四十二話 (番外編)手の骨(一色千代子の事件簿三十八)
私、一色千代子はいつものように明応大学医学部法医学教室に遊びに行った。そして法医学検査室に入ると、立花先生が黒い布の上に何かを並べているのに気づいた。
「立花先生、それは何ですか?」私は声をかけた。
「これは手の骨だよ」と答えられて私は驚いた。
「手の骨ですか?」
黒い布の上に広げられたものを見ると、細長く白く乾いた骨が十九本、小石のような骨が何個か置いてあるのに気づいた。そしてそれらは手の平の形に並べられていた。
「これが指の骨。先端から順に末節骨、中節骨、基節骨で構成されている。親指だけは中節骨がないんだ」
「指の下に並べられている細長い骨は?」
「それは中手骨。指の延長のように見えるけど、実際は手の甲の中にあるんだ。そして手首側に並べている八個の骨が手根骨と呼ばれる骨だよ」
「片手の骨だけですか?」
「そう。この左手の、それも手首より先の骨がどこの誰のものなのかの鑑定を警視庁から依頼されたんだ。・・・本当は矢島教授に依頼が来たんだけど、面倒だからって僕に押しつけられたんだ」
「それはお疲れ様です。ところで手だけでどこの誰なのか、わかるのですか?」
「その人の生前の手のレントゲン写真でもあれば、骨の形や大きさを比較することが可能だろうけど、なんせ明治時代に死亡した人でね、そういう比較資料はなさそうなんだ」
「明治時代!?」私は驚いた。だって今は昭和四十五年なのだから。
「驚くのは無理もないけれど、順を追って説明するよ。ある老人が最近亡くなったそうなんだが、その人の金庫からこの片手の骨が出てきたんだ」
「金庫ですか?」
「そう。金庫の開け方はその人しかわからなかったので、家族は誰も金庫の中身を知らなかった。その人の死後、残されたメモに金庫の開け方らしい暗号めいた言葉が残されていたので、家族はある探偵に依頼して解いてもらい、金庫を開けて手の骨を発見したんだ」
「暗号ですか?」
「君が興味を持つと思って、暗号をメモしておいたよ」そう言って立花先生は私に「紐已已忤已已忤已已振滅緧緧滅緧滅昧昧呻昧昧呻昧昧忤紐螾」と書かれたノートを見せてくれた。
「これが暗号ですか・・・」
「そう。そして金庫はイロハが刻まれたダイヤルを回して開けるようになっていたんだ。イロハ順に左回りにウまで、二十四文字刻まれている」
「なるほど。・・・こっちの暗号をよく見ると、部首に干支を示す漢字が含まれていますね。全体の文字数からおそらく三文字ずつに分けて、最初の一文字がダイヤルを回す方向、二文字目と三文字目がカナを示すのでしょうね」
「ひと目で気づくんだね。さすがだよ。その通り、干支は子を上に合わせて一文字目の干支で回す方向、二文字目と三文字目の間の方向でイを上に合わせたときのダイヤルのカナを示すらしいんだ」
「その探偵さんもなかなか頭が回りますね」と私は言ってから、間接的に自分を褒めてしまったことに気づいて、顔が熱くなった。
「そうだね。私立探偵なんだけど、三十代の男性で、若い女性を助手として連れて来ていたらしい」
「一度会ってみたいですね」
「で、金庫から手の骨と一緒に出てきた日記を読むと、この手の骨はその人の同郷の友人で、一緒に日露戦争に従軍した三人のうちの一人らしいということだよ」と立花先生は言って詳細を説明してくれた。
「なるほど。日露戦争で旅順攻略戦に一緒に参加し、三人のうちの誰かがその人を突き倒して助けてくれた直後に、三人はロシア軍の砲撃で誰かの左手首だけを残して亡くなられたのですか。・・・戦争って恐ろしいですね」
「まったくだよ」
「それはともかく、その手の骨は三人のうちの誰かのものだということですが、六十五年も前の人ですから、突き止めるのは難しそうですね」
「正にその通り」
「で、どうやって調べられるですか?」
「ひとつの方法は骨の血液型を調べて、三人の遺族の血液型と比較して、合致するか確認することなんだけど、おそらくABO式血液型しか検出できないだろうから、難しいだろうね」
「といいますと?」
「ABO式血液型だけだと血縁関係が矛盾しない場合が多くて、三人のうちからひとりを絞り込むことができない可能性が高いということだよ」
「血液型で判別できないなら、ほかに手はないのですか?」手の骨にかけたシャレではありません。
「亡くなった人の日記も資料として預かっているから、そこに手に関する記述がないか、手がかりを探すことぐらいしかできないだろうね。ただ、日記に書かれた文字が旧字体のカタカタ混じりの文章なんで、読みにくいんだ」
「なら、その日記の内容を私が現代文に書き写しておきましょうか?そのくらいのお手伝いならできます」
「そうかい?そうしてもらえると助かるよ。僕はその間に血液型を検査するから」
立花先生は解剖学的に並べた手の骨の写真を撮影すると、大きめの中手骨の一本を手に取った。
「この骨を削って粉にしたものを使って、解離試験で血液型を検査するんだ」(「五十年前のJKアフターストーリーズ」三十三話参照)
私は机の上に置かれていた日記を手に取ると、さっそく開いて中を読んだ。筆で書かれた旧字体の漢字のカナ混じりの文章で、確かに読みづらい。私は自分の鞄から新しいノートを取り出すと、一ページ目から順に書き写していった。
日記は明治三十七年に日本帝国陸軍第三軍に、日記の持ち主である柳ケ瀬大二郎氏とその友人の山田 肇氏、河野三郎氏、住野 正氏が配属された日から書き始められていた。
ちなみに第三軍とは、あの有名な乃木希典大将が司令官を務め、最終的に二〇三高地を占領して旅順要塞の攻略に成功した部隊である。
日本から大連の司令部に移動した四人は、最初は戦勝を信じて意気揚々としており、その様子を、故人を偲ぶように記されていた。
「開戦の前夜、私たちは興奮してなかなか眠れなかった。そこで四人で子ども時代の話で盛り上がった。
やがて私が裏山で崖から落ちて、足を骨折した話になった。私は足に添え木を包帯で巻いて固定し、長い木の枝を杖にして歩いた。友人たちはそれをかっこいいと思ったようで、みんなが杖を使い始め、時には杖を刀に見立てて打ち合ったりしていた。
『俺のような大けがをしたことがあるか?』と私が友人たちにけしかけたら、口々にけが自慢の話をするようになった。
山田はつき指をして左手の人差し指の先端が曲がったまま伸ばせなくなったことを自慢した。包帯で固定していたら伸ばせるようになったけど、今でも若干伸ばしにくいと言う。
それに対し河野は、転んで地面に手をついたところ、左手首が腫れて痛くなったことを話した。医者に行ったら手首を骨折していたとのことで、河野も手首に包帯をきつく巻いて固定していたらしい。
『足の骨折に比べたらたいしたことないな』と私が言ったら、今度は住野が『みんな昔のけがじゃあないか。俺は今、小指の節が腫れて痛いんだ』と言って左手を見せてきた。
ちょっとしか腫れてなかったので、『たいしたことないな。第一、それはけがじゃなくて、僂麻質斯じゃないか?』と住野はからかわれていた。たわいもない言い合いだったが、それが私たちの最後の楽しかった思い出である」
そこまでノートに記したときに立花先生が戻ってきた。
「手の骨の血液型はAB型だったよ。腐らせず、きれいに乾燥させた骨だったから、検査は難しくなかった」
「この三人のご遺族の血液型はわかるのですか?」
「既に警察に調べてもらっている。血液型がわからない遺族には献血所に行ってもらって、血液型を検査してもらった」
そう言って立花先生は家系図のようなものが書かれたノートの一ページを広げて見せてくれた。
「山田氏は、弟と妹が存命中で、血液型を教えてくれた。弟がB型、妹がО型だった」
「山田さんがAB型だとしたら、血縁関係に矛盾はありませんか?」
「両親がA型とB型で、ふたりともО遺伝子を持っているAО型とBО型だったとしたら、二人の間に生まれる子どもはA型、B型、О型、AB型のいずれの血液型にもなりうるんだ。だから手の骨が山田氏のものであっても矛盾はない」と立花先生が説明した。
「河野氏の血縁者は甥、つまり弟の子どもだけしかおらず、その人の血液型はО型だった。となるとその人の父親、つまり河野氏の弟はAО型、BО型、О型のいずれかであり、河野氏がAB型だとしたら両親の血液型は同じくAО型とBО型になり、こちらも血縁関係に矛盾はないんだ」
「住野さんの血縁者はどうですか?」
「住野氏と血がつながっている人は全員亡くなられていたが、養子に入って家を継いだ人から住野氏のへその緒の提供があった」
「へその緒?へその緒から血液型がわかるのですか?」
「胎児期にはへその緒の中に血液が流れていて、胎盤から胎児に酸素と栄養分を送っているんだ。その血液は胎児のものだよ。そしてへその緒の血液型はすでに調べてある。AB型だった」
「つまり住野さんと手の骨の血液型が同じだから、手の骨が住野さんのものである可能性があるわけですね」
「そういうこと。山田氏も河野氏もAB型の可能性が否定できないから、血液型からは手の骨が三人のうちの誰のものであっても矛盾がないという結論だよ」
「それは残念です。・・・ところで」
私はノートに書き写した『僂麻質斯』の文字を指さして、「この言葉は何ですか?」と立花先生に質問した。
「これはリウマチのことだね。明治時代にはリウマチが日本人にも知られていて、当時はそういう漢字で書いていたようだよ」と教えてくれた。
「柳ケ瀬さんの日記には、山田さんが左人差し指をつき指、河野さんが手を地面について左手首を骨折、住野さんが左小指のリウマチを指摘されていますが、手の骨にその痕跡はありますか?」
立花先生は私のノートを読み始めた。そして顔を上げると、
「つき指をして人差し指の末節が伸ばせなくなったとしたら、指を伸ばす腱が切れたか、腱がくっついている末節骨が骨折したかのいずれかなんだ。末節骨には骨折した痕跡はないね。骨折した骨が治癒すると、骨折部がくっつくんだけど、その際に骨折部を補強するように骨が若干隆起するんだ。でも、この手の人差し指の末節骨には骨折した痕跡はない。・・・腱が切れた場合は、骨に痕跡が残らないからわからない」と私に言った。
「手を地面についた場合、骨折するのは前腕の橈骨なんだ。ここにある手の骨には橈骨が含まれていないから、骨折の痕跡の有無はわからない」
「じゃあ、手の骨が山田さんか河野さんのものである可能性は、否定はできないけど肯定もできないということですね?」
「そうだね」
「住野さんは?」
「リウマチか何かで小指の節が痛いってことだね。・・・おや、これは!」立花先生が何かに気づいた。
「どうしたんですか?」
「見てごらん。小指の末節骨の近位端に骨棘が伸びている」
「骨棘?」
「末節骨は平べったいキノコの形に似ていて、先端は丸っこく、キノコの軸部分は下に向かって少しずつ広がっているんだ。その下端、つまり近位端から横にわずかだがトゲ状の骨棘が伸びている。これはへバーデン結節の痕跡じゃないか!」
「へバーデン結節とは?」
「へバーデン結節は指の末節骨と中節骨の間の関節が腫れて痛みを伴う病気なんだ。中年以上の男女、特に女性に多い病気だよ」
「でも、住野さんは二十歳くらいの男性ですよ?」
「若くても男性でも、起こらないことはないんだ。原因はわからないけど、栄養状態や労働環境などが影響しているんだろう。でも、若い人には珍しい病気であることは確かだよ」
「じゃあ、この手の骨は住野さんのものというわけですか?」
「百パーセント断定はできないけど、その可能性が高そうだね。血液型も明らかに一致していることだし」
「この後はどうされますか?」
「血液型の結果と骨棘の存在と日記の内容をまとめて、この手の骨は住野氏のものである可能性が高いと矢島教授に報告するよ。教授が警察にうまく言ってくれるだろう」
「そうですか。鑑定お疲れ様でした。手の骨だけでもいろいろなことがわかると、勉強になりました」
「いやいや、一色さんが日記を書きなおしてくれたおかげだよ。これからも時々協力してくれるかな?」
「もちろんです」と私は即答した。
登場人物
一色千代子 明応大学文学部二年生。藤野美知子の女子高時代の同級生。
立花一樹 明応大学医学部法医学教室の医師、法医学者。
矢島英介 明応大学医学部法医学教室の教授。
柳ケ瀬大二郎 柳ケ瀬家の亡くなった当主。
山田 肇 柳ケ瀬大二郎の幼なじみ。
河野三郎 柳ケ瀬大二郎の幼なじみ。
住野 正 柳ケ瀬大二郎の幼なじみ。




