これ以上ないほど無難だ。
文字の練習。間違ってはいない。
この机の上に並んでいるのは、確かに文字だ。
けれど、今このノートに並んでいるのは、五歳児の練習帳に書かれるはずのない文字と意味だった。
丸みを帯びたひらがなでもなく、拙い線でなぞられた単語でもない。
そこに並ぶのは、意図と危険を含んだ、はっきりとした知識の記録。
「ふふ、そうか。内緒話は似合ってるな」
オレファンはそう言って、いつものように穏やかに笑った。
その声色は柔らかく、言葉の選び方も変わらない。
その笑顔は、屋敷の空気を柔らかくする力を持っている。
周囲の緊張をほどき、場を和ませ、人を安心させる――そういう種類の笑みだ。
それが、兄という立場の人間が身につけた、処世の一部であることを、俺はもう知っている。
人前に立つとき、責任ある判断を求められるとき、感情をそのまま晒さないための、選び取られた表情。
けれど。
今日は、その笑顔の奥に、ほんのわずかな張りを感じた。
糸を張った弓のような、見逃せば気づかない程度の硬さ。
力を込めているわけでもない。
ただ、完全に緩めてはいない――そんな感触。
無意識に出ているものではなく、どこかで意識して保たれているような。
それが気のせいなのか、それとも――俺が、もう以前と同じ目では見られなくなっただけなのか。
聞きたい。
胸の奥で、その衝動が小さく膨らむ。
喉の奥まで、言葉はせり上がってきている。
けれど、まだ声にはならない。
(兄上、あのクッキー――誰にもらったの?)
問いの形にすれば簡単だ。
誰が、いつ、どこで。
それだけで、状況は一段はっきりする。
けれど、その一言は、今の俺には重すぎる。
五歳の弟が向けるには、鋭すぎる問い。
そして、兄の心を不用意に揺らすには、まだ準備が足りない。
言葉は刃物だ。
使いどころを誤れば、切るつもりのなかったものまで傷つける。
だから、正面からは聞けない。
今はまだ、言葉の踏みしめ方を間違えたくない。
代わりに、視線だけを兄の袖口へと滑らせた。
上質な布地。
丁寧に仕立てられた仕事着。
動きやすさと格式を両立させた、慣れた装い。
その端に、ごく小さな糸くずが引っかかっている。
新しい。
擦れた痕ではない。
意図せず付着したばかりのものだ。
色は――淡い藤。
(……)
胸の奥で、何かが静かに繋がる。
記憶の底から、同じ色が浮かび上がる。
あの日、兄が持ち帰った差し入れ。
中身よりも先に目に入った、結び目の整ったリボン。
薄藤色の、やわらかな光沢を持つ布地。
紙袋の口をきゅっと結び、ほどけないように結ばれていた、少し不器用で、それでも丁寧な蝶結び。
同じ色だ。
偶然かもしれない。
仕事柄、同じ色を目にすることだってある。
けれど、偶然で片づけるには、俺はもう一度倒れている。
「兄上」
声をかけると、オレファンはすぐにこちらを見た。
間を置かない反応。
呼ばれることを、どこかで予期していたかのように。
「うん?」
その返事は、いつもと変わらない。
柔らかくて、優しい。
「しごと、たいへん?」
子どもらしく、首を傾げてみせる。
探るようではなく、心配するように。
そう見える角度を、無意識に選んでいた。
オレファンは一瞬だけ言葉を探すように視線を泳がせ、それから、ゆっくりと笑った。
「大変だけど、やり甲斐はあるよ。レインに心配をかけたくはないけど」
責任を背負う人間の答えだ。
弱音を見せないための、慣れた言い回し。
言葉としては正しい。
だからこそ、そこに隠されているものも、透けて見える。
「……なら、あんまり、むりしないで」
それだけを、付け足す。
踏み込みすぎず、引きすぎず。
今の俺が許される、ぎりぎりの距離。
「はは、肝に銘じよう。ありがとう」
そう言って、兄の手が自然に俺の頭に伸びてきた。
撫でる仕草はいつも通りで、力も強くない。
けれど、指の節が少し冷たい。
長い時間、紙をめくり、書類を追い、机に向かっていた人の手だ。
その手の温度が、今はやけに印象に残った。
オレファンが踵を返しかけた、その瞬間。
胸の奥で、何かが一段深く沈んだ。
――今なら。
今しかない。
そう判断する感覚は、前世で何度も経験したものと、よく似ている。
思い切って、一歩踏み出す。
「兄上。……おみやげ、ありがと」
子どもが言えば、ただの礼だ。
差し入れをくれたことへの、何の疑いもない言葉。
けれど、俺の中には、まだ残っている。
口に入れた瞬間の甘さ。
焼き菓子特有の、少し香ばしい匂い。
倒れる直前まで、確かに『おいしい』と感じていた、その感覚。
「……あまくて、いいにおいだった」
口をついて出たのは、感想というより、感覚だった。
焼き菓子が袋から出されたときの匂い。
指に触れた、ほんのりとした温もり。
口に入れた瞬間に広がった、やさしい甘さ。
「……おいしかったよ」
確かに、そう感じた。
倒れる前まで、意識が途切れるその直前まで。
レインの中には、「おいしい」という感覚だけが、はっきりと残っている。
だからこれは、褒め言葉じゃない。
誰かを喜ばせるための言葉でもない。
ただ、あった事実を、そのまま口にしただけだ。
それでも――。
その何気ない一言は、相手の心を確かに揺らした。
オレファンの肩が、ほんの少しだけ硬くなる。
わずかな、しかし確かな反応。
見逃せば気づかない程度の、身体の揺れ。
「……そうか。うん」
一拍遅れて返ってきた声。
視線がわずかに揺れ、それからすぐに、いつもの笑顔に戻る。
柔らかくて、穏やかで。
それでいて、どこか遠い笑み。
(やっぱり――『兄上のための差し入れ』だったんだ)
確信に近い感覚が、静かに胸に落ちた。
誰かが兄を想って用意したもの。
疲れを気遣い、力になりたいと願った、善意のかたち。
だからこそ、厄介だ。
背中を見送りながら、拳をそっと握る。
強く握らない。
ただ、逃がさないように。
善意の矢印。
向かう先を間違えただけの、矢。
それが人を傷つけるなら、矢筒の口を正すのは、気づいた者の役目だ。
俺は知っている。
科捜研の現場で、何度も見てきた。
良かれと思った『手作り』。
知識の足りなさと、想いの強さが噛み合ったとき、それが事故と事件の境界線を、いとも簡単に踏み越える瞬間を。
(……だから、止める)
責めるためじゃない。
暴くためでもない。
同じことが、二度と起きないようにするために。
俺は机の上に置いたままの宝箱に、もう一度視線を落とした。
中に眠る、あの欠片。
小さくて、甘くて、そして危険な証拠。
五歳の手で掴めるものは、確かに小さい。
けれど、掴み方を知っていれば――。
静かに、次の段取りを胸の中で組み立てながら、俺はもう一度、ノートに向き直った。




