三十六話 薬箪笥の怪〜貂の王〜(美知子の妖怪捕物帳・参拾伍)
和漢薬開発研究室に入った中園さんは俺たちをまっすぐ古い薬箪笥の前に案内した。木製の高さ二メートル、横幅一メートルぐらいある大きな薬箪笥で、かなり年季が入っているようだった。
上半分には縦横十センチくらいの正方形の引き出しが十個ずつ十段あり、下半分は横長の引き出しが並んでいる。それぞれの引き出しの表面に生薬の名前を書いた紙が貼ってあった。
「この薬箪笥は大正時代から使われているものです」と中園さん。
「立派なものですね。この会社の発展を見守ってきたような箪笥ですね」
「はい。それぞれの引き出しには異なる種類の生薬が入れてあります。現在では温度と湿度を管理した専用の薬棚に生薬を入れていますが、弊社の歴史という意味で、この薬箪笥を残しています。引き出しの中には数十年前の生薬がそのまま入っています」
「貴重な生薬もあるのですか?」
「はい。現在の商品には使用していませんが、牛黄や冬虫夏草はわずかですが残っています。ほかには棘猬皮、庶虫、五霊脂などが入っていた引き出しがありますが、現物は残っていません」
「冬虫夏草は聞いたことがあります。確か、虫から生えてくるキノコですよね?」
「そうです。貴重なものですが、さすがに今販売している和漢薬には入れられません。牛黄も入手困難ですね。牛黄とは牛の胆石のことですが、そもそも胆石を持っている牛が滅多にいないようでして・・・」
「ほかの生薬も入手困難でしょうか?」
「棘猬皮はハリネズミの皮、庶虫はシナゴキブリの干物、五霊脂はムササビの糞便を乾燥したものでして、古来より薬効があるといわれていますが、衛生的な観点から商品には入れにくくて・・・」
「そ、そうでしょうね」
「中園君、生薬の説明はそれぐらいで、早く謎の現象を藤野さんに説明しなさい」と湯浅部長が口を出した。
「そ、そうですね。・・・藤野さん、謎というのはこの薬箪笥に起こった出来事のことです」
「この薬箪笥ですか?」俺は改めてこの古い木製の箪笥を見つめた。
「先ほど言ったようにこの薬箪笥の中にある生薬は今では使っていません。それなのにあるとき、この箪笥の引き出しの位置が入れ替わっていることに気がついたのです」
「引き出しの位置?どれとどの引き出しですか?」
「箪笥の上半分の、正方形の引き出しの全部、百個です」
「ええっ!?全部の引き出しがですか?」俺は驚いて聞き返した。
「そうなのです。それもランダムに入れ替わっているのではなく、一番上の段にある引き出しが一番下に、上から二段目の引き出しが一番上に、上から三段目の引き出しが上から二段目にと、順番にずれていたのです」
「規則正しく上下にずれていたのですか?」
「そうです。横方向の位置は元のままでした。例えば冬虫夏草が入っていた引き出しの列は、元は上から冬虫夏草、エゾウコギの根茎の刺五加、豆科の「キバナオウギ」の根を乾燥させた黄耆、未熟な梅の実を燻した烏梅、棗を乾燥させた大棗、菊科のオオバナオケラの根茎である白朮、スジアカクマゼミの幼虫の抜け殻の蝉退、ドクダミの葉を乾燥させた十薬、ほおずきを乾燥させた酸漿、クコの実を乾燥させた枸杞子と並んでいましたが、それが上から刺五加、黄耆、烏梅、大棗、白朮、蝉退、十薬、酸漿、枸杞子、冬虫夏草の順に変わっていたのです」
いろいろな生薬の名前が出てきて混乱しそうだ。
「それは妙な現象ですが、いつ気づいたのですか?そしてその前に引き出しを整理したという事実はないのですか?」
「この薬箪笥は歴史的なものなので、普段は誰も触りません。気づいたのはひと月前ですが、いつ引き出しの位置が変わったのかはわかりません。引き出しを整理したことなど十年以上ないはずです」
「知らない間に変わっていたということですね?」
「そうなのです。研究員の中には神様か妖怪が薬を漁った際に、戯れで引き出しの位置をずらしたんじゃないかと言う者までいます」
「神様か妖怪?」
「はい。例えば新潟県には御屋形様と呼ばれる貂の王がいて、病気で苦しんでいる人に薬の調合を教えたなどという言い伝えがあると彼女は言ってました」
「彼女?」
「さっきこの部屋にいた水野君という研究員です」
俺はさっき研究室から出て行った背の低い女性を思い出した。
「妖怪はさておき、今は引き出しは元に戻しているのですか?」
「はい。この研究室の研究員総がかりで元に戻しました。一時間もかかりませんでしたが、けっこう大変でした」
「それでは引き出しを抜いて見せてもらえますか?」とお願いしたら、中園さんが自ら一番下の段の正方形の引き出しを抜いて見せてくれた。
奥行きは約三十センチ。厚さ二センチぐらいの板で作られた引き出しで、床に置かれた引き出しを両手で持ち上げてみると、けっこう重たかった。
「重いですね。これを百個動かすのは大変だったでしょう?」
「その通りです。男性の研究員だけでなく水野君も手伝ってくれましたが、後で筋肉痛がつらいとこぼされましたよ」
引き出しの中には乾燥した草のようなものが入っていた。
「さっき話された貴重な生薬が盗まれたりはしなかったのですか?」
「この中で貴重なものと言えば、冬虫夏草ですね」と中園さんは言って、近くに置いてあった台形の木製の踏み台を持ってくると、その上に乗って一番上の段にある引き出しをひとつ抜いて下ろしてくれた。
中には長さ数センチのひからびた芋虫が四個入っており、それぞれの芋虫のお尻から数センチくらいの草のようなものが生えていた。もちろん乾燥している。
「冬虫夏草は四個入っていたと記録されているので、盗まれてはいないようです」
「これが冬虫夏草ですか?初めて見ました」
「そうでしょうね。この会社にもこれだけしかありません」
「金庫などに保管しておかなくて大丈夫なのですか?」
「入手しようと思えば入手できるものですし、商品には使っていませんから」と中園さんが釈明した。
「この引き出しは一番上の段から抜かれていましたが、これが上から十段目に移っていたということなのですね?」
「そうです」
「社員の方は自由に冬虫夏草を見ることができるのですか?」
「いえ、相応の理由があれば見せることにやぶさかではありませんが、気軽に見ていいものではないとの暗黙のルールがあります。私も冬虫夏草を見たのは、引き出しの位置が入れ替わっていたときと今だけです」
「なるほど。何となくわかりました」と俺が言うと、三人は目を丸くして驚いた。
「藤野さんは今までの説明だけで真相がわかったのですか!?」と荻原さんが聞いてきた。
「真相かどうかわかりませんが、納得できる説明を思いついたというだけです」
「それでもすごい!是非教えてくれたまえ!」と湯浅部長が食いついてきた。
「まず、私の行動を見てください」そう言って俺は冬虫夏草が入っている引き出しを持ち上げた。
そして引き出しを抱えたまま、踏み台の上に昇ろうとした。足場の小さい踏み台だったので、重い引き出しを抱えたままの俺は倒れそうになった。
「あ、危ない!」咄嗟に俺の体を支えてくれる中園さん。
俺は踏み台から降り、冬虫夏草が入っている引き出しを床に置いた。
「体を支えてくれてありがとうございます、中園さん」
「いや、見るからに危なっかしかったよ」
「このように、この重い引き出しを持って一番上の段にはめるのは、一般的な男性よりも非力で背も低い私には難しいことでした。でも、引き出しを抜いた穴に引き出しをはめて、元のように見せなければならないとすると、私はどうすればいいでしょうか?もちろん、誰の助けもなしにです」
「無理してひとりで持ち上げたら、落としたり倒れたりする危険があるな。そうなると引き出しや床に傷が付くし、中の冬虫夏草が床に散らばりかねない」と湯浅部長。
「そうですね。引き出しを抜いた痕跡を残したくはなかったはずです」
「だとしたらどうするのですか?ひとりじゃ難しいのに、ひとりでやらなければならないとなると?」と荻原さんも尋ねた。
「とりあえずごまかすにはこうするしかありません」
そう言って俺は引き出しを持たずに踏み台の上に乗った。そして体重を箪笥にかけるようにしながら上から二段目の引き出しを抜いた。
箪笥で体を支えているのでふらつきはしない。そして抜き出した重い引き出しを一番上の段の、冬虫夏草が入っていた引き出しを抜いた穴に差し込んだ。
「なるほど!箪笥で体を支えつつ、引き出しを一段上に上げるだけなら、藤野さんでも何とかできるのですね!」と中園さんが叫んだ。
「次にその下の引き出しを、上から二段目の引き出しを抜いた穴にはめます。このようにして比較的安全に引き出しを入れていくのです」
「それで引き出しが上に一段ずつずれていたのか。・・・だが待てよ」と湯浅部長が言った。
「上の方の引き出しはそうやってずらすしかないとしても、床から手が届く高さのところへは、床に置いた冬虫夏草の引き出しを安全にはめられるんじゃないか?全段入れ替える必要はないだろうに・・・」
「しかも上下一列だけじゃなく、横十列の引き出しが全部入れ替わっていますよ!そこまでする必要があるのでしょうか?」と中園さんも異を唱えた。
「確かに、ただ引き出しを箪笥に戻すだけなら、引き出し全部を入れ替える必要はありません。冬虫夏草が入っていた引き出しとその下の三、四個の引き出しを入れ替えるだけで事足りますから。でも、それじゃあだめなんです」
「何がだめなんですか?」と荻原さんが聞き返した。
「それだと冬虫夏草の引き出しが下に下がったのが丸わかりです。誰か非力で背の低い人が、冬虫夏草を見ようとして、あるいは盗もうとして、引き出しを下ろしたことがばればれです」
「そうか!冬虫夏草に興味があったことを知られないために、動かす必要のないその他の引き出しも同じように上下の順番を入れ替えたのですか!」と中園さんが叫んだ。
「・・・しかし大変な重労働じゃないか?もし非力な者の仕業だとすると、ひとりで一時間以上かけて引き出しを動かしたことになる」
「その人は、冬虫夏草を盗むつもりはなかったのでしょう。数が減っていなかったのですから。それでも無断で見たことを怒られると思って、必死ですべての引き出しを動かしたんじゃないでしょうか」
「そうか。・・・で、誰が犯人なんだい?非力で背の低い者とは・・・?」と湯浅部長が聞いた。
「ま、まさか、水野君の仕業なのか?」と中園さん。
「それは断言できません。引き出しが移動しているのに気づいたのはひと月前ということですが、見ただけでは引き出しの位置が変わっていることになかなか気づけそうにありません。ひょっとしたら数年前のことかもしれません。先ほどの女性はまだ若そうに見えたので、彼女がこの研究室に入る前の出来事の可能性もあります」
「た、確かに、証拠もなしに水野君を犯人扱いすることはできませんね」
「犯人はわからずとも、被害がなかったのなら良しとしよう」と湯浅部長が言った。
「・・・引き出しを戻すのに苦労しましたがね」と中園さんが小声で言ったが、誰も聞いてなかった。
「このお礼に藤野さんに夕食をごちそうしたいが、どうかな?」
「あ、ありがとうございます。それでは同席させていただきます」
「部長、何をごちそうされるつもりですか?」と荻原さんが聞いてくれた。
「漢方薬を使った食療食養料理を出す中華料理屋を知ってるんだ。そこで漢方薬への興味をもっと持ってもらおうと思う」
「それはいいことです」と中園さん。
「もちろん君たちも同席してくれるね?」と湯浅部長が二人に聞いた。
「もちろんです。それでは藤野さんに渡すおみやげのバスグランを二つ三つ取って来ます」と荻原さん。
「それでは私も市販の葛根湯と当帰芍薬散を持って帰ってもらいます」
そう言って二人は研究室を出て行った。
「じゃあ、いったん部長室に戻ろう。私も帰る準備をするからね」そう言われて一緒に開発部長室に戻った。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
中園 猛 瀧村薬萬堂の漢方薬(和漢薬)開発担当係長。
湯浅 享 瀧村薬萬堂の開発部長。
水野紗季 瀧村薬萬堂の漢方薬(和漢薬)開発研究員。
荻原 謙 瀧村薬萬堂の入浴剤開発担当係長。




