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元科捜研の俺、異世界でも犯人は逃がさない ~鑑定スキルと科学知識で事件解決~  作者: 雪野耳子


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10/11

空色の事実と甘い記憶。

 午後の終わり、廊下はオレンジ色に傾いていた。

 台車の車輪音、離れた部屋からのピアノの音階練習、厨房の鍋がふつふつ鳴る音――屋敷の日常が、穏やかな層を作って流れている。

 俺は壁際に置かれた机へ向かい、天板の上に、さきほど欠片をしまった小さな箱をそっと置いた。

 木製の箱は、まだ指先に残る温度を抱えたまま、静かにそこにある。

 そのまま、机の二段目の引き出しに手をかける。

 子どもの力では少しだけ重いが、きぃ、と控えめな音を立てて引き出しが開いた。

 中に収まっていたのは、きちんと揃えられた私物だ。

 ノートが二冊。

 それから、表紙の角が少し丸くなった絵本が一冊――文字の練習用に使っているもの。

 さらに、木箱入りの色鉛筆がひとつ。

 俺はノートのうち一冊と、色鉛筆の箱を取り出し、引き出しを静かに閉めた。

 余計な音を立てないように、指先に神経を集中させる。

 椅子に腰掛け、ノートを膝の上に置く。

 表紙は無地。背表紙にも題名はない。

 子ども用の、薄くて柔らかい紙だ。

 表紙をめくると、いきなり色が飛び込んできた。

 拙い線で描かれた、真っ赤な丸。

 輪郭は歪で、少しはみ出している。

 ……たぶん、リンゴだろう。

 その下に、大きな字で書かれている。

 緑色の色鉛筆で、力いっぱいなぞった文字。

 『りんご』

 間違いない。

 これはレインが書いたものだ。

 次のページをめくる。

 今度は、淡いピンク色。

 ピンクの鉛筆で描かれた、縦に長い丸が五つ。

 その下には、緑の線が一本。

 左右に、細長い丸が二つ。

 何の花なのかは、正直よく分からない。

 それでも、下に添えられた文字が答えを教えてくれる。

 『はな』

 文字は少し震えていて、線も一定じゃない。

 それでも、一生懸命書いた痕がはっきりと残っている。

 ページをめくる。

 三ページ目。

 四ページ目。

 どれも同じように、色と文字が並んでいる。

 そして、五ページ目。

 そこだけは、何も描かれていなかった。

 真っ白な紙。

 俺は、そこでページをめくるのをやめた。

 しばらく、その空白を見つめる。

「……よし。ここでいいか」

 小さく呟き、色鉛筆の箱を開ける。

 中から、薄い水色の鉛筆を一本取り出した。

 幼い、ぷっくりとした指では、鉛筆は少し持ちにくい。

 それでも、前よりはずいぶん慣れてきた。

 俺は息を整え、紙に先端を触れさせる。

 力を入れすぎないように、線を意識しながらゆっくりと、書き付けていく。

 ――グリアス蜜(疲労回復)

 ――グリアス花(滋養)

 ――混和→過駆動(甘味で掩蔽、香気固定)

 ――体格依存(子ども禁)

 最後の一行を書き終えたところで、鉛筆の先がわずかに止まった。

 紙の上の文字を見つめながら、喉の奥が、きゅっと狭くなる。

(……だから、俺が倒れた)

 大人なら「少し気分が悪くなる」程度で済んだもの。

 それが、子どもの体では――たった一口で、意識を失う。

 鉛筆を持つ指先に、遅れて小さな震えが走る。

 理屈は、もう全部そろっている。

 原因も、結果も、説明できる。

 それでも。

 紙の上に並ぶ淡い水色の文字は、どこか他人事みたいに静かで、その静けさが、かえって胸の奥をざわつかせた。

(知らなかっただけで、ここまで来てしまう)

 その考えが胸をかすめた瞬間、張りつめていた集中が、ふっと緩んだ。

 鉛筆を握る指先の力がわずかに抜ける。

 ――そのときだ。

 背後に、人の気配があることに気づいた。

「レイン、何を書いている?」

 オレファンだ。

 書き物机にもたれ、俺の手元を覗き込む。

 反射的にノートを閉じた。

 子どもの早業に、兄が少し目を丸くする。

「……ないしょ。えっと、字の練習」

 咄嗟に口をついて出た言葉は、半分は本当で、半分は嘘だった。

 反射的に選んだ言い訳としては、これ以上ないほど無難だ。

 文字の練習。間違ってはいない。

 この机の上に並んでいるのは、確かに文字だ。

 けれど、今このノートに並んでいるのは、五歳児の練習帳に書かれるはずのない文字と意味だった。

 丸みを帯びたひらがなでもなく、拙い線でなぞられた単語でもない。

 そこに並ぶのは、意図と危険を含んだ、はっきりとした知識の記録。

「ふふ、そうか。内緒話は似合ってるな」

 オレファンはそう言って、いつものように穏やかに笑った。

 その声色は柔らかく、言葉の選び方も変わらない。

 その笑顔は、屋敷の空気を柔らかくする力を持っている。

 周囲の緊張をほどき、場を和ませ、人を安心させる――そういう種類の笑みだ。

 それが、兄という立場の人間が身につけた、処世の一部であることを、俺はもう知っている。

 人前に立つとき、責任ある判断を求められるとき、感情をそのまま晒さないための、選び取られた表情。

 けれど。

 今日は、その笑顔の奥に、ほんのわずかな張りを感じた。

 糸を張った弓のような、見逃せば気づかない程度の硬さ。

 力を込めているわけでもない。

 ただ、完全に緩めてはいない――そんな感触。

 無意識に出ているものではなく、どこかで意識して保たれているような。

 それが気のせいなのか、それとも――俺が、もう以前と同じ目では見られなくなっただけなのか。

 聞きたい。

 胸の奥で、その衝動が小さく膨らむ。

 喉の奥まで、言葉はせり上がってきている。

 けれど、まだ声にはならない。

(兄上、あのクッキー――誰にもらったの?)

 問いの形にすれば簡単だ。

 誰が、いつ、どこで。

 それだけで、状況は一段はっきりする。

 けれど、その一言は、今の俺には重すぎる。

 五歳の弟が向けるには、鋭すぎる問い。

 そして、兄の心を不用意に揺らすには、まだ準備が足りない。

 言葉は刃物だ。

 使いどころを誤れば、切るつもりのなかったものまで傷つける。

 だから、正面からは聞けない。

 今はまだ、言葉の踏みしめ方を間違えたくない。

 代わりに、視線だけを兄の袖口へと滑らせた。

 上質な布地。

 丁寧に仕立てられた仕事着。

 動きやすさと格式を両立させた、慣れた装い。

 その端に、ごく小さな糸くずが引っかかっている。

 新しい。

 擦れた痕ではない。

 意図せず付着したばかりのものだ。

 色は――淡い藤。

(……)

 胸の奥で、何かが静かに繋がる。

 記憶の底から、同じ色が浮かび上がる。

 あの日、兄が持ち帰った差し入れ。

 中身よりも先に目に入った、結び目の整ったリボン。

 薄藤色の、やわらかな光沢を持つ布地。

 紙袋の口をきゅっと結び、ほどけないように結ばれていた、少し不器用で、それでも丁寧な蝶結び。

 同じ色だ。

 偶然かもしれない。

 仕事柄、同じ色を目にすることだってある。

 けれど、偶然で片づけるには、俺はもう一度倒れている。

「兄上」

 声をかけると、オレファンはすぐにこちらを見た。

 間を置かない反応。

 呼ばれることを、どこかで予期していたかのように。

「うん?」

 その返事は、いつもと変わらない。

 柔らかくて、優しい。

「しごと、たいへん?」

 子どもらしく、首を傾げてみせる。

 探るようではなく、心配するように。

 そう見える角度を、無意識に選んでいた。

 オレファンは一瞬だけ言葉を探すように視線を泳がせ、それから、ゆっくりと笑った。

「大変だけど、やり甲斐はあるよ。レインに心配をかけたくはないけど」

 責任を背負う人間の答えだ。

 弱音を見せないための、慣れた言い回し。

 言葉としては正しい。

 だからこそ、そこに隠されているものも、透けて見える。

「……なら、あんまり、むりしないで」

 それだけを、付け足す。

 踏み込みすぎず、引きすぎず。

 今の俺が許される、ぎりぎりの距離。

「はは、肝に銘じよう。ありがとう」

 そう言って、兄の手が自然に俺の頭に伸びてきた。

 撫でる仕草はいつも通りで、力も強くない。

 けれど、指の節が少し冷たい。

 長い時間、紙をめくり、書類を追い、机に向かっていた人の手だ。

 その手の温度が、今はやけに印象に残った。

 オレファンが踵を返しかけた、その瞬間。

 胸の奥で、何かが一段深く沈んだ。

 ――今なら。

 今しかない。

 そう判断する感覚は、前世で何度も経験したものと、よく似ている。

 思い切って、一歩踏み出す。

「兄上。……おみやげ、ありがと」

 子どもが言えば、ただの礼だ。

 差し入れをくれたことへの、何の疑いもない言葉。

 けれど、俺の中には、まだ残っている。

 口に入れた瞬間の甘さ。

 焼き菓子特有の、少し香ばしい匂い。

 倒れる直前まで、確かに『おいしい』と感じていた、その感覚。

「……あまくて、いいにおいだった」

 口をついて出たのは、感想というより、感覚だった。

 焼き菓子が袋から出されたときの匂い。

 指に触れた、ほんのりとした温もり。

 口に入れた瞬間に広がった、やさしい甘さ。

「……おいしかったよ」

 確かに、そう感じた。

 倒れる前まで、意識が途切れるその直前まで。

 レインの中には、「おいしい」という感覚だけが、はっきりと残っている。

 だからこれは、褒め言葉じゃない。

 誰かを喜ばせるための言葉でもない。

 ただ、あった事実を、そのまま口にしただけだ。

 それでも――。

 その何気ない一言は、相手の心を確かに揺らした。

 オレファンの肩が、ほんの少しだけ硬くなる。

 わずかな、しかし確かな反応。

 見逃せば気づかない程度の、身体の揺れ。

「……そうか。うん」

 一拍遅れて返ってきた声。

 視線がわずかに揺れ、それからすぐに、いつもの笑顔に戻る。

 柔らかくて、穏やかで。

 それでいて、どこか遠い笑み。

(やっぱり――『兄上のための差し入れ』だったんだ)

 確信に近い感覚が、静かに胸に落ちた。

 誰かが兄を想って用意したもの。

 疲れを気遣い、力になりたいと願った、善意のかたち。

 だからこそ、厄介だ。

 背中を見送りながら、拳をそっと握る。

 強く握らない。

 ただ、逃がさないように。

 善意の矢印。

 向かう先を間違えただけの、矢。

 それが人を傷つけるなら、矢筒の口を正すのは、気づいた者の役目だ。

 俺は知っている。

 科捜研の現場で、何度も見てきた。

 良かれと思った『手作り』。

 知識の足りなさと、想いの強さが噛み合ったとき、それが事故と事件の境界線を、いとも簡単に踏み越える瞬間を。

(……だから、止める)

 責めるためじゃない。

 暴くためでもない。

 同じことが、二度と起きないようにするために。

 俺は机の上に置いたままの宝箱に、もう一度視線を落とした。

 中に眠る、あの欠片。

 小さくて、甘くて、そして危険な証拠。

 五歳の手で掴めるものは、確かに小さい。

 けれど、掴み方を知っていれば――。

 静かに、次の段取りを胸の中で組み立てながら、俺はもう一度、ノートに向き直った。

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