四十四話 べとべとさん(美知子の妖怪捕物帳・肆拾)
詳しく話を聞かせてくれと富士子さんに頼むと、俺の顔を見て話し始めた。
「私は電車通勤をしていまして、最寄りの駅から自宅に帰る途中、細い路地があって、近道なのでよくそこを通ります。するとその路地で決まって私の足音に続いて誰かの足音が聞こえてくるのです」
「誰かの足音?・・・そのとき後ろを振り返りましたか?」
「はい、何度も。でも、同じ路地を通る人がひとりもいない場合がほとんどでした。物陰に身を隠しているような人もいないようでした」
「ほとんどと言われましたね?誰かが後ろを歩いていることがあったのですか?」
「はい、中年女性とか、子どもとか、お年寄りとか、たまに同じ路地を歩いていることがありました。でも、その人たちの足音は、私が聞いた足音とはまったく違っているんです」
「誰も見えないときに、走って逃げたことはありますか?」
「はい、何度か。でもその足音は、私が走り出すのに合わせて同じように走るのです」
「足音が聞こえるのはその路地の中だけですか?自宅まで足音が追ってきますか?」
「いえ、足音が聞こえるのは長さ二十メートルぐらいのその路地の中だけです」
「路地の両側にはなにがありますか?」
「普通の住宅の塀が立っています。途中に何か所か、塀の中に入れる木戸がありますが、その木戸が開いていたことはありません」
「足音が追ってくるのは帰宅時だけですか?朝、出社する際にその路地で同じような足音は聞こえますか?」
「いえ、朝はパパと一緒に車で出勤するので、その路地は通りません。パパは夜にはいろいろなつき合いがあるので、私ひとりで帰宅することが多く、そのときに路地を通ると足音が聞こえるのです」
「ひと月前から足音が聞こえるようになったと言われましたよね?それ以前はその路地を通っていなかったのですか」
「いいえ、通ってました。でもひと月前まではそんな足音は聞こえませんでした」
「そうですか。・・・これは現地に行って調べる必要がありますね」と俺は言った。
富士子さんが父親(山瀬総務部長)に早退していいかと尋ねると、もちろん承諾してくれた。さらに華角商事の正門前にタクシーを呼んでくれ、富士子さんと一緒に乗り込んだ。タクシーで帰るなんて、なんとぜいたくなことか。
「私、姿の見えない足音について、ひょっとしたらお化けの仕業じゃないかと考えて図書館で調べてみたんです」と富士子さんが言った。
「奈良県の伝承で『べとべとさん』という妖怪がいるそうです」
「べとべとさん?」
「はい。夜道をひとりで歩いていると、べとべとさんが後からつけてくる足音が聞こえるそうです」
「そのべとべとさんという妖怪は、姿が見えないのですか?」
「はい、足音だけです。ただ、・・・あの、水木しげるって人ご存知ですか?」
「はい。『ゲゲゲの鬼太郎』の作者ですね?」
「はい。その方が『妖怪画集』という本を出しておられ、その中に『べとべとさん』の絵もあるのですが、大きな丸い頭に大きな口が開いていて、二本の足で歩いて来るものと描かれていました」
「その妖怪について来られると、何か災いが起きるのですか?」
「いいえ、何も」
「ただ追ってくるだけなんですね」
「はい。道端によけて『べとべとさん、お先にお越し』と言うと、足音が聞こえなくなるそうです」
「足音が聞こえたときにそう言ってみましたか?」
「はい。・・・でも足音は消えませんでした」と富士子さんが言った。
「あ、運転手さん、この辺で停めてください」
タクシーを富士子さんの自宅近くの路上で停め、二人で降りた。なお、富士子さんはタクシー代の領収書を書いてもらっていた。経費で落とすつもりなのかな?
「こっちです」と言って富士子さんが車通りから横道に入った。俺もすぐに続く。
その横道は普通のアスファルトで舗装された道で、何も怪しいところはなかった。車や通行人と時おりすれ違う。
そのうち、小さな十字路に差し掛かった。十字路と言っても交差する道が細い路地だった。そして妙なことに、十字路の四隅に高さ一メートルぐらいの石柱が立っていた。
「問題の路地はこちらです」と富士子さんが左手を指さす。
その路地は、登り坂になっている狭い道で、しかも路面がアスファルトやコンクリートではなく、広めの鉄板が敷き詰められている妙な小道だった。鉄板の端には持ち上げるときに金具を引っかけるための小孔が開いている。そして路地の両側は住宅のブロック塀が並んでいた。
「この坂道を毎日通っているのですか?」と聞く。
「はい。先ほどの車通りは同じく登り坂になっていますが、緩やかにカーブしているので、あの通りを登って行くと少し遠回りになるのです。この道は人通りが少なくてちょっと怖いのですが、一番の近道なんです」と富士子さんが答えた。
俺はその場で周囲を見回した。誰か妙な人物がいないかと警戒したためだが、不審そうな人物は見当たらなかった。
「じゃあ、この道を進みましょう」と俺は富士子さんを誘った。
二人並んで路地を登り始める。その路地の幅は二メートル程度で、二人で並んで歩くとほとんど隙間がなくなった。
俺はゴム底の靴を履いていたのでほとんど足音がしなかったが、ハイヒールを履いている富士子さんの鉄板を踏む足音がカツカツと響いた。
「けっこう登り坂ですね。雨の日なんか、足がすべりそうで怖いですね」
「雨の日や、帰宅時間が遅くなったときは自宅前までタクシーで帰るんです」と富士子さん。さすが一流商事の部長のお嬢様だ。
先ほど途中でタクシーを降りたのは、もちろんこの路地を俺に見せるためで、普段はあんなところで降車しないのだろう。
路地を少し歩いてみたが、富士子さんの靴音が聞こえるものの、それ以外に足音らしき音は聞こえなかった。俺の足音もほとんど聞こえない。
「今日は跡をつける足音は聞こえないようですね?」
「いえ、この路地を半分以上歩いたあたりから聞こえてくるのです」
「そうなのですか?じゃあ、もう少し歩いてみましょう」
その路地の坂は見た目より勾配があった。しかし東京は、いや、関東平野は、平地のようでけっこう起伏が多い。街中で坂道を上り下りすることは珍しくない。
しばらく歩いていたら突然富士子さんが、
「ほら、足音が聞こえてきました」と俺に言った。
「え?」跡を追う足音に気づかなかったので俺は聞き返した。
「足音が聞こえましたか?・・・今は聞こえませんが」
「私の足音に合わせてその足音が聞こえてくるんです」
そう言って富士子さんが一歩踏み出すと、カツというヒールの音とほぼ重なってクァンという音が聞こえるのに気づいた。
俺も一歩踏み出してみる。しかし俺の足音はもともとほとんど聞こえないので、跡を追うような足音は聞こえなかった。
「何歩か歩いてみてください」と俺は富士子さんに言った。
「はい」と言って歩き出す富士子さん。
カツカツカツという足音にクァンクァンクァンという音が重なる。そして歩くうちにその重なりが少しずつずれていくように感じた。
「ほら、私の足音に合わせるように誰かの足音が聞こえます!」と叫ぶ富士子さん。
「少し早足で歩いて!」と俺が頼むと、富士子さんが歩く速度を上げた。
カツとクァンの音が少しずつずれていくとともに、クァンの音が弱まっていく。そして坂道の一番上まで達すると、俺の方を振り向いて言った。
「どうでしょうか?足音が聞こえましたでしょうか?」
俺は足元に落ちている石ころを拾うと、路面を覆っている鉄板を叩いた。カンという音がして、ほぼ同時にクァンという音がわずかに響いた。
「なるほど、わかりました」と俺は言いながら富士子さんに近づいた。
「これは足音ではなく反響音なのです」
「反響音?」
「はい。この鉄板の下は暗渠になっているのです」
「あんきょ?あんきょとは何ですか?」
「この鉄板の下には水路があり、それを鉄板で塞いで路地にしているのです」
「水路で私の足音が反射して、あの足音が聞こえたのですか?」
「はい、そうです。ただしその足音は、この暗渠でのみ聞こえる特殊な反響音だったのです」と俺は説明を始めた。
「暗渠の上をコンクリートやアスファルトで覆ってしまうと、ほとんど足音がせず、反響音は生じません。ここは鉄板で覆われているだけだったので、富士子さんの足音が響き、それが水路の底に反射して聞こえたのです」
「その説明には疑問がありますわ。まず第一に、水路には水が流れていて、音の反射があまりしないのではという疑問。仮に音が反射したとしても、せいぜい数十センチ以内の短い距離を反射してきたのであれば、ほとんど時間のずれがなく、他人の足音のようには聞こえなかったのではという疑問、そしてこの路地は下から上まで鉄板が敷かれていますが、他人の足音のように聞こえるのは、路地の中程だけだという疑問です」
「それらの点に疑問をもたれるとは、富士子さんは賢い方ですね。では順番に説明しましょう。まず水路の底に水があるのではという疑問。それはここが坂道になっていることから説明できます。この鉄板の下の水路がもともと天然の小川なのか、人工的な水路なのかはわかりませんが、坂になっているので水が貯まらずに下に流れてしまうので、大雨の日でもなければ底のコンクリート面がむき出しになっているはずです。鉄板を剥がして確かめることはできませんが、水路の底で足音が反射してもおかしくないと思います」
「なるほど・・・」
「二点目の、反響音なら時間差がなく、他人の足音のようには聞こえなかったのではないかという疑問ですが、それもこの路地が坂道になっていることから説明できます。下を見てください」と俺は言って路地が始まっている十字路を指さした。
「あの十字路には四隅に石柱が立っています。あれは昔の橋の欄干の支柱の跡ではないかと思います。要するに横切っている道は水路の上にかけられた橋だったということですね。富士子さんの足音は水路の底で反射しますが、坂になっているため坂の下に向かって反射します。橋の欄干があったところの下には橋の側面があり、そこに反射した足音が再度反射し、富士子さんの方に戻っていきます。つまり多少の距離がありますので、〇・一秒程度の時間がかかり、富士子さんの足音と微妙にずれて聞こえたのです。もっとも人によっては気づかない程度の音のずれでしょうが」
「なるほど。多少の説得力はありますね」
「そして第三の疑問、足音が路地の中間あたりでしか聞こえない理由ですが、坂の下の方を歩いているときは足音と反射音との時間差がほとんど生じず、他人の足音のようには認識できなかったのです。また、坂の上の方だと遠くなり過ぎて反響音が弱まり、足音が聞こえなくなったのです」
「そうなのですね。結局、私の足音が若干ずれて反響してきたのを、私は誰かがつけてくる足音だと勘違いしたわけですね」
「実際に跡をつけてくる人がいないのなら、そう考えるしかないと思います」
「わかりました、ひと月前から不安を感じていたのですが、気にする必要はないとのことで安心しました」
「ただ、富士子さんはおきれいな方ですから、変質者が跡をつけてくる危険はあります。だから、今まで通り周囲には気を配られた方が良いと思います」
「わかりました。ありがとうございました」
「ところで足音が聞こえるようになったのはひと月前からということでしたが、ひと月前に何か変わったことはありませんでしたか?」
「実はひと月前に靴を買い替えて、それから自分の足音がよく響くようになったのです。それで足音の反響音が聞こえるようになったのだと思います」富士子さんはそう言って俺に微笑んだ。
この後、俺は富士子さんを近くの家まで送った。すると玄関前で富士子さんが俺を振り返り、「父からこの封筒を渡すよう頼まれていました」と言い、鞄の中から取り出した封筒を俺に差し出した。
「また謝礼かな?」と思ってその封筒を受け取り、富士子さんに別れを告げて帰路についた。
途中、その封筒の中身を調べてみると、謝礼の一万円札とともに手紙が入っていた。その手紙には、
「本日は有意義なお話を聞かせてくれてありがとう。藤野さんなら娘の心配事も解決してくれたことと信じているので、ささやかながら謝礼金を同封した。ご笑納いただきたい。また、先日の秘書募集の件だが、藤野さんが適任だと思われたものの、取引先の口利きで別の人に決まった。残念だが了承してほしい」と書かれていた。
秘書面接は落ちたのか、と俺は落胆したが、手紙にはまだ続きがあった。
「しかし、藤野さんは余人に替え難い人材だ。そこでどうだろう。我が社の非常勤相談役として今後も当社の役に立っていただけないだろうか・・・」
非常勤ってことは正社員ではなく、時給のパートタイマーのようなものじゃないだろうか。どうしたものか?と俺は腕組みをして考えた。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
山瀬富士子 山瀬総務部長の娘。秘書も務める。
山瀬市郎 華角商事の総務部長。
書誌情報
水木しげる/墓場の鬼太郎(週刊少年マガジン、1965年8月1日号〜1967年10月8日号連載)
水木しげる/ゲゲゲの鬼太郎(週刊少年マガジン、1967年11月12日号〜1969年3月23日号連載)
水木しげる/水木しげる妖怪画集(朝日ソノラマ、1970年1月27日初版)




