四十一話 手の骨(美知子の妖怪捕物帳・参拾玖)
藍原さんが俺のノートのメモを頼りにダイヤルを回していき、最後のカナに合わせると、カチャリとかすかな音が聞こえた。そして藍原さんがレバーを引くと、重そうな金庫の扉がゆっくりと開いた。
「開きました」と柳ケ瀬家の人たちに告げる藍原さん。
「おおっ!」柳ケ瀬家の人たちが同時に歓喜の声を上げる。
金庫の中には何段かの引き出しが入っているのが見えたが、藍原さんはそれには触れずに後方に退いた。
「どうぞ、中をお確かめください」
すぐに一番年配の中年男性が金庫の前ににじり寄り、一番上の引き出しを引いた。他の柳ケ瀬家の人たちもその後に詰めかける。俺と藍原さんはその様子を後から見守っていた。
ただ、おばあさんだけが俺たちの方に近づいて来て、
「金庫の中身はともかく、これはお礼です」と言って藍原さんに封筒を差し出した。すぐにその封筒を背広の内ポケットにしまう藍原さん。
そのとき、中年男性が引き抜いた引き出しを畳の上に置いた。
「これは・・・ハガキ数枚と紙包みだ」とその男性。
ハガキには筆で宛名と用件が書かれているようだ。達筆なので、遠くからは内容がわからない。ただ、ハガキの表に切手が貼ってあるのが見えた。茶色一色刷りで、ハトのような模様があった。
さらに紙包みを開くと、中に数枚のお札が入っていた。水色のお札で、大黒様の図柄が印刷してある。額面は「壹圓(一円)」だった。
「戦前に使っていた一円札だね。懐かしい」とおばあさんが感慨深げに言った。
「古いお札なら古銭や切手を扱う専門店に持って行けば、高く売れるぞ」ともうひとりの中年男性が叫んだ。
しかし、戦前まで使っていたお札なら、まだ市中にたくさんあるだろうから、それほど高値にはならないだろうな、と俺は思った(作者註:美品の一円札なら令和七年時点で数千円〜数万円で販売している)。
「このハガキの切手も売れるかも!」
しかし、明治時代のハガキを保管している家もけっこうあるだろう。記念切手ならともかく、普通の使用済み切手ならそれほど高くないんじゃないか?(作者註:大正時代の一銭五厘のはと切手は令和七年時点で美品で五〜六百円で販売している)
「次の引き出しも開けなさいよ!」と中年女性が催促した。
年配の中年男性が二段目の引き出しを開けたが、中は空だった。がっかりする柳ケ瀬家の人たち。
三段目も同じく空だった。そしてやや高さがある四段目の引き出しを開けると、中に布で包まれた何かが入っていた。
「何が入っているの?」と中年女性。
年かさの中年男性が布を開くと、中から白い小石のようなものがぱらぱらと落ちて畳の上に広がった。長さが異なる細長いものが十数本と角が丸みを帯びた直方体のようなものが数個だ。
「こ、これは、手の骨だ!」叫ぶ中年男性。
他の柳ケ瀬家の人たちも驚いて畳の上に散らばった骨を見つめた。・・・完全に乾燥していて、肉片はついておらず、古い骨のようだった。
「ま、まさか、死体の一部!?」と中年女性。
「落ち着きなさい!片手がなくなっても死んだとは限らないよ!」とおばあさんが制した。
「誰の骨だい?亡くなった当主は片手がなかったのかい?」と聞く藍原さん。
「おやじにも、親戚にも片手がないやつはいないよ!」と、若い方の中年男性が叫んだ。
「じゃあ、誰の手よ!?」再び叫ぶ中年女性。
俺は手の骨が入っていたと聞いて、体から切り離された手首だけが動き回るというホラー小説(ハーヴィーの『五本指の怪物』やモーパッサンの『手』)を思い出した。
もちろんそんなことは起こるはずがない。柳ケ瀬家のおじいさんは、何らかの犯罪を隠すためにこの手首を金庫の中に閉まったのだろうか?
いやいや、と俺は首を横に振った。手首だけなら庭の片隅にでも埋めてしまえばいいだけだ。わざわざ後生大事に金庫の中にしまっておく必要はないだろう。
そのとき、「引き出しの中にノートのようなものが入っているぞ」と藍原さんが指摘した。
それを取り出す年配の中年男性。「・・・日記のようだな。おやじの字だ」
「何が書いてあるの?」と聞く中年女性。
「日露戦争に従軍した記録のようだ」ぱらぱらとめくっていく年配の中年男性。
「戦争の体験は悲惨なものが多い。だから生還した兵士も多くを語りたがらないが、まめだったおやじは帰国後こっそりと書き記したのだろう」ともう一人の中年男性。
「おやじは若いときに日露戦争に従軍した。同郷で同い年の山田 肇、河野三郎、住野 正と共に、陸軍の一兵卒として旅順攻略に派兵されたと書いてある。・・・一番最後にこの手の骨のことが書いてあるぞ!」
そう言って年配の中年男性は、日記の内容を読んでくれた。
「戦場は悲惨なものだった。ロシア軍の機関銃と大砲の弾が雨霰と降ってくる中、身を隠す物がほとんどない荒野を突撃させられた。兵士たちは次々と倒れ、死体の山ができていった。
それでも私たちは突撃を続けさせられた。四人のうち、私が先頭で、後に三人が続いた。
そのとき誰かが『危ない!』と叫んで私の背中を押した。私が地面に倒れ込むと同時にすぐ後方に砲弾が炸裂し、私は太ももにひどい傷を負った。それでもなんとか起き上がって後を振り向くと、山田、河野、住野の姿がなかった。
砲撃で三人の体が消し飛んだのだろう。ただ、私のすぐ足元に誰かの左手首が落ちていた。私の背を押してくれた三人のうちの誰かの手首だろうと思った。それが誰の手首なのか、『危ない!』と叫んだのは誰の声だったのか、そのときの私にはわからなかった。
大けがを負った私は野戦病院に送られ、その後帰国した。三人の行方はわからず、戦死と判断された。私は足元に落ちていた手首を布で包んで大切に持ち帰り、時々水で清めながら保管していたが、それでも皮膚と肉は朽ち果て、やがて骨だけになった。
私は傷が癒えると三人の実家を訪ね、位牌に手を合わせるとともに、残された家族に『彼のおかげで九死に一生を得た。その恩は生涯忘れない』と述べた。誰が私を助けてくれたのかわからなかったので、三人の家で同じことを告げて感謝したのである。
遺族は悲しみながらも友人の立派な行為に感動してくれた。ただ、この手が誰の手かわからなかったので、遺族に返すことはできなかった。いつの日かこの手の持ち主を調べあげ、遺骨を遺族に返しに行きたいと思っている」
年配の中年男性が金庫に入っていたハガキの差出人を確認すると、いずれも上記の三人の遺族からのものだとわかった。
「お礼の言葉が綴られている。よほど感激されたんだな」
そのとき、「スケキヨさん」とおばあさんが藍原さんの方を向いた。
「ご迷惑かもしれませんが、金庫を開けてもらったついでに主人の遺志を汲んでこの手の骨が三人のうちの誰のものか調べてもらえないでしょうか?」
困惑する藍原さん。俺はそのとき布の上に骨を並べていたが、藍原さんは俺の方を向いて「どう思う?」と聞いてきた。
「そうですね。手の骨の鑑定は私たちには無理ですから、知り合いの法医学の先生にでも頼んでみるしかないですね。ただ、専門家でも誰の骨かわからない可能性が高いと思います」と俺は答えた。
「どうしてだ?」
「この手の骨を、三人の生前の手の骨と比較しないと誰のものか突き止められないからです」
「生前の手の骨?・・・どうやって?」
「生前に手のレントゲン写真を撮ってあれば、形を比較して同一人物の手か判定することができるかもしれません。でも、日露戦争って、確か明治・・・」
「日露戦争は明治三十七、八年だ」と藍原さんが言った。
「既に医療用のレントゲン装置があったのかもしれんが(註一参照)、一般の病院に普及するのはもっと後年だろうな。まして、この三人が三人とも日露戦争前に手のレントゲン写真を撮った事実はまずないだろうし、当時のレントゲン写真が今日まで残っている可能性も低い」
「そうでしょうね。だから骨の形で誰の骨か特定することはまず不可能でしょう」
「何か検査してわかることはないのか?」
「骨から血液型を検査することが可能かもしれません」と、俺は以前に一色から聞いたことを思い出して言った。
「三人の血液型はわかりませんが、血のつながった遺族がいれば、親子鑑定の原理を応用して三人の血液型を推定することが可能かもしれません。ただ、骨と同じ血液型の人が二人以上いたら、どの人が手の持ち主かはわからないでしょうね」
「つまり、お手上げってことか?」
「はい。ただ、気になることがあります」
「なんだ?」
「この中で戦地に従軍した方はいらっしゃいますか?」と俺はその場にいた全員に聞いた。
「私は大東亜戦争で陸軍兵として中国内陸に行った」と年配の中年男性が答えた。
「大砲で砲撃された経験はありますか?」
「ああ。私が派遣されたところは激戦地ではなかったが、それでも何度か大砲の弾が近くに落ちてきたことがある」
「私は戦争映画でしか観たことありませんが、兵士の近くに砲弾が落ちてきたら、その兵士の体は粉々にはならずに吹き飛ばされますね。あれは本当なのでしょうか?」
「大砲の弾は榴弾、もしくは炸裂弾と言って、中に火薬が詰められていて、着弾すると爆発するんだ。兵士の近くに着弾したら、爆風で吹き飛ばされると同時に炸裂した砲弾の金属片が体に突き刺さる。それで死亡することが多いんだ」
「恐ろしいものですね。では、体が木っ端みじんになることはあるのでしょうか?」
「砲弾が体に直撃すればありうるだろう」
「その周囲にいた人も大けがをするでしょうね?」
「そうだろう」
「着弾点のすぐそばの地面に伏せれば大けがを負わなくてすむでしょうか?」
「どうだろう?・・・だが、同郷の友人に背を押されて転倒し、その友人たちに砲弾が直撃したとすると、至近距離だから両足が吹き飛ぶくらいの大けがになりかねないな。・・・君は何が言いたいのかね?」と年配の中年男性が俺に尋ねた。
「いえ、ご当主は友人に背を押されて倒れ、一命を取り留めました。ただ、地面に伏したのではなく、たまたま地面の凹みのようなところに落ちたので、爆風で片足をけがされただけですんだのではないだろうかと思っただけです」
「・・・そうかもしれないな」
「結局手の持ち主はわからないのかい?じゃあ、この手の骨はどうしたらいいんだね?」とおばあさんが聞いた。
「警察に届け出れば、警察の方で身元を調べるでしょう。身元がわかれば遺族が、わからなければ行政が引き取ってくれるでしょう」
「警察に咎められることはないか?」と年配の中年男性が聞いた。
「今日まで手の骨の存在は知らなかったと、発見の経緯を説明すれば納得してくれますよ、多分。そのことは藍原さんが証言してくれるでしょう」
「そうか、わかった。そうすることにしよう。今日はご苦労だった」と俺と藍原さんにねぎらいの言葉をかけたので、俺たちは会釈をして柳ケ瀬家を後にした。
帰りに俺は藍原さんに誘われて喫茶店に入った。
「今日はご苦労だった。感謝するよ。君への謝礼だが・・・」と藍原さんは言って、柳ケ瀬家のおばあさんからもらった封筒を取り出すと、中から一万円札を抜いて俺に差し出した。
「こんなにもらっていいのですか?」
「君がいなければ一銭ももらえないところだった。遠慮なく持って帰ってくれ」
「はい。・・・ありがとうございます」封筒の中には一体いくら入っていたのだろう?
「ところで柳ケ瀬家のじいさんが戦場で窪地に落ちたとか指摘していたけど、なんでそこにこだわったんだ?」
「いえ、おじいさんはほんとうに友人に背中を押されて倒れたのかな、と思いまして」
「なぜそこに疑問を持ったんだ?」
「友人が『危ない!』と叫んでおじいさんの背中を押したということですが、大砲の弾が飛んでくるのが友人たちには見えたのでしょうか?」
「・・・上から急に落ちてくるから、着弾するまで気づかないのが普通だろう」
「おじいさんはたまたま窪地の端につまずいて倒れ、それを見た友人が『危ないぞ』と言っただけかもしれません。その直後に砲弾が直撃し、おじいさんが起き上がったときに友人たちの姿はなく、手首だけが落ちていたので、誰かが自分を押して助けてくれたと思い込んだのかもしれません」
「その可能性はなきにしもあらずだな。・・・しかし、美談を否定するのも興醒めだ」
「そうです。だからあのお宅にいたときには言わなかったのです」
「それが賢明だな。とにかく今日は助かった。また頼み事があれば、大学のさ、さ・・・何とかさんに電話するよ」と藍原さんは言ってにやりと笑った。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
藍原清佐 藍原探偵事務所を経営する探偵。あだ名はスケキヨ。
柳ケ瀬家 藍原に金庫の開け方を依頼した旧家。
柳ケ瀬大二郎 柳ケ瀬家の亡くなった当主。
山田 肇 柳ケ瀬大二郎の幼なじみ。
河野三郎 柳ケ瀬大二郎の幼なじみ。
住野 正 柳ケ瀬大二郎の幼なじみ。
一色千代子 明応大学文学部二年生。藤野美知子の女子高時代の同級生。
註一)医療用X線装置:東京帝国大学医科大学と陸軍軍医学校に1898年(明治31年)に設置されたのが日本初。
書誌情報
W・F・ハーヴィー/五本指の怪物(世界恐怖小説全集4、東京創元社、1959年4月初版)
G・モーパッサン/手(世界恐怖小説全集9、東京創元社、1960年8月初版)




