九話 晴讀社を訪問
俺は二社目に訪問した軽池製菓にも入社できなさそうなことを知り、愕然としていた。しかし、蓬莱さんからの手紙には続きがあった。
「お世話になった藤野さんには、私と社長からせめてものお詫びと、さらに新商品のアイデアをいただいたお礼として図書券を同封します。どうか快くお納めください。」
手紙と一緒に封筒の中には全国共通図書券が入っていた。百円券が五枚綴りになった五百円分の図書券だが十冊入っている。合計で五千円分だ。
「将来、藤野さんのアイデアが商品になり、大ヒットしたら改めて御礼いたします。また、次の会社訪問先をお探しなら、私の知り合いが社長を務める晴讀社という出版社を紹介します。先方には連絡済みですので、予約をしてご訪問ください。」
以上の内容で手紙は締めくくられていた。
俺は晴讀社という聞いたことがない出版社の連絡先の部分だけを切り取ると、残りの手紙は手提げ鞄にしまった。下宿に戻ったら、流しで火を着けて燃やしておこうと思いながら。
その足で就職指導部に再度顔を出す。俺の顔が曇っていたのか、相良さんがあわてて寄って来た。
「どうしたの、藤野さん」
「えっと、いろいろありまして、軽池製菓の蓬莱さんに次の訪問先を紹介してもらいました」
「え?また、断られたの?・・・でも、次の訪問先を考えてくれるなんて、やっぱり先方に気に入られたんだと思うけどね。何かあったの?」
「それは企業秘密なので答えられませんが、面会した人事部長も社長さんも好感触ではありました」
「そうなの?残念ね。・・・で、次の訪問先はどこなの?」
「これです」と言って俺は連絡先を相良さんに見せた。
「晴讀社?出版社なの?聞いたことがないわね。・・・いいわ、電話をかけてあげる」
「よろしくお願いします」
相良さんがまた先方に電話をかけてくれた。
「もしもし、晴讀社さんですか?・・・こちらは秋花女子大学の就職指導部の相良と申しますが、永峯社長はおられますか?」
しばらくの間を置いて再び話し出す相良さん。
「はい。・・・はい、そうです。・・・はい、軽池製菓の蓬莱部長から紹介された藤野美知子さんです。御社に訪問してかまわないでしょうか?・・・はい、しばらくお待ちください」
そう言って相良さんは俺の方を向いた。「あさっての午後四時に来てもらえるか、と聞いておられるわ」
「私はかまいません。よろしくお願いします」
「もしもし、本人はその日時でご訪問したいと申しております。・・・は、じゃあ、よろしくお願いします」そう言って相良さんは電話を切った。
「面談の予約を取ったから、訪問して来てね。・・・会社の場所は電話帳と地図帳で確認して」電話帳には住所も記載されている(註、昭和四十五年当時)。
「はい、わかりました。ありがとうございました」と俺はお礼を言って、室内に置かれている電話帳と地図帳を探しに行った。
住所とおおよその場所をメモすると、俺はその足で大学の図書館に向かった。晴讀社という出版社がどのような書籍を出版しているのか、まったくわからなかったからだ。
しかし、本のタイトルがわかっていれば目録カードからすぐに探し出せるが、出版社名だけでは検索ができない。とりあえず俺は文芸書コーナーの書架を端から端まで見ていき、晴讀社と背表紙に印刷された本を闇雲に探し始めた。
一時間くらいかかっただろうか、ようやく一冊の本を見つけた。『江見水蔭評論』という文芸評論の本だった。江見水蔭という人は寡聞にして知らなかったが、主に明治時代に活躍した大衆小説作家で、翻訳家、編集者、考古学探検家としても知られていたようだ。
江見水蔭が著した小説は時代小説、推理小説、冒険小説と多岐に渡り、『月世界跋渉記』は空中飛行船翔鷲号で月面に降り立ち探検するというSF小説であった。
今では知る人は少ないと思うが、多才な作家だったなと、『江見水蔭評論』をぱらぱらめくりながら感心した。
この本の最後に晴讀社が出版した他の書籍が紹介してあったが、それを見ると文芸評論以外に学術専門書なども刊行しているようだった。
どうやらお固い出版社のようだ。文学的素養があまりない自分がこんな出版社でやっていけるのだろうかと不安になる。
とはいえまだこの会社に就職すると決まったわけではない。俺は本を書架に戻すと、社会経験を積むつもりで訪問することにした。
会社訪問の当日になった。晴讀社は神田神保町の裏通りにあり、三階建ての古そうなビルの二階にあった。狭い階段を上って晴讀社と書かれたドアをノックしたが、何の返事もない。
しばらく待ってからそっとドアを開けて中をのぞき込んだ。
中には事務机が何台か並び、その上に書類やら本やらが山積みにしてあった。書類の山の間に執筆スペースがあるようだが、そこで仕事をしている人はひとりしかいなかった。
そして一番奥の窓際に、こちら向きに置いてある事務机(同じように机上は乱雑)に、中年の男性が椅子にふんぞり返り、天井を見ながら煙草を吸っていた。
「あの、すみません」俺はもう一度声をかけた。
近くにいた仕事中の男性はそれでもこちらを見ることすらしなかった。しかし、一番奥の机に座っている中年男性が俺に気づいた。
「んん?・・・何か用かね?」と俺に聞く中年男性。
「あの、秋花女子短大の藤野と申しますが、永峯社長はおられますか?面会の約束をしているのですが?」
「永峯は俺だ。・・・君が藤野くんか。まあ、中に入ってこっちに来たまえ」と中年男性、永峯さんが言った。
「失礼します」と言って室内に入り、中に進む。晴讀社のオフィスはこの部屋と、隣にもう一部屋、資料室があるだけのようだった。
「まあ、かけたまえ」と言って、永峯さんは近くの事務机の椅子を引っ張って来て俺の前に置いた。誰かが使っている椅子じゃないか?
「晴讀社に会社訪問するとは奇特な女性だ。晴讀社がどういう出版社か知っているのかい?」
「大学の図書館で御社が出版した『江見水蔭評論』を読んだことがあります。そのほかには学術書を出版されているようですが、そちらは読んだことはありません」
「『江見水蔭評論』を知っているのかい?あれは僕がまだ若い頃に出版した本だ。君のような若い娘が読んでくれているとは嬉しいね」と永峯さんは言った。
「江見水蔭は昔一世を風靡した有名作家だったんだが、今の世で彼を知っている人は少なくなったね。・・・彼は尾崎紅葉と親交があったんだが、尾崎紅葉の『金色夜叉』は今でも耳にすることがある。・・・小説の何が後世まで伝わるのか、わからんもんだ」感慨深げに話す永峯さん。
「ちなみに我が社の社名、晴讀社とは、晴の日でも本を読むという意味なんだ。晴耕雨読って言葉があるだろう?あれをもじったものさ」
「ここに社員さんは何人おられるのですか?」と俺は気になったことを聞いた。
「編集者が四人、事務員の女性がひとり、そして社長兼編集長の僕の合計六人だな。しかしそこに座っている神谷くん以外は外に出ている。執筆者の先生の原稿を取りに行ってるんだ。事務員は事務用品の買い出しだけどね」
「ところで、仮に私が御社に就職した場合、どんな仕事を担当することになるのでしょうか?」秘書など必要としていない、あるいは置く余裕がないように見える。
「君には事務員でなく、編集者として働いてもらうことになるだろう。もっとも事務員の仕事を頼むこともあるだろうが」
「はあ・・・」
「今、ひとつの企画を考えているんだ。君次第ではその企画の担当者になってもらうかもしれない」
「企画ですか?どのような?」
「我が社では君が知っているような書籍を販売しているが、この際、雑誌を発刊しようかと考えているんだ」
「雑誌ですか?」大手の出版社ではないのに、そんなことが可能だろうかと疑問が頭をよぎる。
「どのような内容の雑誌を作られるおつもりなんでしょうか?」と重ねて聞くと、永峯社長は腕を組んだ。
「ファッション雑誌、漫画雑誌、文芸雑誌などは我が社には荷が重いだろう。記事や作品を書いてくれる執筆者がそうそう集まるとは思えない」
確かに、と俺は思った。少年サンデーやマガジンなどの少年マンガ雑誌より遅れて発刊された少年ジャンプなどは、当初は人気作家のマンガをなかなか載せられず、新人マンガ家を多用したという。その新人マンガ家が後年大御所作家になるのだが。
「そこでほかの出版社がまだ手を出していない分野の雑誌を作ろうと思う。・・・若い君に聞くが、どんな雑誌がいいと思うかい?」
いきなりの難問を突きつけられた。まともに答えられるわけがないが、一応考える。
「・・・そうですね。『江見水蔭評論』を読んで思ったのですが、誰もが興味を示していなかった作品の評論をまとめて雑誌に掲載するのはどうでしょうか?」
「誰もが興味を示さない?・・・江見水蔭みたいな昔の作家の作品かい?」
「いいえ。もっと新しい、でも、文化としてまだ根付いていない新しい分野、つまりサブカルチャーとでもいうべき作品群です」
「さ、さぶかるちゃ?・・・具体的にはどんなものかね?」
「高尚な文芸作品に対する、より大衆的な娯楽作品です。例えば、推理小説やSF作品などです。もっともこれらはある程度歴史を重ねているので、いまやサブカルチャーとは言えないでしょうが」
「そうだな。ミステリマガジンやSFマガジンなどの専門雑誌もあるからな」
「そこで今注目すべきは、マンガやテレビマンガの評論誌ですよ」
「マンガ?テレビマンガ?・・・・そんなの子どもが見るもので、評論なんかには興味を示さないだろう」
「いえ、いえ、マンガは劇画の人気でいまや大学生や社会人も読むようになっています。マンガはさらに成熟して、子どもの頃からマンガに触れてきた若い人たちなら評論を興味を持って読んでくれることでしょう」
「そうだろうか?」
「そしてテレビマンガは、人気があるマンガ作品が映像化されることが多く、これも近年人気を博すことは間違いありません」
「・・・そんな雑誌が売れるかなあ?」
「売れるかどうか、さすがに保証はできませんが、出版業界の歴史に新たな一ページを刻むと思いますよ」
「マンガ評論なんて、誰が書けるんだい?雑誌の体をなすほど記事が集まるかなあ?」
「・・・そうですねえ、マンガに詳しい人がいますから、その人に試しに評論を書いてもらうのはどうでしょうか?」
「心当たりはひとりだけかい?・・・雑誌になるんだろうか?」
「最初は薄い雑誌を、季節ごとに出すということなら可能かもしれませんね」人ごとだと思っているので、気楽に企画を出せる。
「とりあえずその人に書いてもらおうか?・・・雑誌に載せられるかわからないから、原稿料は今の段階では出せないけどね」
「書いてもらえるかわかりませんが、一度頼んでみます」と約束させられるはめになった。
「ところで君は不可思議な現象の謎解きが得意だそうだね?」と永峯社長が言った。
「軽池製菓の蓬莱さんに聞かれたのですか?お二人はどういうお知り合ですか?」
「彼は大学の後輩なんだ」
永峯社長の方がかなり年上に見えたが、そんなに年は違わないのだろうか?
「必ずしも謎が解けるわけではありませんが」と牽制する。
「どのような謎でしょうか?」
「・・・今はちょっと言えないな」と永峯社長は小声で言って、室内にいるひとりの編集者を指さした。
「彼には聞かれたくないんだ」
その編集者が俺たちの会話に聞き耳を立てているようには見えなかったが、それでも聞こえてはいるのだろう。
「わかりました」と俺は答えた。
「その、マンガの評論を書いてくれそうな人の返事を教えに来てくれるかな?僕は日曜日以外はだいたい朝から夜までここに座っているからね」
「はあ・・・」二回目にここに来たときに、社内に誰もいないと予想できるのだろうか?
「わかりました」と俺は一応答えた。「マンガ評論を書けそうな人にいつ会えるかわかりませんが、返事を聞けたらすぐに報告に参ります」
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
蓬莱友則 亀池製菓の人事部長。
須永為蔵 亀池製菓の社長。
相良須美子 秋花女子大学就職指導部の事務員。
永峯泰造 晴讀社の社長兼編集長。
神谷篤志 晴讀社の編集者。
金券情報
日本図書普及株式会社/全国共通図書券(100円券、5枚綴り)(1967年10月〜1976年11月販売)
雑誌情報
早川書房/エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン(1956年6月創刊、1966年1月号から『HAYAKAWA'Sミステリ・マガジン』に改名)
早川書房/S-Fマガジン(1959年12月25日創刊)