五十二話 ミニョネット号事件(美知子の妖怪捕物帳・肆拾陸)
「藤野さんはエドガー・アラン・ポーというアメリカの作家をご存知かな?」と姫島社長が俺に聞いてきた。
「はい。世界で最初に推理小説というジャンルを確立された人で、『モルグ街の殺人』などが有名ですね。そして江戸川乱歩のペンネームの元になった人です」
「そう。そのポーが書いた小説を十年くらい前に読んだんだ」
「何という小説ですか?」
「確か・・・『なんとかピムの冒険』とかいうタイトルだったかな?内容は、アメリカ人のピムが捕鯨船に密航するんだが、途中で暴風雨に遭遇して遭難するというものだった」
「それって僕が子どもの頃に買ってもらった『ゆうれい船』と同じ内容じゃないの?」と息子の専務が言った。
「幽霊船?」と俺は聞き返した。
「遭難した後で幽霊船に遭遇するんだよ。その船の甲板には死人が乗ってるんだ」
「その小説にはそういう話もあるのだが、私が気にかかっていることは、遭難中にとうとう食べるものがなくなって、生き残った人の中からくじ引きで犠牲者を決めるというくだりだ」
「犠牲者?」
「くじに当たった者を殺してその肉を食べるという話なんだ」
「限界的な状況でのこととはいえ、恐ろしい話ですね」
俺はその話を聞いて『カルネアデスの板』の話を思い出した。古代ギリシャの哲学者カルネアデスが出した問題で、船が難破して海に投げ出され、つかまるものが一枚の小さな板しかなく、一人しかつかまれない。自分が生き延びるため、その板を奪うことで他人を溺死させるのは正しい行為か?という倫理問題だ。
日本の法律には「緊急避難」の概念があって、やむを得ない状況と判断されれば、他人を殺しても罪には問われない。しかし二人が同時に助かる方法が考えられる場合には「過剰防衛」に当たり、罪に問われる。
自分たちが生き延びるために他人を殺すことには躊躇してしまうが、さらに殺した人の死肉を食うことにはより大きな抵抗を感じる。
「僕が読んだ子ども向けの本にはそこまで書いてなかったな」と専務が言った。
「しかし実話として『ひかりごけ事件』があったことは聞いたことがある」
「『ひかりごけ事件』とは何ですか?」
「そういう小説があるんだけど、その元になった事件が戦争中に起こってね、船が難破して知床半島の先端に漂着した人が、生きるために他の漂着者を殺して食べたと疑いをかけられたんだ」
「実際にそういった事件があるのですね」
「実は『なんとかピムの冒険』という小説にも恐ろしい事件が関わってるんだ」と社長が言った。
「小説のお話ではないのですか?」
「さっき話した小説の中で殺されて食べられた人物の名前がリチャード・パーカーなんだが、小説が世に出されてからおよそ五十年後に同じような事件が実際に起こってね」
「まさか・・・?」
「マリオネット号だったかな?十九世紀にそういう名前のイギリスの船が実際に難破して、小説と同じようにくじ引きをして食べられる犠牲者を選ぼうということになったらしい」(作者註:正しい船名は『ミニョネット号』)
「実際にはくじ引きはしなかったそうだが、生き残りの中のひとりがのどの渇きに耐えられず海水を飲んでしまって意識を失ったそうだ」
「そのままじゃあ死んでしまうな」と専務が言った。
「そう思って難破船の船長がその男を殺して、生き残った仲間と一緒に血肉をすすったそうなんだが、その殺されて食べられた男の名前がリチャード・パーカーだった」
「え?それって、小説の中で食べられた人と同じ名前だったってことですか?」
「そうなんだ。それで当時大きな話題になってね、ポーの小説が未来を予言していたとか、船長がポーの小説を読んでいて真似たとか、いろいろな憶測が飛んだそうだ。もっとも船長も他の船員もポーの小説など知らなかったらしいが」
「それは驚くべき話ですね」
「それで藤野さんに聞きたいんだが、これって偶然の一致ですまされるのかな?それとも神の力というか、人智の及ばぬ力が働いたのかな?」
「父さん!じゃない、社長!その質問はさすがに藤野さんでも『偶然の一致です』としか答えられないんじゃないか?」と専務が異議を唱えた。
「そうかもしれないが、偶然にしてはでき過ぎているじゃないか?」と社長はなおも食い下がった。
「どう思う?」と俺に聞く社長。
「もちろん偶然の一致なのですが、本当に滅多に起こり得ないことなのか、奇跡といわざるを得ないような偶然の一致なのか、というところに疑問があります」
「と言うと?」と社長と専務が同時に聞いてきた。
「その前にまず、確率の問題を出します」
「なぜ確率の問題なんか出すんだ?」と聞き返す社長。
「社長。まず藤野さんの話を聞きましょう」と専務が嗜めた。
「ありがとうございます。・・・それでは、今教室に四十人の生徒がいます。この四十人の中に誕生日が同じ人がいる確率はいかほどでしょうか?という問題です」
四十人というのは、俺が通っていた松葉女子高のひとクラスの人数だ。
「なんだ、その問題は?」と聞き返す社長。
「どうか、考えてください」
「ひとりの生徒の名前をAとすると、ほかの誰かがAと同じ誕生日になる確率は、三百六十五分の一だから、それを三十九倍するんじゃないか?」と専務が言った。
「その確率はいくらになるんだ?」
「実際に計算してみましょうか?」と俺が言ったら、専務がすぐに止めた。
「筆算で計算していたら時間がかかり過ぎる。事務室に電子卓上計算機があるから、それを借りて来よう!」
専務はすぐに社長室を出ると、階段をばたばたと駆け下りていった。
「電子卓上計算機なんて高価な機械を持っておられるのですね?」
「年々安くなっているからな。去年買ったのが確か十万円だった。とても便利で経理に大いに役立ってるよ」と社長が答えた。
まもなく専務が電子卓上計算機を抱えて社長室に戻って来た。長さ二十五センチ、横幅十四センチぐらいの計算機だった。
電源を入れて計算を始める専務。
「三百六十五分の一は小数で約〇・〇〇二七。これを三十九倍すると約〇・一○五三になる!約一割だ!」
「つまり、四十人の教室に同じ誕生日の人が四人はいることになるわけか」と社長が言った。
「思ったより人数が多いな」
「計算の考え方としては、同じ誕生日にならない確率をかけ合わせた値を一から引く方がいいと思います」と俺は指摘した。
「どう計算するんだ?」
「三百六十五分の三百六十四を三十九乗し、その値を一から引くのです。計算すると・・・」
俺は電子卓上計算機のキーを叩き、その結果をメモしながら計算し続けた。累乗するキーがないので、三百六十五分の三百六十四、つまり約〇・九九七を三十九回かけ合わせ、その値を一から引いた。
「・・・約〇・一〇〇一になります。値は少し異なりますが、やはり約一割です」
「やはり四十人の教室なら同じ誕生日の人が四人はいるという結果か。数字の差は誤差範囲だな」
「ただ、この計算方法はAさんと同じ誕生日の人が教室にいる確率を表すものです。問題は、Aさんと同じ誕生日の人だけでなく、Bさんと同じ誕生日の人、Cさんと同じ誕生日の人と、すべての組合せを考えなければなりません」
「それは計算した一割を四十倍すればいいんじゃないのか?」と聞き返す専務。
「社長。その計算だと四十人の教室に百六十人いることになります」と専務が間違いを指摘した。
「この場合は先ほどと同じように、同じ誕生日にならない確率をかけ合わせて求めるのです」と俺は説明を始めた。
「BさんがAさんと違う誕生日になる確率は三百六十五分の三百六十四です。そして次にCさんがAさんともBさんとも違う誕生日になる確率は三百六十五分の三百六十三になります。次にDさんがAさん、Bさん、Cさんと違う誕生日になる確率は三百六十五分の三百六十二と、分子の数が一ずつ減っていきます。四十人目の生徒がほかの生徒と同じ誕生日にならない確率は・・・三百六十五分の三百二十六になります。これらの分数をかけ合わせると・・・」
俺は電子卓上計算機でひとつずつ計算していった。そして最後にかけ合わせる。
「約〇・一〇八八になります。つまり、四十人の生徒全員が他の生徒と同じ誕生日にならない確率は約一割です。逆に言うと、約九割の確率で誰かと誰かの誕生日が同じ日になるのです」
「そんなに高い確率になるのか!じゃあ、教室の中に誕生日が同じ人が必ずいると言っても過言ではないわけだな!?」と専務が驚いて言った。
「思っていたのより高確率だったが、その計算がマリオネット号の事件とどう関係するんだ?」と社長が聞いてきた。
「教室内に同じ誕生日の人が二人いると聞いたときに、最初はなんという偶然の一致だと驚きかねませんが、実はそんなに珍しい現象ではないことを言いたかったのです。マリオネット号の事件とポーの小説の人名の奇妙な一致は、本来はありえない奇跡だと思われるかもしれませんが、確率的にはそれほど珍しいことではないのかもしれません」
「そうかな?」と半信半疑な様子の社長と専務。
「日本人男性の名前でよくあるのがヒロシですが、漢字で書くと弓へんの弘、さんずいの浩、うかんむりの宏、菊池寛の寛、衣へんの裕、博識の博、太平洋の洋など、一文字名でもたくさんの種類があり、漢字まで一致しないと同名とは言えません。
「そうだな」
「一方、イギリス人やアメリカ人では、ファーストネームの多くがキリスト教の聖人の名前にちなんでいてあまり変化がなく、ジョン、ジェームズ、ピーター、フィリップ、トーマスなど、同じ名前の人がたくさんいます。ジョンとジェームズは使徒ヨハネ、ピーターは使徒ペトロ、フィリップは使徒フィリポ、トーマスは使徒トマスに由来します。使徒とはキリストの弟子のことで、新約聖書に登場します」
「そうなのか?」
「名字に関しても、日本では同じワタナベやサイトウでも、いろいろな漢字表記があります。それに対しイギリス系の名字は使徒ヨハネに由来するジョーンズ、ジョンソン、エバンズ、ダビデ王に由来するデイヴィス、使徒トマスに由来するトーマスや、職業に由来するスミスやテイラーなど、同じ綴りの定番のものが多いようです」
「なるほど」
「小説と実際の事件で被害者の名前が同じ『リチャード・パーカー』だったわけですが、リチャードというファーストネームも、パーカーという名字も、どちらもイギリスやアメリカでは珍しいものではありません。ですから同じリチャード・パーカーさんがイギリスとアメリカ国内に何人もいても不思議ではありません」
「どのくらいの確率になるんだ?」と聞く専務。
「イギリス人やアメリカ人の名前の統計の資料が手元にないので計算はできません。しかしそう考えると、たまたま遭難して殺されて食べられたという特異な状況であっても、同じ名前の人だったということはそれほど驚くことではないと思います」
(作者註:あまり参考にはならないが、二〇〇〇年にリチャードという名前を持つ男性の割合は〇・二二八三パーセント、パーカーという名字の割合は〇・一二〇二パーセントで、リチャード・パーカーはイギリスとアメリカに約九百三十六人いた計算になる。リチャードという名前は現在より昔の方が多いようだ)
「ところでマリオネット号の事件でリチャード・パーカーを殺してその肉を食べた船長はその後どうなったんだい?事件のことが知れ渡ったのなら、生還したのだろう?」と専務が聞いた。
「救出されてイギリスに戻った後、殺人容疑で裁判にかけられた。いろいろな意見があったようだが、死刑判決が下された」と社長が説明した。
「死刑ですか?」
「ああ。しかしヴィクトリア女王の特赦があって、禁固六か月に減刑したらしい」
「それは良かったですね。船長さんも、やむをえず犯した行為でしょうから」
「さっき話した『ひかりごけ事件』でも、人を食べた船長は死体損壊容疑で起訴され、結局心神耗弱が認められて、懲役一年の判決で終わったそうだ」と専務が言った。
「殺人の有無は証明できなかったわけか」と社長。
「殺人の明確な証拠はなかったんだろうね。それと人の肉を食べた行為に関しては、刑法にその規定がなかったので裁判ではその罪を問われなかったらしい」
「人を殺して食べたくなるほど飢えや渇きで苦しみたくないですね」
「まったくだ。・・・そういえば腹が減ってきたな。藤野さん、一緒に食事をしないか?」
「わかりました」
「近くにいい料理屋があるんだ。そこでは猟で獲った動物の肉を食べさせてくれるんだ。鹿や猪肉が多いが、熊肉が出ることもあるぞ」と社長が舌なめずりをしながら言った。
人肉を食べる話を聞いた後で、俺は食欲がわきそうになかった。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
姫島岩男 姫石運送の社長。
姫島鉄男 姫石運送の専務。社長の息子。
書誌情報
エドガー・アラン・ポー/モルグ街の殺人事件(新潮文庫版、1951年8月15日初版)
エドガー・アラン・ポー/モルグ街の殺人(春容堂版、1956年3月30日初版)
エドガー・アラン・ポー/ゴードン・ピムの冒険(世界大ロマン全集16に所収、創元社、1957年初版)
エドガー・アラン・ポー/ゆうれい船 (名作冒険全集27、偕成社、1958年5月初版)
武田泰淳/ひかりごけ(新潮社、1964年1月28日初版)
電卓情報
早川電機/QT-8D(1969年発売、価格99,800円)




