事件の夜より、謎な朝。
夜の警察本部ビル――その上層階、明かりの消えた廊下を一つだけ残る灯りが照らしている。
科捜研。正式には『科学捜査研究所』。
事件現場から集められた『ただの物』を、証拠として『意味ある情報』に変える場所だ。
無機質な壁と棚に囲まれた一室に、検査機器や薬品の並ぶ独特の匂いが漂っている。
蛍光灯の青白い光は、夜が深まるほどに人間から体温を奪っていくみたいだ。
パソコンのモニターがひとつ、二つだけ残る光源。
机の上は、山のような書類とレポート、分析用の小瓶や顕微鏡、そしてコーヒーの空き缶が乱雑に並ぶ。
白衣の袖口には乾いたコーヒーのシミが、何度もこすられた痕跡のように広がっている。
もう何時間――いや、何日ここにいたかも分からない。
この一週間、俺は現場と研究所の往復で、ほとんど家に帰っていない。
時間の感覚も薄れ、時計の針がぐるぐる回っても、机の上の書類はちっとも減ってくれない。
ようやく一段落ついたのは、夜もとうに更けてからだった。
「お疲れ……ようやく全部終わったな」
思わず深く椅子に沈み込んで、背もたれに体重を預ける。
肩と首がギシギシと音を立て、無意識に伸びをした。
夜の静寂の中、デスクライトの光がほのかに手元を照らす。
「……あー、ダメだ、もう動けない。眠すぎて意識飛びそう……」
隣のデスクでは、茅田がぐりぐり頭を掻きながら、目をしょぼしょぼさせている。
深夜のラボ独特の静けさと疲労感――眠気に溺れそうになりながら、互いの存在だけが頼りになる。
「なあ、天笠。今日くらい打ち上げ行かね? ビール飲んで、悪いもん流そうぜ」
「……気持ちは分かるけど、今はビールより布団が恋しいわ」
椅子の背もたれに思い切り体重を預けて、深く息を吐く。
天井の蛍光灯がやけに白く、まぶたに刺さる。
隣のデスクで、茅田がわざとらしく肩をすくめた。
「うわ、珍しい。天笠がこの時間に即帰り宣言か。よっぽどだな」
茅田の口元には、眠気と皮肉がないまぜになった笑み。自分の首を指で押しながら、ぼそっと続ける。
「そりゃ、今週ずっと詰めてたしな。睡眠負債が利息ついてる。茅田だって顔やばいぞ、目が死んでる」
手元のペンを指先でいじりながら言うと、茅田が「お前にだけは言われたくない」と唇を尖らせる。
机に突っ伏す勢いで、両手で自分の顔を覆った。
「俺らゾンビみたいなもんだろ。てか、今朝コンビニで鏡見て普通に自分で引いたし」
「鏡でゾンビ判定は草」
笑いながら、無意識に背伸び。肩と背中がギシ、と鳴った。
部屋の隅で、空になったコーヒー缶がカランと転がる音がした。
「いいからさっさと帰ろう。終わったからには撤退戦だ」
二人で書類の束を鞄に突っ込む。
立ち上がると、足元に紙袋や書類が散らばっているのが目につく。
椅子を机の下に押し込み、無人の廊下に出ると、夜のビルの静けさが肌に沁みた。
蛍光灯が、どこかぼんやりとした色合いに見える。
誰かの足音が遠くのエレベーター前で響く。
俺たちはロッカールームへ向かう。
ドアを開けて中に入ると、白いロッカーがずらりと並ぶ。
慣れた手つきでダイヤルを回し、ロッカーを開ける。
「そういやさ、前に言ってた夢、最近どう?」
茅田がタオルで顔を拭いながら、ふいに小声で切り出した。ちょっとだけ眉を上げて、俺を覗き込む。
「夢?」
何気なく聞き返しながら、私服をロッカーから引き抜く。
茅田は少し苦笑して、手をぶらぶらさせていた。
「ほら、知らない場所で自分が誰かになってるやつ。妙に細かくてリアルで、みんなで『天笠の前世はどこの貴族だ』とか言ってたじゃん」
「……ああ、あれな。最近は寝ても気がつきゃ朝だし、夢どころじゃないわ。目覚まし鳴って初めて時間の概念思い出すレベル」
シャツのボタンを外しながら答えると、茅田は「まじか」と目を丸くした。少しだけ笑って、そのまま床に座り込む勢いでカバンの中身をいじり始める。
「やべえな。ブラックジョークでも何でもなく、俺たち現代に生きてる気しねぇな」
「新作出たら報告するよ。今は脳みそ泥水だ」
ふたりして妙な脱力感で顔を見合わせる。
茅田は頭をくしゃっとかき、照れ隠しみたいに肩をすくめた。
「いや、脳みそ溶けてても天笠は天笠だろ。あー、でもほんと、今夜だけは休んでくれ」
私服に着替え終わり、ロッカーを閉めて荷物を肩にかける。
二人で並んで廊下を歩き、エレベーターに乗り込む。
静かな振動と機械音が、かすかに足元から伝わってくる。
無人のフロア、足音がぽつ、ぽつと響く。
エントランスに近づくと、夜の冷気が自動ドアの隙間から流れ込んでくる。
ドア越しに、警備員がちらとこちらを見て小さく会釈する。
俺も、ちょっとだけ手を挙げて返した。
エントランスには夜勤組がちらほら。
コーヒー片手の塔田警部が俺らに気づいて、声を張った。
「おっ、茅田に天笠! 今帰りか、お前ら?」
「はい、ようやく解放ですよ。警部、まだまだですか?」
「当たり前だ、俺らはこれから夜勤の山だよ。ったく、お前ら羨ましいぜ」
「いやいや、今回は科捜研チームがいたからこそ早かったっすよ。俺らだけじゃ無理でしたって」
「また出たよ、茅田の科捜研贔屓。まあ、でも、実際進展は早かったな」
松方巡査部長が隣で苦笑しながら、分厚い書類ファイルを抱えていた。
「天笠くん、徹夜で粘ってなかったら、まだあの現場ずっと封鎖してたと思いますよ」
「ほんとだ。お前、また謙遜するなよ。ああ見えて松方、裏で天笠を神格化してるからな」
「やめてくれ。大げさすぎ。こっちは地味な作業しかしてない」
「天笠がそう言うと余計ウケるんだよな」
松方が苦笑いのまま、軽く手を振ってきた。
「でもさ、たまには飲み会も来てくれよ。松方部長の愚痴はビールとセットだから」
「悪い、今日はほんとに限界。顔出しはまた今度で勘弁してください」
「よし、次の事件が終わったら絶対だぞ」
塔田警部がコーヒーを掲げる。「お疲れさん、ちゃんと休めよ」
「明日またな。みんな倒れないようにね」
「俺は絶対寝坊する自信ある」
「大丈夫。天笠が遅刻したら職場の神話が崩壊する」
「あはは、それはやめてくれ」
エントランスを抜けると、ビルの外気が思った以上に冷たい。
自動ドアが背後で閉まる音が、やけに現実味を帯びて耳に残る。
茅田と並んで歩きながら、ふと肩を軽くぶつけ合った。
「じゃ、また明日な。寝落ちして朝になっても俺のせいにすんなよ?」
「そっちこそ。途中で力尽きて道端で寝てんなよ」
茅田と別れて、ふらふらとコンビニの明かりに吸い寄せられる。
夜の空気は、喧騒と静けさが溶けあって、不思議と心地いい。
店内の灯りがやたら明るく感じる。
雑誌コーナーを横目に、弁当、ビール、プリン、ケーキ、ポテチ――眠い頭で適当にかごに突っ込んでいく。
レジで財布をまさぐりながら、ふいに自分のご褒美ラインナップに苦笑い。
「……完璧。今夜はこれで生き返る」
袋を片手に外へ出れば、夜風が頬を撫でた。
微かに湿った匂い。車が遠くを走る音、信号が変わるたび響く自転車のブレーキ音、救急車のサイレンも遠ざかっていく。
「明日は昼まで絶対起きない……」
思わず口から漏れる。本当にただの、平凡な夜だと信じていた。
……けれど。
背後で、カツカツと靴音が響く。
この時間、この路地は誰も通らないはずだ。
妙に足音が耳に残る。
何だか嫌な予感がして、歩くスピードを落とす。
「……すみません」
小さな声。
振り返った、その刹那。背中に灼けるような熱が突き刺さる。
「――ッ」
全身から力が抜け、手に持っていた袋がアスファルトに落ちる。
中身が跳ねて、ガシャガシャと音を立てる。
膝が崩れ、地面の冷たさがじわじわと伝わってくる。
街灯の下、逆光で相手の顔は影になり、輪郭しか見えない。
「……や、った……はは、これで……」
カラン、とナイフが転がる音。
血の赤が一瞬だけ視界をかすめた。
(……あれで、刺されたのか)
頭がぼうっとしているのに、不思議と冷静な思考だけが働いている。
(指紋……残るな。足跡、血痕も……。現場保存……)
意識が遠ざかる。
体の痛みよりも、頭の片隅で証拠や事件のことばかり考えていた。
(……証拠、大丈夫……。通り魔、か?……くそぉ……犯人、ぜってぇ、逃がさないからな……)
視界が暗くなっていく。
最後の最後まで、俺の頭は仕事から抜けられなかった。
◆ ◆ ◆
―――眩しい光。
……まぶたの裏に、じんわりと熱が差し込む。
頬に触れるのは、やけに柔らかいシーツ。
ゆっくりと重いまぶたを開けると、目に飛び込んできたのは、彫刻が施された高い天井と大きなシャンデリア。
壁紙には金色の蔦模様が這っている。
(……どこだ、ここ)
まずそれしか思い浮かばない。
身体を動かそうとしたが、うまく力が入らない。腕を持ち上げてみると、やけに細く短い。
自分のものじゃないような感覚。
指先まで、見慣れた形じゃない。
「あ、動きました! 坊ちゃま!」
すぐそばで誰かが声を上げた。
ベッドの周りには見知らぬ人たちが数人、こちらを覗き込んでいる。
ふわりと膨らんだドレス、レースの飾り、きらびやかな刺繍の入った上着。
まるで舞台か映画のセットの中に放り込まれたようだ。
現実味がなくて、逆に不安になる。
みんな、俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。
けれど、誰一人見覚えがない。
……病院じゃない。
事故――いや、違う。
そうだ、俺は……刺された。
でも、ここはあの冷たい夜道でも、見慣れた病院の天井でもない。
(なんなんだ、ここは……)
落ち着け、と自分に言い聞かせるが、心臓がばくばくと音を立てる。
声を出してみようとするが、出てきたのは妙に高くて幼い声だった。
喉が乾く。
誰かが話しかけてくるが、言葉が頭に入ってこない。ノイズのように聞こえるだけだ。
頭の奥がじんじん痛む。
……さっきまでの記憶が、ゆっくりと滲み上がってくる。
コンビニの袋、冷たいアスファルト、焼けるような痛み、ナイフ。
その先は、白く途切れている。
(……もしかして、俺……)
指をぎゅっと握ろうとしても、細い手が丸まるだけだ。
混乱と不安が波のように押し寄せる。
――証拠。現場に、ちゃんと残ってるはずだ。
犯人は……まだ捕まってない。
俺、まだ何も終わってないのに。
喉の奥が苦しくて、息が浅くなる。
(……死んだ、のか……)
ぞわりと背筋が冷たくなった。ありえないはずの現実に、思考がついていかない。
目の前の景色がぐにゃりと歪んでいく。
胸が苦しい。どうしていいかわからない。
「……レイン、しっかりして!」
すぐそばで、どこか品のある女性の声が響いた。
「医師をっ!」
「いや、治癒師を呼んだ方が!」
誰かが大きな声で叫ぶ。
慌ただしい人の動きと、何人もの足音、ざわめきが遠ざかっていく。
自分だけが、世界から少しずつ切り離されていくような感覚。
誰かが呼びかけている。
名前を呼ばれている気がする。
でも、もう言葉も届かない。
世界の輪郭はまだ曖昧で、夢か現実かも分からない。
ただ、胸の奥には、あの日の記憶と悔しさが、確かに刺さったままだった。
――意識が、また遠ざかっていく。