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四十五話 吉祥天(美知子の妖怪捕物帳・肆拾壱)

それから数日経った後、俺がその日の講義を終えて秋花しゅうか女子大学の正門を出ると、近くにスバル360が停車しているのに気づいた。


するとスバルの運転席からひとりの男性が出て来た。藍原探偵事務所の藍原さんだった。


「よっ、藤野さん、今暇かい?」と俺に声をかける藍原さん。


「これから食材の買い出しに出て、夕食を作るんですから暇じゃないですよ」


「ちょっとまた知恵を貸してほしいんだが・・・」


「時間のあるときなら協力しないでもありませんが・・・」と、今は時間がないので手伝えないということを暗に伝えたが、


「わかった。今日は話を聞くだけでいいから、助手席に乗ってくれないか?すぐに終わるから」と、退こうとしない藍原さんだった。


「これからどこかへ出かけるのですか?」


「いいや、車内で話を聞いてもらうだけだよ」


それなら三十分くらいで終わるだろうと思って、渋々とスバルの助手席に乗り込んだ。こんなところを級友たちに見られたくないので、あたりを確認しながらだ。


藍原さんもすぐに運転席に乗り込んで来た。そして鞄の中から何枚かの写真を取り出すと、俺に見せてきた。


二、三枚の写真は道路を歩いている女性を写したもので、高そうなブラウスやスカートを身に着けている上品そうな美人だった。


「これがターゲットだ。とある金持ちの人妻なんだが、浮気の疑いがあるということで俺に調査を依頼してきた」


「浮気調査ですか?尾行して、浮気の現場を撮影しようとしているのですか?」


「そういうことだ。だが、この人妻は毎回男と会うそぶりを見せず、工場街を歩いて小さな鉄工所に通っているんだ。この人妻が用があるとは思えないような、古びた汚い鉄工所なのに、週に二、三回は通っているんだぞ」


「そこに相手の男がいるとか?」


「その鉄工所の主人がこいつだ」と言って藍原さんはさらに二、三枚の写真を出した。作業着を着た短髪の人物が写っている。


「最初はこいつが浮気相手じゃないかと疑った。女の中には薄汚い野性的な男を好むやつもいるらしいからな」


「そうですか」と俺は答えたが、そんな性癖には共感できなかった。


「ところが調べたらこいつは女だったんだ。人妻と同い年の」


「・・・だとしたら、浮気じゃなく、昔の女友達にでも会って談笑しているだけなんじゃないですか?」


「あるいは女どうしでってことかもしれんぞ」


「同性愛ってことですか?」


「単に思いついただけだ。本気にするな」


「この人妻と鉄工所の主人の年齢は?」


「二人とも三十八歳。中学の同級生ということは調べ上げている」


「鉄工所には男の出入りはないのですか?」


「初老の工員が三人いるが、さすがに浮気相手には見えないな。ほかには鉄工所の主人の娘がひとりいて、年齢は二十歳で、工員ではなく音楽活動をしているようだ」


「この鉄工所を隠れ蓑にして、裏口から出て別の場所で浮気をしている可能性はないのですか?」


「俺ひとりで裏口までは見張れないが、鉄工所にいるのは毎回三十分程度だ。別の場所に移動して浮気をする時間はないように思う」


「三十分?鉄工所内で男と会っていたとしても、逢い引きをするには短すぎる時間じゃないですか!・・・私は今まで逢い引きなんてしたことがありませんけど」


「中に入って、さっと済ませて、すぐに出てくる可能性がないわけじゃないが、俺も短すぎる時間だと思う」・・・何を済ませるんだろう?


「だから逢い引きじゃないですよ。暇つぶしに友人に会いに行って、ちょっとだけ話して帰ってるだけなんじゃないですか?・・・ひょっとして、何か金品を置いているという素振りはありませんか」


「恐喝されて金を取られているって意味か?しかし人妻はいつもにこやかな顔をして鉄工所に入っている。脅されているようには見えないな」


「だったら、浮気調査を依頼した夫に、『旧友の女性とお茶しているだけで、浮気の事実はありませんでした』と報告すればいいだけじゃないですか」


「そうなんだが、一応確認しないと・・・」と言葉を濁す藍原さん。


「どうやって確認するんですか?」


「本人に直接聞くと調査していることがばれるから、娘に話を聞きたいんだが・・・」


「だが?」


「俺みたいな男が路上で若い娘に突然話しかけると、相手に警戒されるだろ?」


「そうですね」と俺は言い、失礼な言い方だと気づいてすぐに「すみません」と謝った。


「俺のことは気にしなくていい」となぜかにこやかな笑みを浮かべる藍原さん。


「で、どうやって確認するんですか?」


「同じくらいの年齢の若い女性が話しかければ、警戒されずに応じてくれると思う」


「そうですね。・・・って、若い女性って誰のことですか?」


「俺の知り合いの若い女性と言えば君しかいないだろう」と藍原さんは言って、俺にウインクした。背筋に悪寒が走る。


「それで私を呼んだのですね?知恵を借りるんじゃなく、思いっきり助手として働かせようとしてるじゃないですか!」


「ま、まあ、またバイト代を弾むから頼むよ。藤野さんが引き受けてくれなければ、一組の夫婦が崩壊するかもしれないんだ」


「・・・わかりました。娘さんに話しかけてみますので、その人妻と友人と娘さんの名前を教えていただけますか?名前も知らない人に話しかけられたら、さすがに警戒するでしょう」


「わかった。これを見てくれ」と言って藍原さんは俺にノートを見せた。そこに関係者の名前が書いてあった。


「ターゲット:米原亜希子よねはらあきこ、三十八歳。

 鉄工所の主人:吉川珠子よしかわたまこ、三十八歳。亜希子と同じ中学の出身。独身。

 鉄工所の娘::吉川祥子よしかわさちこ、二十歳。シンガーソングライターとして売り出し中。」


娘さんの名は黒田先輩と同じ「祥子」と書くが、「さちこ」と読むようだ。俺がノートを読んでいる間に藍原さんはスバルのエンジンをかけ、発車させていた。


「珠子さんは独身と書いてありますが、夫はいないのですか?」


「珠子は十七歳のときに結婚したが(作者註:昭和四十五年当時は女性は十六歳以上で結婚できた)、浪費癖があった夫が借金を残したまま行方不明になったので、何年かしてから裁判を起こして離婚した。娘の祥子は夫が失踪した後に生まれたようだ」


「なるほど。・・・亜希子さんには子どもはいないのですか?」


「二十二歳のときに今の夫と結婚したが、子どもには恵まれなかったようだ」そう答えて藍原は車を停めた。いつのまにか問題の鉄工所の前に着いていた。


「娘が来たら合図するから、さりげなく話しかけてくれ。さりげなくだぞ」と念を押す藍原さん。そう言われても、どう話しかけていいのやら?


三十分くらい待っていると、ギターケースを背負ったジーンズ姿の若い女性が歩いてきた。きれいな顔だちをしている。


「あれが娘の祥子だ。行ってくれ」と藍原さんに指示されて、俺は仕方なく車から出た。そしてぶらぶらと目的がなさそうに鉄工所の前まで歩いて行った。


祥子さんには気づいていないふりをして鉄工所を見上げる。主人の珠子さんや工員たちは奥の方にいるのか、作業する音は聞こえてくるが、彼らの姿は表からは見えなかった。


祥子さんは訝しげに俺に近づいて来て、「あの・・・」と声をかけてきた。


俺はその言葉で初めて祥子さんの存在に気づいたふりをして、


「あ、ごめんなさい。あなたはこの鉄工所の方ですか?」と聞いてみた。


「そうですけど、母にご用ですか?すぐに呼びますけど」と言う祥子さん。


「いえ、私は亜希子さんの知り合いのものですが、あなたは米原亜希子さんをご存知ですか?」


「はい。母の友だちで、最近はよく来られてます」


「そうでしたか。すみません、以前に亜希子さんがこの鉄工所に入って行くのを見たことがあって、興味を持っただけです。すぐに帰ります。失礼しました」


そう言って俺は頭を下げたが、すぐに頭を上げて祥子さんの顔を見た。


「あなたは音楽をしているのですね?」


「はい、森山良子さんみたいになりたくて」


「そうですか。みなさん応援してくれているんでしょうね」


「はい。母の鉄工所の手伝いをしないので申し訳ないのですが、みんな応援してくれています」


「亜希子さんも?」


「はい。レコードを出したら必ず買うとまで仰られているわ」


「そのときには私も買いますから、がんばってくださいね」そう言って俺は会釈をすると、祥子さんに背を向けた。


そのままぶらぶらと歩き去るふりをしながら、祥子さんが鉄工所の中に入って姿が見えなくなったことを確認すると、急いで藍原さんのスバルに乗り込んだ。


「どうだった?」


「その前に、亜希子さんの夫が浮気を疑ったのはいつ頃からですか?」


「二、三か月ぐらい前だ。買い物をするわけではないのに毎日のように外出していることにたまたま気づいて、疑い出したらしい」


「亜希子さんの写真をもう一度見せてもらえますか?」


「ああ」と言って俺に写真を渡す藍原さん。


「・・・藍原さんは祥子さんを近くから見たことがありますか?」


「いや、俺が調査していることがばれないよう、近くには寄っていない。亜希子にも珠子にもだ。祥子以外をこうして遠くから写真を撮っただけだ」


「そうですか・・・」


「何が言いたいんだ?」


「いえ、私の想像ですけど、亜希子さんは結婚して十六年くらい経過したのに子どもに恵まれなかった。数か月前にたまたま中学時代の友人だった珠子さんと、その娘の祥子さんに会い、祥子さんと話しているうちに自分の娘のように思うようになって、家庭が寂しかった亜希子さんがしょっちゅう珠子さんの家に遊びに来るようになったのです」


「なるほど。しかし寂しいからと言ってこうしょっちゅう来るのかな?俺が調べた限りでは週に二、三回は会いに来ているぞ。本人はともかく、仕事をしている珠子にとってはさすがにいい迷惑なんじゃないか?」


「普通はそうですが、珠子さんは借金を背負わされてこの二十年間ひとりで鉄工所を切り盛りしてきたんですよね?亜希子さんが会いに来るたびに幾ばくかのお金を置いていたとしたら、嫌とは言えないどころか、歓迎するかもしれませんよ」


「しかし、さっき言ったように脅されているようには見えなかったんだが?」


「自分で進んで置いていったのかもしれません」


「そんな物好きなことをするか?」


「祥子さんが亜希子さんの実の娘なら、養育費として、あるいは娘の音楽活動を応援するためにお金を渡しているのかもしれません」


「祥子が亜希子の実の娘だと!?」驚きの声を上げる藍原さん。


「さっき祥子さんの顔を間近で見たんですが、亜希子さんに似ているように思ったのです。亜希子さんと珠子さんの顔はこの写真でしか見たことありませんが、珠子さんには似てないように思えて。・・・もっとも親子鑑定をしないと、真実はわかりませんが」


「だとしたらどういうことだ?」


「十七歳のときに妊娠したのは亜希子さんの方でした。そのときに結婚してなかったのなら、男に捨てられたのでしょうね。中絶するには手遅れになっていて、仕方なく出産した。そして亜希子さんの両親は、出産の事実を隠して赤ちゃんを里子に出そうとしたのでしょう。そのとき、夫に逃げられ借金を背負わされた珠子さんが、養育費をもらえばその子を実の娘として大切に育てると申し出たのかもしれません」


「そして珠子は祥子を実子として出生届を出したのか」


「夫の子どもを産んでもおかしくない時期だったのでしょう。それから二十年経ち、子どもがいない亜希子さんは自分が産んだ子どものことを思い出し、珠子さんに会わせてほしいと頼みに行った。珠子さんは、亜希子さんが実母であることを隠すのなら、また、祥子さんの夢を叶えさせるために多少の援助をしてくれるのなら、という条件で面会を許したのかもしれません」


子を思う母の心は、鬼子母神きしもじんの寓話で語られている通りだ。そして鬼子母神きしもじんの娘のひとりに美と音楽の女神である吉祥天がいる。亜希子さんと祥子さんの関係はこの二柱の神に似ているように思えた。


「・・・この三人の関係を壊さないためにも、二人が親子かもしれないという仮説は検証しない方が良さそうだな。藤野さんがさっき言った、子どもがいない寂しさから友人とその娘に会いに行っているだけだと、依頼人には説明しておくよ」と藍原さんが言った。


登場人物


藤野美知子ふじのみちこ(俺) 主人公。秋花しゅうか女子短大英文学科二年生。

藍原清佐あいはらきよすけ 藍原探偵事務所を経営する探偵。

米原亜希子よねはらあきこ 三十八歳の人妻。

吉川珠子よしかわたまこ 亜希子と同じ中学の出身。

吉川祥子よしかわさちこ 珠子の娘、二十歳。無職。音楽活動中。


レコード情報


森山良子/この広い野原いっぱい(1967年1月25日発売)

森山良子/恋はみずいろ(1967年8月25日発売)

森山良子/今日の日はさようなら(1967年8月25日発売)

森山良子/禁じられた恋(1969年3月25日発売)


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