六話 社長宅での晩餐
俺は路子さんを連れて意気揚々と社長の書斎に戻った。
書斎に入って来た路子さんの晴れ晴れとした顔を見てほっとしたような表情になる社長。
「お父様、ご迷惑をおかけしました。私はもう迷いません。田村さんとの結婚を進めてくださいな」
「そうか、そうか。迷いはなくなったんだな。・・・だが、どうしてあんなことを言ったんだ?」
社長の問いに言い淀む路子さん。そこで俺が代わりに言った。
「うまく結婚生活を送れるか不安になられていただけのようです。もう前向きになられましたから問題ないでしょう」
「藤野くん、ほんとうにありがとう。君のおかげだよ」と喜ぶ社長。
「さっきも言ったように、今日の晩餐を呼ばれていってくれ」
「わかりました」と答える前に、社長は路子さんにも言った。
「実は田村くんも呼んでいるんだ。直に来ると思う」
「まあっ」頬を染めながら満面の笑顔で喜ぶ路子さん。俺は逆に心の中で「げっ!」と叫んでしまった。
田村さんは、悪い人ではないのだろうが、どうも苦手だ。しかし夕食の招待を受けてしまった以上、ここで帰るわけにはいかない。
そのときちょうど玄関のドアホンが鳴った。
「田村さんだわ!」と言って自ら迎えに行く路子さん。
路子さんがいなくなったので、社長が改めて俺に聞いてきた。
「で、ほんとうはどうだったんだ?」
「先ほど言ったことですべてですよ。お嬢さんは結婚が現実的になって不安になったとともに、自分が田村さんにふさわしいかどうか悩んでおられただけです。ご本人には恥ずべきことはまったくありませんでした」
「そうか。それなら良かった。じゃあ、食卓の方に行こうか」
社長が立ち上がったので、俺も立ち上がり、社長の後に続いて食堂の方に移動した。
食堂には先ほどのお手伝いさんと、もうひとり高価そうな着物を着た初老の女性がいて、食卓の料理の指図をしていた。
「家内だ」と俺に紹介する社長。
「こちらが路子の結婚へのためらいを払拭してくれた藤野くんだ。今短大生で、我が社への就職を希望しているそうだ」
「ようこそいらっしゃいました。そして娘の悩みを解消してくださいましてありがとうございます」と頭を下げる社長夫人。
「いえ、たいしたことはしておりません」と謙遜したところへ路子さんと田村さんが入って来た。路子さんは嬉しそうに田村さんに寄り添っている。
「社長、奥様、今宵はお招きいただきありがとうございます」頭を下げる田村さん。
「いやいや、よく来てくれたね田村くん。今夜は一緒に飲もう」と社長が答えたとき、田村さんが俺に気づいた。
「おや、藤野さんも来ていたのかい?」
「こんばんは」と俺は頭を下げた。
「なんだ?田村くんは藤野くんのことを知っていたのかい?」
「ええ、以前にたまたま。・・・先週は社長室の前でも会いました」
「あの、知り合いというほどの知り合いではありませんので」と俺は、俺を見つめる路子さんの視線に気づきながら答えた。秘書の宮永さんや広田さんが勘ぐったように、田村さんの過去または現在の女と勘違いされては大変だ。
「そうか。とりあえず座ろう」と着席を勧める社長。
長方形のテーブルの片側に社長夫妻、その向かいに田村さんと路子さんが並んで座り、俺はテーブルの端の椅子に腰かけた。
料理は豪勢だった。大皿に盛られたお刺身などの豪勢な料理が置かれていた。
「じゃあ、始めようか」「いただきます」
さっそく社長には奥さんが、田村さんには路子さんが熱燗の日本酒が入ったとっくりを持っておちょこに注いだ。その後で田村さんが路子さんのおちょこにお酒を注ぎ、社長夫人は俺の方にとっくりを差し出してきた。
「私はお酒は飲めませんので、お茶をいただきたいのですが」
「そうか?帰りは車で送って行くから、酔い潰れても安心だぞ」と社長。
安心ではありません。もともと飲めないし。まだぎりぎり十九歳だし(俺は五月生まれ)。
俺の言葉を聞いてお手伝いさんが湯のみにお茶を注ぎ、俺に渡してくれた。助かる。
「それじゃあ田村くんと路子の前途を祝して、乾杯!」と発声する社長。
俺も湯のみを持ち上げて社長の発声に応じた。
その後は和気あいあいと食事が進んだ。・・・俺自身はほとんど話さなかったけど、社長と田村さんと路子さんが上機嫌で喋り続け、俺は何となく相づちを打つ振りをしていた。
料理はとてもおいしかった。藤野家では絶対に出ないような高級な食材で、話に加わらない代わりに味を堪能し、たまに「これはおいしいですね」、「これも絶品です」と社長夫人に囁いていた。
社長と田村さんは酔いが回ってきたのか、ますます饒舌になっていた。
「ところで藤野さんは我が社への入社を希望しているのかい?」と突然田村さんが俺に聞いてきた。
「は、はい。できれば」こっちに話を振るなと思いながら、愛想笑いで答えた。
「ああ、秘書志望だそうだ」と社長。
「藤野さんは我が社に関してなかなかすばらしい将来展望をお持ちでしたよ」
「ああ、私も聞かせてもらったよ。人事の高田くんも藤野くんのことをほめていたよ」
さすがにティーバッグ事件のことは社長は話さなかった。田村さんが元凶で起きた事件だったからだ。
「もし入社したら、秘書でなく研究開発部に配属してもらえませんか?」と社長に言う田村さん。
「僕の片腕になってくれそうだ」
「まあ、考えておこうか」と社長が答えたとき、俺は路子さんが険しい顔をしているのに気づいた。
未来の夫がお気に入りの女性(俺のことだ)を会社でそばに置きたがっている。・・・絶対に何か勘違いをしているのに違いない。
このままこの場にいてはまずい。そう思った俺は社長に向かって言った。
「本日はごちそうさまでした。私はお酒のお相手ができませんので、お許しいただけたらここでお暇しようと思います」
「おや、もう帰るのかい?まだ宴たけなわというのに」
「申し訳ありませんが、明日も学校があるので」
「わかった。名残惜しいが車で遅らせよう」そう言ってお手伝いさんに運転手に準備するよう伝える社長。
すると、田村さんも、「私も明朝一番に大事な会議があるので、準備のためにここで帰らせていただきます」と社長に言った。
「そうか。仕事第一だから仕方がないか。藤野さんと一緒に車で送らせよう」
そう言ったとき、路子さんの顔が赤くなっているのに気づいた。しかも俺をにらんでいる。酔っぱらって赤くなっているわけではなさそうだ。
「た、田村さんは酔い覚ましに私の部屋でお茶でも飲んでいかない?一刻一秒を争うほど急いでいるわけじゃないんでしょ?」
「それはそうだが」田村さんは俺の顔をチラ見しながらどうしようか迷っていた。やめろ、俺を見るんじゃない!
「それでは私はお先に失礼します」と俺はあわてて言って立ち上がった。
「ああ、君には今後も期待しているよ」と社長。
田村さんもにこにこしながら俺に手を振っている。やめろ!
俺はお手伝いさんに案内されて玄関に向かった。家の前にはここへ来るときに乗って来た車が停まっていて、運転手さんにドアを開けてもらって乗り込んだ。
行き先を告げて発車してもらう。・・・高級車の座席は電車の座席よりも遥かに座り心地がいいが、俺にはどうも馴染めなかった。
翌日の放課後、俺のことを心配していた女子大の就職指導部の相良さんに昨日のことを報告に行った。
俺の顔を見た相良さんはあわてて飛んで来た。
「藤野さん、あなたは昨日何をしたの!?」
「え?え?」
「いいから、何をしたのか正直に言って!」と迫る相良さん。
「昨日、鈴山電機に行ったらいきなり社長室に通されて、そのまま社長の家に案内され、豪華な夕食を食べて帰りました。ただ、それだけです」
「会社訪問をした短大生がいきなり社長と面会した?まずありえない話だけど、事実だとしたら先方の会社に相当気に入られたはず。・・・なのになんでなの!?」
「話が見えませんが・・・」
「今日また鈴山電機の人事部の高田さんから電話がかかってきたの」
「そうでしたか?」
「高田さんはね、あなたのことを非常に優秀な女性だとほめ、その上で別の会社を訪問してみないかと言ってこられたの」
「別の会社?」
「そうなの。・・・鈴山電機では雇えないってことかしら」
「そうなんですか・・・」高田さんからは好感触を得ていただけあって残念だ。
「雇う雇わないは会社の都合だから仕方ないけど、普通はそれだけで、別の会社を紹介してくれるってことはないから、少なくとも高田さんにはあなたの受けが良かったってことなんでしょうね」
・・・ひょっとしたら、社長の娘の路子さんが俺の就職に異を唱えたんじゃないだろうか?根拠のない勘ぐりだけど。
「そ、それで、どこの会社を紹介されたのですか?」
「それがね、軽池製菓なの」
「軽池製菓?」
その会社は知っている。スナック菓子で有名な食品製造会社だ。
「同業他社ではなく、まったく無関係な業種の会社なのですね?」
「そうね。・・・好意的に考えると、ライバル会社にあなたを渡したくなかったってことかしら?」
「はあ・・・」
「それでどうする?先方には話をつけてあるって高田さんが言っていたから、軽池製菓を訪問してみる?訪問するなら電話をかけてあげるけど」
「そうですね。お願いできますか?」
「わかったわ。ちょっと待っててね」
相良さんはそういうと、メモを見ながら電話をかけた。
「もしもし、秋花女子大学の就職指導部の相良と申します。人事部の蓬莱さんはおられますでしょうか?」
しばらく待ってから再び相良さんが話し始めた。
「はい、そうです。・・・そうです。藤野美知子さんの件です」
自分の名前が会話の端に出てくると緊張する。
「そうですか?本人はぜひ御社を訪問したいと申しております。・・・では、聞いてみます」
そう言って相良さんは受話器の送話口を手で押さえながら俺に話しかけてきた。
「さっそくだけど、明日の三時頃に先方に来てもらえるかって聞かれたけど、どうする?」
「明日ですか?問題ありません」
「じゃあ、約束を取り付けておくわよ」そう言って相良さんは再び受話器を顔に近づけた。
「もしもし、本人はぜひ訪問したいと申しております。・・・はい、はい。承知いたしました。それではよろしくお願いいたします。・・・失礼します」
相良さんは受話器を降ろすと、俺にメモを渡した。
「じゃあ、明日はよろしくね。これが先方の住所と電話番号。会社がどこにあるか、そこの棚に都内の地図があるから、それで確認してね」
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
鈴山路子 鈴山社長の末娘。二十五歳。
鈴山壮介 鈴山電機の社長。
田村太郎 鈴山電機の研究開発部の係長。
宮永礼子 鈴山電機の年配の秘書。
広田彰子 鈴山電機の若い方の秘書。
相良須美子 秋花女子大学就職指導部の事務員。
高田聡太 鈴山電機の人事部の係長。
蓬莱友則 亀池製菓の人事部員。