三十八話 天女の接吻(美知子の妖怪捕物帳・参拾漆)
「私は家で妻と一緒に香道を楽しんでいるのですが・・・」と中園さんが話し始めた。
「こうどう?なんだね、それは?」と湯浅部長が口をはさんだ。
「香木を炷いて香りを楽しむ作法のことです」と中園さんが説明した。
「茶道の香り版のようなものですが、室町時代からの歴史があります」
「そんなに歴史があるのですね?中園さんはどこかの流派のお弟子さんなのですか?」
「そんなに本格的にしているわけでなく、趣味で香りを楽しんで癒されているだけなのです」
「香木に火を着けて燃やすのかい、線香のように?」と聞く荻原さん。
「いや、香炉内で香炭団に火を着け、その上に薄い雲母の板を置き、その上に香木を置いて熱して香りを出すんだ。ちなみに香道では、香りを嗅ぐとは言わず、香りを聞くと表現する」
中園さんと荻原さんは、湯浅部長や俺に対しては丁寧な言葉遣いをするが、二人の間ではタメ口で話すようになってきた。
「優雅なご趣味ですね」と俺は言った。
「話はそれるけど、漢方薬の中に燻して使うようなものはあるのかい?」と荻原さんが聞いた。
「蒼朮という生薬は、普通は煎じたり粉にして服用するけど、中国の書籍に熾した炭の上に蒼朮を置いて、生じた煙を室内に充満させると、伝染病の予防になると書いてあるよ」と中園さん。
「それはおもしろいな。本当に予防効果があるのかね?」と聞く湯浅部長。
「本で読んだだけで、効果を試したことはないのでわかりません」と中園さんが答えた。
「もし効果があれば、蒼朮のエキスを霧吹きで噴霧したり、蚊取り線香のように火を着けて煙を出す商品が開発できるな」
「そうですね。・・・で、藤野さんに聞いてもらいたいのは」と中園さんが話を戻した。
「そういう趣味があるせいか、私はけっこう匂いに敏感になっていますが、先日自宅でくつろいでいるときにふいに甘酸っぱい匂いがして、振り返るとそこに娘が立っていたのです」
「おいおい、娘さんの匂いを嗅ぐなんて、愛娘とはいえやりすぎなんじゃないのか?」と荻原さんが茶々を入れた。
「わざと近づいて匂ったわけじゃない。たまたま娘が後を通ったときに匂いに気づいただけだ」と荻原さんに言い返す中園さん。
「失礼ですが、お嬢さんはおいくつですか?」と俺は聞いた。
「今、高校一年生だから十五歳です」と答える中園さん。
「それでは化粧品の匂いではなさそうですね」
「そうです。学校では化粧は禁止されているし、家でも化粧品を使わせたことはないはずです」
「奥さんの化粧品を勝手に使ったんじゃないのか?年頃だから」と荻原さん。
「家内は外出時に香りのする化粧品を使うことはあるが、その匂いとは違う匂いなんだ」と言い返す中園さん。
「いい香りですか?」
「そうですね、熟したリンゴのような甘酸っぱい匂いというか・・・」
「大田南畝の随筆に、天女に接吻された夢を見た男がいて、その男の口からは死ぬまでいい匂いがしたという話が載っているよ」と荻原さんが言った。
「大田南畝?」と聞き返す湯浅部長。
「大田南畝とは江戸時代の狂歌師の名前で、日常の噂話を綴った『半日閑話』という随筆が有名なのですが、その随筆に載っている話です」
「荻原君はけっこう学があるな」と感心する湯浅部長。
「ということは、娘も天女にキスをされたってことか?ばかばかしい!」と一蹴する中園さん。
「若い娘さんは化粧しなくてもいい匂いがするから、その匂いじゃないのか?」と湯浅部長が言った。
「いいえ、部長。十代から二十代の女性の体臭は甘い桃のような香りなのですが、娘の匂いはもっとツンとした匂いなのです。刺激臭というほどではありませんが」
「さすが、香道を嗜んでいるだけあって、女性の匂いに敏感だな」と茶化す荻原さん。
そのとき、俺は以前に聞きかじった情報を思い出していた。
「中園さんに質問します。お嬢さんは最近甘い飲み物を大量に飲まれるようになっていませんか?」
「いいえ、私の知る限りだと、甘い紅茶やジュースはあまり飲もうとしていません。普段飲んでいるのは番茶ですね」
「やたらのどが渇く、と訴えることはありませんか?」
「そんなこともなさそうですが・・・」
「だとしたら、お嬢さんは痩せようとして食事を制限されているんじゃないですか?」
「そう言われてみれば、食事のときにご飯を茶碗半分くらいしか盛らず、おかわりもしませんね。野菜サラダばっかり食べています。おやつもあまり食べなくなったと家内が言っていました」
「それですよ、甘い香りの原因は!」と俺は指摘した。
「これは聞いた話ですが、糖尿病になると口や汗から甘酸っぱい匂いが出るようになるそうです」
「糖尿病?」
「はい。糖尿病患者は体内の糖分を利用できなくなるので、代わりに脂肪を分解してエネルギーにしているそうです。脂肪を分解すると体内にアセトンという揮発性の成分が生じ、それが糖尿病患者特有の甘い匂いの元となるそうです」
「なるほど。天女に接吻された夢を見た男は実は糖尿病だったのかもしれませんね」と荻原さん。
「む、娘が糖尿病だと言いたいのですか!?」と中園さんがあせって聞き返した。
「糖尿病は中年がなる成人病じゃないのかね?」と湯浅部長も聞いてきた。
「若い人がなることもあるようですが、私はお医者さんではないからよくわかりません。ただ、お嬢さんが糖尿病だと言いたいわけじゃありません」
「と言いますと?」
「若い人が甘い飲み物を毎日大量に飲むと糖尿病になることがあるそうです。そして糖尿病になると、やたらのどが渇いて大量の水分を取るようになります。しかしお嬢さんには当てはまらないようですから、お嬢さんは糖尿病ではないのでしょう」
「だとしたら、どういうことになりますか?」
「痩せようとして炭水化物や糖分を控えると血糖値が下がります。糖分は脳の唯一のエネルギー源なので、糖分からエネルギーが得られなくなると、脂肪を分解してエネルギーを作ろうとします」
「皮下脂肪が減るから痩せるんだろ?」と聞く湯浅部長。
「そうなのですが、脂肪を分解すると糖尿病患者と同じようにアセトンが増え、その匂いが体臭として感じられるようになるようです」
「そうなのですか!極端な減量を行うと、体から甘酸っぱい匂いがするようになるのですね?」と荻原さん。
「もしお嬢さんが減量が必要なほど痩せていないのでしたら、無理にご飯や甘いものを控えさせない方がいいですね。ただし、糖分を摂取しても匂いが続くようでしたら、病気の可能性がありますから、お医者さんに診てもらうことをお勧めします」
「わかりました。・・・しかし娘に限らず、若い女性は痩せることに必死になり過ぎるきらいがあります。そのため甘いものを食べろと言っても、嫌がるかもしれません。どのようにしたらいいと思いますか?」
「そうですね。砂糖を摂取するのが一番いいのですが、甘いものを避けているのなら、甘味を感じないものを勧めてはいかがでしょうか?・・・例えば葛湯とか」
「なるほど!葛湯は葛粉を溶かしたもので、葛粉は良質なデンプンです。摂取すると体内でおだやかに血糖に変わりますから、葛湯を少々飲んでも急に太ることはないでしょうしね」
「葛湯はとろりとしていますから、肌がつやつやになる、美肌効果があるとでも言えば喜んで飲んでくれるんじゃないでしょうか?無茶な減量をすると、肌が荒れると言いますから」
「なるほど。健康にいいのは間違いないでしょう!」
「奥様からお嬢さんに一緒に飲もうと勧めてもらってはいかがでしょうか」
「わかりました!さすがは藤野さんだ!いいアイデアをありがとうございます!」
「葛粉はゴマ豆腐にも使われると聞きますから、お食事にさりげなくゴマ豆腐を出してあげるのもいいのかも」
「葛は和菓子によく使われますが、さすがに甘いから避けるかもしれません。その点ゴマ豆腐なら、炭水化物が入っているとは思わないでしょう。これもいいアイデアですね」
「葛と言えば葛根湯の原料じゃないのか?葛根湯を飲ませたらいいんじゃないか?」と湯浅部長が言った。
「和漢薬の葛根湯には葛の根、つまり葛根以外に麻黄などの生薬が混ざっていますから、栄養補給に使うのはどうかと思います」と中園さんが答えた。
「とにかく娘には葛湯を飲ませて、様子を見ることにします」
「ところで藤野さん」と湯浅部長が俺の方を向いて言った。
「体臭の話が出て来たのでついでに相談するが、最近私の体が臭いと家内に言われるようになったんだ」
「それは加齢臭といわれる匂いかもしれません。年を取るとともに発生する匂いで、病気ではないと思います」
「病気でないのなら一安心だが、この匂いを消す方法があるだろうか?」
薬屋が一般人に聞くなよ、と思いながら考えられることを話すことにした。
「まず、肉食が中心の欧米人の方が体臭がきついと言われますから、肉だけでなく野菜類もバランスよく食べられることです」
「その辺は問題ないと思うが・・・」
「おそらく加齢臭は皮膚から発せられるものなので、お風呂に入られた際は丁寧に首筋や背中を洗われるとよいでしょう。香料入りの石鹸を使うとよいのかもしれません」
「なるほど。皮膚がすりむけるほど、体を磨き上げよう」
「皮膚を傷めるような洗い方は逆効果になるかもしれませんよ」と注意しておく。
「体洗いだけでなく、匂い消しの成分が入った入浴剤も効果があるかもしれませんね」
俺がそう言ったら、湯浅部長は荻原さんの方を向いた。
「荻原君、今後の商品開発に体臭を消す入浴剤の開発も加えてくれ!」
「わ、わかりました」湯浅部長の剣幕に押される荻原さん。
「そうですね、消臭成分とともにレモンの香り、ミントの香り、バラの香りなどがする入浴剤のシリーズも売れるかもしれませんね」
「またひとつ、いい商品開発のアイデアをもらったね」と中園さんが荻原さんに言った。
「そんな入浴剤なら娘も喜んで使ってくれそうだ。販売が待ち遠しいよ」
「しかし中園君も私もまたひとつ心配事を解決してもらったな。・・・荻原君は、藤野さんに相談したいことはないのかね?」と湯浅部長が荻原さんに聞いた。
「そうですね。・・・体臭とは違う話になりますが、先日知り合いの家を訪問したときに『最近ゴキブリが少なくなったね。気候の変化のせいかな?』と聞かれたのです。ゴキブリが減ったという話は聞かないので、『殺虫剤でも撒いたんじゃないのか?』と聞いたのですが、『そんなことはしていない』と言われました。帰宅して家内にその話をすると、『うちでもゴキブリを減らしたいから、秘訣を聞いてきて!』と厳命されたのです。でも、その知り合いに聞いても心当たりがないようで・・・」
「そのお宅を訪問されたときに何か匂いませんでしたか、薬のような匂いとか?」と俺は聞いた。
「さあ、どうでしたか・・・。二回とも訪問したときにレモンを添えた紅茶を出されて、レモンのいい香りを嗅いだことは覚えていますが、それ以外の匂いはあまり記憶にありません」
「レモンティーとはしゃれていますね。その家ではよくレモンを使われるのですか?」
「愛媛県にレモン農家になった親戚がいて、レモンを箱で送ってきたので、腐らせないよう積極的に使っていると言っていましたが・・・」
「それですよ!」と俺が叫んだら、荻原さんはびくっと驚いた。
「ゴキブリはハッカやレモンなどの柑橘類の匂いを嫌がると聞いたことがあります。ゴキブリの餌となる生ゴミの中にレモンの皮を大量に捨てたとしたら、ゴキブリは嫌がってその家から逃げたのかもしれません」
「ゴキブリはレモンの匂いを嫌がるのですか!?これはいいことを聞きました!我が家でもレモンを積極的に使うようにしましょう!」
「ただし、人間や犬にはハッカやレモンの成分は問題ありませんが、猫にとっては毒になると聞いたことがあります。猫を飼っているお家にはお勧めできません」
「家では猫は飼っていませんが、よそのお宅には気軽に教えない方がよさそうですね」
「さっき、ハッカ油を入れた入浴剤や、レモンやミントの香りをつけた入浴剤を開発すると言っていたけど、ペットに対する注意書きを付けた方がいいんじゃないか」と中園さんが荻原さんに注意していた。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
中園 猛 瀧村薬萬堂の漢方薬(和漢薬)開発担当係長。
湯浅 享 瀧村薬萬堂の開発部長。
荻原 謙 瀧村薬萬堂の入浴剤開発担当係長。
医学薬学的情報
張徳裕著、本草正義(1828年初版)の蒼朮の項目に、「芳香闢穢,勝四時不正之氣,故時疫之病多用之,最能驅除穢濁惡氣,陰霾之域,久曠之屋,宜焚此物而後居人(芳しい香りが汚れを防ぎ、四季の不健康な気を克服する。そのため伝染病の治療によく使われる。土曇りの多い地域の長い間放置されていた家は、入居する前にこれを燃やした方が良い)」と記載されている。
若い女性特有の甘い体臭:γ-デカラクトン(ラクトンC10)とγ-ウンデカラクトン(ラクトンC11)の匂いであることが2017年に学会報告された。
葛湯:近年の研究でイソフラボンやサポニンを含み、美肌、肥満予防、血流改善などの効果があるらしい。
加齢臭:年齢を重ねるごとに皮脂腺から分泌される皮脂にパルミトレイン酸が増加し、酸化して加齢臭の成分である2-ノネナールに変化する。
猫への作用:ハッカ油に含まれるメントールや柑橘類に含まれるリモネンが猫にとって有害。




