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五話 中原中也の亡霊(美知子の妖怪捕物帳・弐拾)

社長の車に乗り込むと、運転手が速やかに車を発進させた。


「藤野くん・・・だったね?君の家はどこなんだい?」と車中で社長が聞いてきた。


「○○市です。でも今は秋花しゅうか女子短大の近くのマンションで先輩と一緒に住んでいます」


「先輩?女の先輩かい?」


「もちろんです。秋花しゅうか女子大生のお二人と同居しています」


「それなら親御さんも安心だね」そう言って社長は黙り込んでしまった。


しばらく沈黙が続く。俺は沈黙に耐えられなくなって、「景気はどうですか?」と陳腐な質問をした。


「まあまあだね。君も言っていたように、我が社の業績はこれからもっともっと伸びるよ」


「そうですか。それはよかったです」


またしばらく沈黙が続く。


「お二人の秘書の仕事ぶりはどうですか?今後の参考のために、何か改善点とかご要望があれば聞きたいのですが」


「二人ともしっかりやってくれているよ。特に不満なところはないな」


再び沈黙が続いた。俺も話題がなく、黙ったまま車外を流れる景色を眺めていた。


やがて車は社長宅に着いた。門と塀があって全容はわからないが、けっこう広い和風住宅のようだった。


運転手が車のドアを開けたのでお礼を言いながら車外に出た。すぐに社長も出てくる。


「さあ、入りたまえ」と言って自宅の門を開ける社長。


「お邪魔します」と言って後に続く。


社長が玄関を開けると和服を着た女性が迎えに出た。「お帰りなさいませ、旦那様。・・・お客さまですか?」


その話し方からは、その女性が社長夫人ではなく、お手伝いさんのように思われた。


「ああ、我が社を志望している短大生の人だ。夕飯に招待したいので、その旨を伝えてくれ」


「かしこまりました」


俺は社長に続いて玄関に上がり、自分の靴を揃えた。


「こっちへ来てくれ、藤野くん」


社長に言われるままに廊下を歩く。そして通されたのが十畳ほどの和室だった。文机や座椅子があり、社長の書斎なのではと思われた。


「さあ、座ってくれ」と言われ、「失礼します」と答えて座卓に向かい合わせに座る。


「さっそくで悪いが相談に乗ってほしい。・・・まず、これを見てくれ」と社長は言って、文机の引き出しから一冊の文庫本を出してきた。


うやうやしく受け取り、表紙を見る。角川文庫の『中原中也詩集』だった。


「これが何か?」と聞き返したときに外から「失礼します」と声がして、ふすまを開けてさっきのお手伝いさんが入って来た。手に煎茶椀を載せたお盆を持っている。


俺と社長の前に丁寧に茶碗を置くお手伝いさん。そして会釈をして出て行ったので、俺はさっそく尋ねてみた。


「この詩集が何なのでしょうか?」


「・・・実は、うちの末娘のことなんだ」しばらくの沈黙の後、ようやく社長が話し出した。


「今年二十五歳で、そろそろ嫁に出したいと思って、研究開発部の田村くんとの縁談を勧めてみたんだ」


また田村さんが絡んでくるのか、と俺はあきれてしまった。しかし社長の娘との結婚話が出てくるとは、田村さんは社内で相当買われているんだな、と感心した。


「幸いなことに娘も乗り気になって、何度かデエトも重ねている。交際は順調のようで、今年中にでも結納を交わそうという話になっていた」


秘書の宮永さんたちの話では田村さんにはつき合っている女性はいないということだったが、社長の娘なので極秘に交際していたのかな?と俺は思った。


「それはおめでたいお話ですね」


「ところが、先日突然娘が田村くんとの縁談をやめたいと言ってきたんだ」


「え?心変わりですか?それとも・・・」


「田村くんのことが嫌になったのかと聞いても、『そうではない』と答えるんだ。ほかに好きな男ができたわけでもないと言う。結婚をやめる理由を言わないので、私が無理にでも聞き出そうとしたら、その本を差し出してきたんだ。それ以外は頑として何も言わないのだ」


困惑している社長。俺は手がかりである『中原中也詩集』を開いてみた。・・・俺は中原中也の詩なんて読んだことがなかったので、漠然と目次を眺めていると、詩のタイトルの上に鉛筆でうっすらと○が書き込んであるのに気づいた。


さっそくその詩を開いてみる。ひとつは『汚れつちまった悲しみに……』というタイトルの詩だった。・・・後で調べてみると、中原中也の代表的な詩のひとつらしい。


さっそく読んでみる。その詩はこういう書き出しで始まっていた。


 汚れつちまった悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 汚れつちまった悲しみに

 今日も風さえ吹きすぎる


汚れっちまった?ひょっとしたら娘さんは誰か別の男に乱暴され、それで汚れた自分を恥じて、縁談を取り消そうとしたのだろうか?・・・そうだとしたら、父親に理由を話せなくても無理はない。


詩を一通り読んだ後、もう一度目次に戻る。そして目を通していると、もう一編の詩にも○印が着いていた。その詩のタイトルは、『早春散歩』だった。


 空は晴れてても、建物にはかげがあるよ、


という文で始まり、四行目には、


 我等の心を引千切ひきちぎ


七行目には、


 私はもう、まるで過去がなかったかのように


と書いてあった。・・・やはり何か衝撃的な事件が起こり、その過去を忘れようとしているのではないかと思われた。それとも中原中也の亡霊にでも取り憑かれたのだろうか?


考え込んでいる俺を見て社長が、「何かわかったのか?」と聞いてきた。


「・・・これはデリケートな乙女心が関係しているように思います。・・・お嬢様はおられますか?おられるならお話ししてみたいと思いますが」と俺は答えた。


「何かわかったんだな?高田くんが言ったように、君は頼りになりそうだ。私も同席していいかな?」


「できれば私とお嬢さんの二人だけで話したいと思います。その方がお嬢さんも話しやすいと思われますので」と俺は社長の提案を断った。


「・・・わかった。君に任せよう」そう言うと社長は手を叩いた。柏手の大きな音が響くと、すぐにふすまの外にお手伝いさんがやって来た。


「旦那様、ご用ですか?」


路子みちこはいるか?」と聞く社長。社長の娘は『みちこ』というのか。漢字はわからないが、俺と同じ名前でびくっとした。


「はい、お部屋におられます」


「このお嬢さんが話があるそうだ。路子みちこに会うよう伝えてくれ」


「わかりました。直ちに」そう言ってお手伝いさんは去って行き、すぐに戻って来た。


「お会いになられるそうです」


「じゃあ、このお嬢さんを案内してさしあげろ」


「わかりました」と答えて俺を見るお手伝いさん。俺は「それでは」と社長に声をかけて立ち上がった。


「こちらです」と長い廊下を案内される。突き当たりのふすまに近づくと、お手伝いさんが中に声をかけた。


「お嬢様、旦那様のお客様をお連れしました」


「・・・入ってもらって」と中から声がして、お手伝いさんがふすまを開けた。中も和室だったが、畳の上には絨毯が敷かれ、ベッドも置かれていた。そしてその横の椅子の上に、路子みちこさんらしき若い女性が座っていた。ワンピースを着ていて、上品そうなたたずまいの娘さんだった。


「失礼します」と言って中に入る。路子みちこさんは俺が手に持っている『中原中也詩集』に気づいて、すぐに隣の椅子に座るよう促した。


その椅子に腰を下ろし、お手伝いさんがふすまを閉めると、俺はすぐに切り出した。


「私は藤野美知子と申します。現在短大二年生です。さっそくですが、乗り気だった結婚話を急にやめたいと言われたそうですね?お父様が心配になって私に相談してきました」


「え?なんであなたに父が相談したのですか?」


「いろいろな経緯があるのですが、会社の人には知られたくないということで、社員でない私に白羽の矢が立ったようです」


「そうですか。・・・でも、あなたにも本当の理由を話すことはできません」


「話しにくいことと拝察しますが、単刀直入にお聞きします。この詩集を読んで思ったことですが、あなたは誰かに乱暴されたのではありませんか?」


俺がそう聞くと、路子みちこさんはあわてて首を横に振った。「そんなことは断じてありません!私のは純潔なままです!」


その剣幕に圧倒される。しかしここまで主張されるのなら、乱暴されたという事実はないのだろう。


「なら、どうして・・・」と俺は言いかけて、路子みちこさんが今言った言葉に気づいた。


は純潔・・・ですか?ひょっとしてご自分の心が汚れたと思っておられませんか?」


俺の言葉に路子みちこさんは顔を赤らめて机の方を見た。そのままうつむく。


俺は路子みちこさんが目線を向けた机を見た。机の上には一冊の映画のパンフレットが置いてあった。


「このパンフレットを拝見してよろしいですか?」と聞いたが、路子みちこさんはうつむいたまま何も答えなかった。俺はそれを了承の印と捉えた。


手を伸ばしてそのパンフレットを見る。『冬のライオン』という洋画のパンフレットだった。主演はピーター・オトゥールで、キャサリン・ヘップバーンや若きアンソニー・ホプキンズも共演していた。


『冬のライオン』は十二世紀のイギリス国王ヘンリー二世を主役にした映画だった。ヘンリーが後継者を決めるために、幽閉している王妃と三人の王子と愛妾と、フランス国王フィリップを集めるというストーリーのようだ。


愛憎劇ではあるが、これが路子みちこさんの心変わりの理由なのだろうか?


路子みちこさんはうつむいたままだった。俺はさらに登場人物の説明を読み進めた。そのとき、ある説明が目に入った。


ヘンリー国王の長子のリチャードをアンソニー・ホプキンズが演じているが、リチャードは同性愛者で、以前はフランス国王フィリップと恋仲だった。


俺は顔を上げると、室内を見回した。すると本棚の中に三島由紀夫の『仮面の告白』が並んでいるのに気づいた。まだ新しい本のようだ。同じく三島由紀夫の『禁色』や『肉体の学校』も並んでいた。


「あの・・・ひょっとして男性の同性愛に興味をお持ちですか?」と路子みちこさんに聞いてみた。すると路子みちこさんはまっ赤にした顔を上げ、俺を凝視した。


「ど、どうしてそうだと思うの?」


「私の女子高時代の友人にそういうのが好きな子がいて、三島由紀夫の『仮面の告白』を座右の書としていました(『五十年前のJKに転生?しちゃった・・・』、『「五十年前のJK」アフターストーリーズ』を参照)。・・・この『冬のライオン』という映画に同性愛者の王子が出て来るようで、それで興味を持って三島由紀夫の本を読まれたのではないですか?」


「あなたのお友だちにもそういう人がいるの?恥ずかしがってなかったの?」


「彼女は興味があると明言していましたよ」(俺に、だけど)


「それどころか私にもその手の小説の耽美さを力説してきました。ほかの人に公言はしていませんでしたが、まったく恥じていませんでしたよ」


「そうなの?恥ずかしいことではないの?」


「その手の小説や映画に興味があるのはやましいことでも何でもないです。まして、心が汚れたなどと思い悩むこともありません。もっとも心を許した同性の友人以外には・・・両親にも・・・話さない方が無難だと思いますが」


「そ、そうね。私自身が同性愛者というわけではないのだから、・・・ちょっと興味を持っただけだから、気に病む必要はないのね?」


「そうですよ。・・・ひょっとして、そのことを悩んで、田村さんとの結婚をやめようと考えられたのですか?」


「はい。・・・田村さんは素敵な男性ですので、私なんかふさわしくないのではないのかと思い悩んでいました」


田村さんが素敵な男性か。蓼喰ふ虫も・・・。いや、人のことだ、何も言うまい。


「今言ったように、悩む必要なんてみじんもありません。もし、田村さんとの結婚を望んでおられるなら、迷う必要はありませんよ」


「そう言っていただいて気が晴れたわ。もう迷いはしません」と路子みちこさんは宣言した。


登場人物


藤野美知子ふじのみちこ(俺) 主人公。秋花しゅうか女子短大英文学科二年生。

鈴山壮介すずやまそうすけ 鈴山電機の社長。

田村太郎たむらたろう 鈴山電機の研究開発部の係長。

宮永礼子みやながれいこ 鈴山電機の年配の秘書。

鈴山路子すずやまみちこ 鈴山社長の末娘。二十五歳。


書誌情報


河上徹太郎編/中原中也詩集(角川文庫、1968年12月10日初版)

三島由紀夫/仮面の告白(新潮文庫、1950年6月25日初版)

三島由紀夫/禁色(新潮文庫、1964年4月30日初版)

三島由紀夫/肉体の学校(集英社、1964年2月15日初版)


映画情報


ピーター・オトゥール主演/冬のライオン(1970年2月4日日本公開)


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