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四十三話 再び総合商社へ

短大の掲示板に就職指導部からの呼出が貼ってあったので、俺はすぐに相良さんを訪ねた。


「なにかご用でしょうか?」


「ええ。先日面接を受けた華角商事の総務部長の山瀬さんから電話があったの。もし良かったら、また会社を訪問してもらえないかだって。交通費は出すそうよ」


「それはかまいませんが・・・」


秘書としての採用の可否は手紙で送って来るとのことだったが、わざわざ呼び出されて何の用だろう?と訝しんだ。


そう言えばあれから何日か経っているけど、未だに採用通知(または不採用通知)は届いていない。けっこう時間がかかるんだな。


「じゃあ、今から先方に電話をかけてみるわ」と言って相良さんが受話器を取った。いつもお手数をかけさせて恐縮する。


相良さんはしばらく電話に向かって話していたが、受話器の送話器に手を当てると、「今からでも大丈夫?」と俺に聞いた。


「はい。すぐに伺いますと伝えてください」


俺の言葉を伝える相良さん。受話器を下ろすと俺に、「いい結果だといいわね」と言った。俺は嫌な予感しかしなかったが。


大学を出て、電車を乗り継ぎ、先日訪問した華角商事に入った。受付に訪問目的を伝えると、六階の総務部長室に直接行くように言われた。


エレベーターで上がり、目的の部屋の前に着く。ノックをすると、「どうぞ」と中から返事があった。


「失礼します。秋花しゅうか女子短大の藤野です」


「ああ、よく来てくれた。まずソファに腰かけたまえ」


言われるままに座ると、すぐに秘書らしき若い女性がお茶を淹れてくれた。その間に山瀬部長はどこかに電話をかけていた。


そして俺の向かいのソファに座ると、


「先日は、藍原探偵事務所に行ってもらって悪かったね。感謝するよ。君はあの探偵と知り合いじゃなかったんだね?何の用だったのかい?」と探るように聞いてきた。


「藍原さんとはあの後初めてお会いしました。初対面なのに、調べごとを手伝ってほしいと頼まれ、手伝ってきました」と俺は答えた。


「我が社についてあの探偵は君に何か話したのかな?」


「い、いえ、別に・・・」俺は冷や汗を流しながら言った。


藍原さんにはこの会社が将来収賄事件に関わることになると聞いたが、そんなことをおくびにも出すわけにいかなかった。


「用件は御社とはまったく関係ない、個人からの依頼に関することでした」


「それならいい」と山瀬部長が言ったときに、ドアがノックされて二人の中年男性が入って来た。二人はソファの近くに来て、俺を見つめてきた。


「営業部長の神原くんと、営業部対米課の木島課長だ」と二人を紹介する山瀬部長。


「はじめまして。秋花しゅうか女子短大の藤野美知子です」俺もあわてて立ち上がった。


「よろしく」と言って二人が名刺を出してきた。恭しく受け取るが、あいにく私は名刺を持っていない。


「まあ、みんな、ソファにかけたまえ」と山瀬部長が言って、俺と二人もソファに腰かけた。


「あの後君のことを調べさせてもらった。なぜ探偵なんかに君が求められたのか、その理由をね。そしたら君がけっこう有名な存在だということがわかった。なんでも先見の明があり、しかも不可解な謎を解いてくれそうじゃないか。君に助けられた人たちはとても感謝していたよ」と山瀬部長。


「そ、それほどでもありませんが」


「その噂を山瀬部長から聞いて、君と話をさせてほしいと頼んだんだ」と神原営業部長が言った。


「私にわかることでしょうか?あまり経済界の実情には詳しくありませんが」


「君の噂を聞く限り、そうとも思えないんだが、とりあえず木島くんの話を聞いてくれたまえ」


そう振られて木島課長が身を乗り出した。


「現在佐藤総理大臣が米国のニクソン大統領と沖縄返還の交渉を進めていることは知っているね?」


沖縄はまだアメリカが占領していたのか・・・と思いながら「はい」と答えた。


「で、ニクソン大統領は沖縄返還の見返りとして、繊維製品の輸出規制を求めてきたんだ。日本ではあまり表に出されていない話なんだけどね」


「そうですか」この頃から日米の貿易摩擦があったのか。


「簡単に経緯を説明すると、十五年前にベトナム戦争が始まったときに米国が繊維製品の関税引き下げを行った。そのため日本製の安価な綿製品の対米輸出が激増したんだが、米国繊維業界から反発が起きてね、そこで十三年前に日米綿製品協定が締結され、日本は対米綿製品の輸出を五年間自主規制することになったんだ」


(作者註:ベトナム戦争は昭和三十年〜昭和五十年、日米綿製品協定締結は昭和三十二年)


「はい・・・」と知っているような顔をする。


「で、二年前にニクソンが大統領選に出馬したとき、毛と化学繊維をも含めた対日繊維規制を選挙公約にしたんだ。そして大統領に当選し、去年から今年にかけて米国の商務長官が訪日して、日本政府に繊維製品輸出の自主規制を要請したんだが、結局交渉は決裂してしまった。こうなったら政府を抜きにして、経済界で対処するしかないんだが、君は今後どうなる、あるいはどうすればいいか、見解を教えてもらえないかな?」


いきなり難題を持ちかけてきた。ビジネスの経験のない女子短大生に、専門家とも言える総合商社のビジネスマンが日米の貿易摩擦について聞くなよ。


「そうですね。政府が対応しないのなら、民間の繊維業界で輸出の自主規制を決めるなどするしかないと思いますが、完全に輸出を停止するところまではいかないでしょうから、アメリカの繊維業界は規制が不十分だと反発し、公約に掲げていたニクソン大統領の顔を潰すことになりますね」


「そうなんだ」


「しかしなぜ政府は交渉に応じないのですか?」


「三年前のジョンソン大統領のときに米国繊維産業の実態調査が行われたんだが、日本からの繊維製品の輸入増加により打撃を受けたという明確な事実はなかった」


「じゃあ、日本が輸出を自粛する必要はないのでは?」と口をはさむ。


「日本に繊維製品の輸出規制をという選挙公約を掲げたのは、ニクソンが繊維産業が多い南部の票集めをしたかったからなんだ」


「それでまともに対応する必要はないと政府は判断されたのでしょうか・・・。でも、いずれまずいことになりそうですね」


「例えばどんなまずいことが起こると思う?」


「アメリカが日本の繊維製品の輸入規制を法制化するとか、関税を上げるとか、円高を誘導して米国で売れにくくするとか・・・ですかね」


「円高?円高とは何だね?」と食いつく木島課長。


「え?円高とは円とドルの交換比率が変わって、円の価値が高くなることですけど。・・・そうなると、日本国内での商品の値段が同じでも、アメリカでは値上がりすることになって、売れなくなります」


「何を言っているんだ!?一ドルは三百六十円で固定しているんだぞ!?」


「え?なぜ固定されているのですか?」


「第二次世界大戦で日本などの敗戦国はもちろん、ヨーロッパの戦勝国も大きな経済的損失を被った。唯一本土での戦争がなかった米国が、自由貿易を発展させ、世界経済を安定させるために、米ドルを金兌換紙幣きんだかんしへいにした。つまり米ドルの価値が金の価値と同等になったんだ。これによって米ドルが国際通貨になり、米ドルと各国の通貨の交換比率が固定されたんだ」


「でも、日本は経済復興を成し遂げ、世界経済は安定してきましたよね?それは相対的にアメリカの国力が下がり、ドルの信頼が低下したことになります」


「・・・そうだが?」


「アメリカドルが金と同じ価値を持つなら、各国は競ってドルを金に交換しますよね。これではアメリカの金が国外にどんどん流出してしまいます」


「つまり、米国が保有する金が減って、米国だけが損をする構造に変わってきたということか!」


「どういうことだね、木島くん!?」と神原営業部長が口をはさんだ。


「米国が金本位制をやめる可能性が高いということです。そうなるといずれ日本円も固定相場制から変動相場制に移ります!そうなると金に交換できなくなった米ドルが売られて価値が下がり、相対的に円の価値が上がることになります!そうなるとさらに米ドルが売られ、円の価値がさらに上がります!それを藤野さんは円高と表現されたのでしょう!」


「そうなると」を連発して木島課長が熱弁を振るった。


「ドルの価値が下がる?・・・ということは、保有しているドルを早急に円に交換しておかなければならないのか!?」


「そうです。さもないと多額の含み損を抱えることになります!」


「しかし本当に変動相場制になるのか!?」と山瀬部長も聞いてきた。


「藤野さんの話を聞いていたら、遠くない将来、そうなる可能性が高いと感じられました。さっそく役員会を開いて、対策を講じる必要があるでしょう!」


(作者註:翌年の昭和四十六年八月十五日(日本時間八月十六日)、ニクソン大統領が金とドルの交換を一時停止すると発表(第二次ニクソン・ショックまたはドル・ショックと呼ばれる)。日本国内でドルが売られ始め、日銀がドルを買い支えたが、八月二十七日に外貨準備高が百二十五億ドルに達したので、この日の閣議で翌日からの変動相場制への移行を決定した。しばらくは一ドル三百八円で固定していたが、昭和四十八年二月に変動相場制に完全に移行する)


「わかった!さっそく社長と会長にかけ合って、早めに役員会を開いてもらうことにしよう!ありがとう、藤野さん!」


そう言い残して二人は足早に総務部長室を出て行った。あっけにとられる俺と山瀬総務部長。


「・・・あ、ああ、藤野さん、貴重な意見をどうもありがとう」


「いえ、なんか、かき回したみたいですみません」と俺は頭を下げた。


「なに、二人があれほど慌てるということは、心当たりがあるからだろう。君が気にすることはない」


「はい、ありがとうございます。・・・ただ、繊維製品の輸出の話がうやむやになったみたいで、その点は大丈夫なのでしょうか?」


「政界が動かない以上、経済界で自主規制案を米国に呈示するしか方法はないだろう。それは二人ともわかっているよ」


「それならいいのですが」


「話は変わって、君が不可思議な謎を解いてくれるという噂の件をお願いしてもいいかな?」


山瀬部長はそう言ってから、「おい!」と声をかけた。すると、隣室からさっきお茶を淹れてくれた秘書の女性が現れた。


「なあに、パパ?」と聞く女性。


パパだって?まさかこの秘書は、山瀬部長の愛人なのだろうか?


「藤野さん、この子は私の娘だ」と紹介する山瀬部長。変な勘ぐりをしてすみません。


「山瀬富士子と申します」と秘書が頭を下げた。


背が高くすらっとした美人さんだ。スーツの下に白いブラウスを着ているが、仕立ての良さそうなブラウスだった。足には幅が細いハイヒールを履いている。


それにしても靴の幅が小さい。俺の足はまず入らないだろう。ヒールがあれほど高いと、体重がつま先にかかり過ぎるんじゃないだろうか?足の親指が狭いつま先に圧迫され、外反母趾になりそうだ。


そんなことを考えていると山瀬部長が話し始めたので、俺ははっとして我に返った。


「娘が何やら無気味な経験をしていると言っておってな、君にその謎を解いてもらいたいんだ」


「なんでしょうか?どうぞお話しください」


すると山瀬部長の娘は俺の向かいに腰を下ろした。


「よろしくお願いします」と頭を下げる富士子さん。


「こちらこそ、どうも」


「こんなことを相談すると、頭がおかしいんじゃないかと思われるかもしれませんが・・・」と富士子さんが話し出した。


「まじめな話として聞きますから、気になさらずにお話しください」と俺は言って安心させた。


「・・・実はひと月ほど前から、会社から帰宅する際に誰かに跡をつけられているようなんです」


「それは怖いですね。変質者だとしたら大変です。誰につけられているか、わかっているのですか?」


「いえ、一度も姿を見たことがありませんので、誰なのか、まったく見当がつきません」


「姿が見えないのに、跡を追われているとわかるのですか?」


「はい。誰かが私をつけてくる気配がするのです。でも、透明人間みたいに姿が見えなくて・・・」


「・・・詳しく状況を教えてもらえますか?」と俺は富士子さんに聞いた。


登場人物


藤野美知子ふじのみちこ(俺) 主人公。秋花しゅうか女子短大英文学科二年生。

相良須美子さがらすみこ 秋花しゅうか女子大学就職指導部の事務員。

山瀬市郎やませいちろう 華角商事の総務部長。

藍原清佐あいはらきよすけ 藍原探偵事務所を経営する探偵。

神原忠臣かんばらただおみ 華角商事の営業部長。

木島浩次きじまこうじ 華角商事の営業部対米課長。

山瀬富士子やませふじこ 山瀬総務部長の娘。秘書も務める。


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