三十五話 瀧村薬萬堂を訪問
今回会社訪問をしたのは瀧村薬萬堂という製薬会社だ。ただし一般的な医薬品ではなく、漢方薬を主に製造・販売している会社だ。また、医薬品ではないが、「バスグラン」という芳香入浴剤が人気商品で、よく売れていると聞く。
招待された本社ビルに入り、受付の女性に訪問目的を告げると、「四階の開発部長室へ直接お越しください」と言われ、エレベーターを呼んで目的階のボタンを押してもらった。
四階には実験室や事務室などが並び、どこからともなくいい香りと顔をしかめるようなきつい香りの両方が匂ってきた。俺はその階の案内板を見て、開発部長室と書かれた部屋のドアをノックした。
「どうぞ」と中から声がする。
俺は「失礼します」と言いながらドアを開けて中に入った。中は八畳程度の広さの執務室で、手前に小さなソファセットがあり、奥に事務机があった。左手には棚が置かれ、この会社の商品らしいものがいくつも並べられている。右手は書棚だった。
「秋花女子短大から参りました藤野美知子です」と自己紹介すると、事務机に座っていた中年男性が立ち上がった。
「ようこそ、藤野さん。私が弊社の開発部長の湯浅です」
そう言うと湯浅部長は隣室に繋がるドアを開いて、「おい、中園君と荻原君を呼んでくれ。それからお茶を頼む」と誰かに言った。
「さあさあ、ソファに座ってくれたまえ」と言われて四脚あるソファの一つに座った。その向かいに湯浅部長が腰を下ろす。
すぐに隣室からお茶を持った事務員と30代くらいの男性二人が入って来た。
二人は俺のそばに来ると、同時に名刺を差し出した。俺はあわてて立ち上がり、優劣を付けないよう急いで二人の名刺を受け取ると、湯浅部長も名刺を出してきたのでそれも受け取った。
「私はまだ短大生で名刺を持ち合わせておりません。秋花女子短大の藤野です。よろしくお願いします」
「まあまあ、座りたまえ」と湯浅部長に言われ、中園さんは部長の隣に、荻原さんは私の隣に座った。みんなの前に事務員が煎茶椀を置く。
「この藤野さんが先見の明を持ち、不可思議な出来事の謎をいつも簡単に解くという噂の女性だ。この際いろいろと相談するがいい」と二人に言う湯浅部長。
「ようこそ、藤野さん。失礼ですが、あなたは弊社のことをご存知ですか?」と中園さんが話しかけてきた。
「はい。貴社は漢方薬を専門とする製薬会社で、近年では芳香入浴剤の『バスグラン』が人気と聞いております」
「そう。弊社はもともと創立者の個人薬種店として明治時代に始まり、生薬の販売とともに生薬入り入浴剤を開発し、当時としては珍しく積極的に広告を出して急成長した会社です。私は漢方薬の開発・営業の責任者をしています」
「そして私は入浴剤の開発・営業担当です」と隣の荻原さんが言った。
「あなたは弊社の『バスグラン』を使ったことがありますか?」
「いえ、名前はよく存じていますが、まだ一度も使ったことはありません」
「それでは帰りにサンプルを提供しますので、是非使ってみてください」
「わかりました」
「では、どちらから先に相談する?」と湯浅部長が中園さんと荻原さんに聞いた。
「漢方薬は専門的なので、まず私から」と荻原さんが言った。
「入浴剤というのはご存知のように、温泉で採れる湯の花や生薬成分の入ったものを家庭の風呂に入れることから始まりました。しかし湯の花の成分の硫黄分などは風呂釜を傷めるし、生薬成分は薬臭いと、一部の国民から敬遠されてきました。そこで弊社では入浴時にくつろげるように、芳香剤成分と青や緑の色素を混ぜて作った『バスグラン』を開発し、幸いなことに人気を博してきました。おかげでこの分野では業界一位の成績を収めていますが、新たな商品を開発しなければやがて同業他社に追い抜かれてしまいます。そこで、今後どのような入浴剤があるといいか、消費者目線でご意見をお願いします」
入浴剤を消費したことがないので消費者目線で意見しろと言われても困るが、平成時代の商品を思い出しながら話し始めた。
「そうですね。まずお聞きしますが、『バスグラン』の効能はくつろぎ以外には保温効果があると思いますが?」
「その通りです。『バスグラン』に含まれる塩類が皮膚表面に薄い膜を作り、湯冷めが起こりにくくなります。さらに皮膚の洗浄や皮膚荒れの修復作用もあることがわかっています」
「保温効果を高めるために、入浴剤をお湯に溶かしたときに炭酸ガスが発生するようにしてはいかがでしょうか?」
「炭酸ガスですか?」
「はい。天然の温泉でも炭酸ガスを多く含む炭酸泉というのがあり、ヨーロッパでは昔から温泉療法に利用されていたようです。詳しくは知りませんが、炭酸ガスが血行を良くし、体を芯から温めるとともに、体の新陳代謝が高まると言われています」
「なるほど。・・・炭酸ナトリウムや炭酸水素ナトリウムの量を増やし、弱酸性になるよう調節すれば発泡させられるでしょうね。見た目で違いがわかるから、消費者にも受入れやすいかも」と荻原さんは乗り気になった。
「冬場の入浴では保温が大事ですが、夏場だとお風呂から出たらすぐに体が涼しく感じられる商品もいいかもしれません。お湯にハッカ油を少量混ぜると、お風呂から上がったときに涼しく感じると聞いたことがあります」
「なるほど、メントールですか。・・・夏限定商品として売り出すのもいいかもしれませんね」
「夏場とはいえ、湯冷めするのはよくないんじゃないのか?」と湯浅部長が口をはさんだ。
「いえ、確かメントールは神経に働いて涼しく感じさせるだけで、体温を下げる効果はなかったはずです。だから問題ないでしょう」と荻原さんが答えた。
「ほかにはどんな商品がいいかな?」と俺に聞く湯浅部長。
「先ほど、生薬成分を混ぜた薬湯は漢方薬臭くて敬遠されたと言われましたが、これだけ入浴剤が普及してきた今なら、生薬入り入浴剤を大々的に売り出す好機かもしれません。薬臭い入浴剤の方が逆に効能がありそうで、人気が出そうな気がします」
「そうか。肩こりやけが、婦人病に効く漢方薬の成分を入れて大々的に宣伝して様子を見るのもありですね。どのような漢方薬がいいか、中園君と相談してみよう」
「ニンニクを食べると活力が出ると言いますから、ニンニク入り入浴剤もいいかもしれません」と俺がぼそっと言ったら、三人が目を丸くして驚いた。
「ニンニク湯なんて、体がニンニク臭くなるんじゃないか!?」
「元気は出そうだけど、消費者に敬遠されそうな気がします!」と反応はいまいちだった。
「そこは商品開発をがんばっていただくとして、・・・女性向けには保温だけじゃなく保湿効果を追加した入浴剤も欲しいですね。女性は肌がしっとりするのを好みますから」
「なるほど!女性向け入浴剤のラインナップもいいですね!パッケージには伊東深水の美人画を載せましょうか」と荻原さんが興奮して言った。
「そして最後に、遊び心を加えた入浴剤として、全国温泉巡りシリーズなんてのはいかがでしょうか?」
「全国温泉巡り?・・・それはどんなのだね?」と聞く湯浅部長。
「温泉によってお湯の色や香りが違います。それらの温泉の湯の花ではなく、温泉の色や香りや効能をある程度再現した入浴剤を作って売るのです。例えば、草津の湯入浴剤とか」
「なるほど。自宅に居ながらにして温泉旅気分が味わえるという趣向ですね?・・・ただ、草津温泉は酸性が強いので、再現したら浴槽が傷みますけどね」と荻原さんが言った。
「しかしおもしろい!全国にはたくさんの温泉がある。その中から入浴剤に適した湯を探さにゃならないな。よし、俺も調査旅行に同行しよう!」と湯浅部長が叫んだ。
「温泉に入って、うまい飯と酒をいただくだけじゃだめですよ、部長」と中園さんが注意した。
「もちろん芸者を呼ぶのも禁止です」
「入浴剤に旅情を反映させるなら、そういう体験も必要なんだがな・・・」と湯浅部長はぶつぶつと言った。
「うまく再現できるかわかりませんが、発売までこぎ着けたら話題になりますね。今までのアイデアをさっそく入浴剤研究室で検討を始めます」
「なかなかおもしろいアイデアをいただいたな、荻原君。同業他社がこれらのアイデアに気づく前に商品化を進めてくれ」と湯浅部長が言った。
「はい!」
「次に漢方薬部門についてだが、これは中園君、説明を頼む」
「わかりました。・・・藤野さんもご存知のことと思いますが、中国伝来の漢方薬と、日本古来の生薬から、日本独自の漢方薬、いわゆる和漢薬が発展してきました。しかし明治になって政府の方針で日本にはヨーロッパの医学が導入され、精製した薬成分を合成して作った医薬品のみが医療現場で使われるようになりました。そのため和漢薬は民間療法として細々と命脈を保ってきたわけですが、戦後になって和漢薬も薬価基準に収載される気運が高まってきました」と中園さんが説明を始めた。
「薬価基準とは何ですか?」
「保険診療に使うことを認可された薬の代金のうち、医療保険から支払われる額のことです。つまり病院で医師がその薬を処方すると、患者は薬代の一部しか払わなくてよく、残りは保険から賄われるようになります。言い換えると、正式の医薬品と認められることで、医師は処方しやすくなるし、患者の負担も減るし、製薬会社は薬をたくさん使ってもらえて儲かるしと、いいこと尽くめになります」
「なるほど、よくわかりました。既に認可された漢方薬・・・和漢薬はあるのですか?」
「三年前に初めて四種類の和漢薬が薬価基準に収載されました。十味敗毒湯、葛根湯、五苓散、当帰芍薬散の四種類です」
「それらは何に効くお薬ですか?」
「十味敗毒湯は皮膚疾患や蕁麻疹、水虫などに効きます。葛根湯は体を温めて発汗を促すことで風邪の諸症状に効きます。五苓散は体内の水分バランスを整えて、むくみ、頭痛、めまい、下痢などに効きます。当帰芍薬散は冷え症、生理不順や生理痛、更年期障害に用いられる女性向けの薬です。もちろん和漢薬にはまだたくさんの種類がありますから、それらも薬価基準に収載されるよう働きかけているところです」
「和漢薬は今までの医薬品と比較してどういう利点があるのですか?」
「今販売されている医薬品は、早く作用しますがその分薬効が強く、用法の誤り等によって薬害が発生したことが何件か報告されています。それに対して和漢薬はゆっくりと作用し、それでいて諸症状に良く効くという特徴があります。もちろん和漢薬も用法や用量を極端に間違えれば副作用が出ますけどね」
「和漢薬の成分が体内で細胞に具体的にどのように作用しているのか判明しているのですか?」
「和漢薬は生薬を混合した製品が多く、どの成分が医学的にどう作用しているのか、これからの研究を待たなければなりません。しかし大昔からの使用で薬効が確かにあることはわかっています」
「なるほど。・・・私からの提案ですが、漢方薬に慣れていない私たちにとってはどの薬が何に効くのかよくわかりません。薬局で売られるものは、パッケージに薬品名だけでなく効能を大きな字で明記していただくと、私たちもどんな薬か理解できていいと思います。また、お医者さんに対しては、既に行われているかもしれませんが、定期的に研究会のようなものを開いて医学的な効能を宣伝するべきでしょう。そして、将来のお医者さんにもその効能を知らしめるべく、大学の医学部で漢方薬に関する教育を行ってもらうよう各大学の教育責任者に働きかけるべきと思います」
「ええ、私たちもそのような医学界への働きかけを考えていたところです。そのためにも薬価基準に収載される和漢薬の種類を増やしたいですね」
「それ以外に何かアイデアはあるかな?」と湯浅部長が聞いてきた。
「さすがにお薬という専門的なことに関しては意見できることは多くありませんが、薬価基準に収載される和漢薬が増えたら、新聞広告やテレビのコマーシャルで、和漢薬や漢方薬が過去のものではないことを積極的に宣伝されると良いと思います」
うんうんとうなずく中園さん。
「女優か俳優を起用して、この薬は何によく効きますというようなコマーシャルをシリーズで作るのもいいかもしれないな。営業部長とも相談してみよう」と湯浅部長が言った。
「入浴剤も、美人女優の入浴シーンのコマーシャルを作ると話題になりそうですね」と荻野さんも言った。
CMに起用するならあの女優がいい、いやあの女優がいいと言い合う三人。俺はそんな様子を生暖かい目で見ていたが、俺の視線に気づいた湯浅部長がごほんとせきばらいをした。
「さて、それはともかく、藤野さんは不思議な謎を解いてくれるという噂だったな。ついでに我々の話を聞き、意見を言ってもらいたい」
「謎ですか?解けるかわかりませんよ」
「それでもいい」湯浅部長がそう言うと、三人は真剣な顔になって俺を見つめた。
「実は和漢薬の研究室で起こったことなのですが、一緒に来てもらえますか?」と中園さんが言った。
「はい」と答え、俺たち四人で廊下に出た。そして中園さんを先頭にして、同じ階にある別の部屋に案内された。
「ここが和漢薬の開発研究室です」と言われて中に入る。その瞬間、漢方薬っぽい匂いが鼻をついた。
その研究室は二十四畳くらいの広い部屋で、中央に実験台が四台並んでいた。周囲の壁には種々の薬品棚が並び、その中には古い薬箪笥もあった。
「あ、お客さまですか?」中にいた背の低い女性が中園さんに気づいて声をかけた。白衣を着ているから、研究員なのだろう。
「ああ、ちょっとこの方と話があるから、しばらく部屋を出てくれないか?」
そう言われた女性は俺を見、さらに湯浅部長にも気づいて、会釈するとそそくさと研究室から出て行った。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
湯浅 享 瀧村薬萬堂の開発部長。
中園 猛 瀧村薬萬堂の漢方薬(和漢薬)開発担当係長。
荻原 謙 瀧村薬萬堂の入浴剤開発担当係長。




