三十一話 八畳島へ
金曜日の休み時間に、例によって相良さんが講義室に顔を出した。
「藤野さん?」と俺を呼ぶ相良さん。
「はい」俺が急いでそばに寄ると、
「また来客が来ているわよ。外で待っておられるわ」と告げられた。
相良さんと一緒に校舎の外に出ると、四十代くらいの中年男性が待っていた。
「私はこういう者です」男性が出して来た名刺を受け取る。「八畳町役場 観光振興課 奈良井孝」と書いてあった。
「八畳町役場と言うと、八畳島ですか?」と俺は尋ねた。
「その通りです。高名な藤野さんに八畳島までお越しいただき、是非相談に乗ってもらいたいと思ってやって来ました」
どこまで俺の噂が流れてるんだよ、と思いながら、「今、これからですか?」と聞き返した。
「いえ、もし藤野さんの都合が良ければ、明日のお昼から八畳島に行き、一泊してもらいたいと考えております。もちろん交通費、宿泊費はこちら持ちです」
「わ、わかりました」そこまでしてもらえるというのなら、断ることはできないだろう。後で家に電話しておこう。
「それでは明日のお昼、十二時にこの大学の正門でお待ちしています」そう言って奈良井さんは帰って行った。
「今度はどこからのお誘い?」と、俺の最近の就職活動の話を聞いている佳奈さんと芽以さんが聞いてきた。
「明日、八畳島に行くことになったの」
「八畳島?すごいじゃない!今や東洋のハワイと呼ばれていて、ハネムーンのメッカよ!」と芽以さんが言った。
「そうなの?」
「西日本じゃ宮﨑とかが有名だけどね」と佳奈さん。「でも、離島へ小旅行できるなんてうらやましい」
「もし八畳島に就職することになったら、絶対に遊びに行くからね」と芽以さんが楽しそうに言った。
八畳町役場に就職?事前に面接や試験があるなら、八畳島まで行かないとだめだろうな。地元の人が応募してたら、そっちを優先するんじゃなかろうか?
そんなことを考えているうちに土曜日になった。午前中の講義が終わると、俺は昼食を摂らずに正門に向かった。既に奈良井さんが待っていた。
「こんにちは、藤野さん。それではさっそく参りましょう!」
「どういう経路で行くのですか?」
「もちろん、羽田空港から飛行機で行きます。船だと片道十一時間ぐらいかかりますからね」
短大最寄りの駅から浜松町駅まで電車に乗り、東京モノレールに乗り換えて羽田空港に着く。搭乗手続きはすべて奈良井さんにお任せだ。
奈良井さんも昼食がまだだったので、ターミナルの二階にある洋食屋に入って、俺はオムライス、奈良井さんはカレーライスを注文した。けっこうおいしかった。
その後手荷物検査場を無事に通過し、滑走路内に出てバスに乗った。これで八畳島行きの飛行機の近くまで移動するのである。
目的地で待っていた飛行機は全日空のフレンドシップF27という小型のターボプロップ双発旅客機で、タラップを昇って機体後部の乗降口から入った。中は座席が四十席あまりしかなく、狭い圧迫されそうな空間だった。バスの方がよっぽど広い。
八畳島便には六十席あまりのYS11も飛んでいるそうだが、四十席と六十席だと機内は長さが違うだけで広さはそんなに変わらないだろう。
座席上の収納棚に鞄を入れ、俺が窓際、奈良井さんが通路側に座った。すぐに安全ベルトを装着する。
機内は満席で、男女のカップルがけっこう多い。新婚旅行客なのだろうか?もちろん俺と奈良井さんが夫婦に見えるはずはない・・・多分。
出発時刻になるとプロペラが回転し、飛行機が前進し始めた。ゆっくりと滑走路に進入し、長い滑空の後ようやく飛び立った。
スチュワーデスさんによる救命胴衣の説明の後、「八畳島までは約一時間十分です」と機長のアナウンスが聞こえた。天候は快晴で、飛行には問題ないということだ。
「八畳島には新しいホテルが何軒も建っていますが、今夜は僕の実家の民宿に泊まってもらいます」と奈良井さんが言った。
「民宿を経営されているのですか?」
「古い家屋なんで、新婚客は泊まってくれませんが、釣り客には好評です。夕食は海の幸をふんだんに振る舞いますよ」と言ってくれた。
二時十分に出発した飛行機は、三時二十分頃に無事に八畳島空港に着いた。空港には町役場から迎えの車が来ていて、俺と奈良井さんを町役場まで運んでくれた。
町役場は空港の南側(ターミナルの反対側)にあった。滑走路を横断できないので、ちょっとした遠回りになる。田畑のただ中にある町役場は鉄筋コンクリート二階建ての白い建物で、縁がブルーに染められていた。建てられてから十二年近く経っているそうで、塗装は若干くすんでいる。
町役場の中に入ると俺はすぐに町長室に案内された。
「町長、藤野さんをお連れしました」
「ほう、あなたがお噂の藤野さんですか?」と、初老の男性が机から立ち上がった。
「普通のお嬢さんに見えるが・・・。いや、失敬、私が町長の峰延です」
「秋花女子短大の藤野です。このたびはお招きありがとうございました」と俺は頭を下げた。
「まあ、お座りください」と促され、俺たちはソファに腰を下ろした。
「今日、わざわざ来てもらったのは、八畳島のこれからの観光振興についてご意見を伺いたいからだ」と町長。
「あの、八畳島は既に東洋のハワイと呼ばれていて、観光客が大勢来ていると思いますが?」
「その通り!人口一万人程度の島なんだが、年間の観光客は十万人を越えている。来年はもっと増えるだろう。嬉しい限りだ」
「そのような観光地に今さら素人の私の意見など、参考にならないと思いますが?」
「そんなことはない。観光客が多いからとあぐらをかいていれば、いずれあきられて見放されるだろう。常に改革、開発を続ける心構えが必要なんだ!」
「それは素晴らしいお考えだと思います。私に何か思いつけるかわかりませんが、現在の観光施設などを教えていただけますでしょうか?」
「奈良井君、説明してあげなさい」と町長。
「はい。八畳島は東京から近いという利点があり、青い海に囲まれた風光明媚な島で、釣り、海水浴、新婚旅行目的の観光客が大勢来てくれています。町営の八畳島定期観光バスで島を一周するツアーもあり、千畳溶岩、登竜峠、名古の展望や、染め物の工場、牛角力の闘技場などを回っています」
「すばらしいですね」
「また、大正時代から栽培しているフリージアの花が咲き揃う三月後半には、フリージア祭を開催していて大人気です。町役場の近くには八畳植物公園があります。昭和三十七年に開園し、園内にはハイビスカスやブーゲンビリア、極楽鳥花などの熱帯・亜熱帯性植物が栽培されていますが、近年は羗の飼育も始めました」
「羗ですか?小型の鹿のような動物ですね?」
「そうです。伊豆大島の公園で中国から輸入して飼育しているのが人気だということで、この島でも飼育を始めました」
「島の自然は、外来の動植物が入りにくいため、独特の生態系を保っています。羗のような外来の動物がもし逃げ出したら、大変なことになりますよ」と俺は注意した。
「大変なこととは?」
「山や森に逃げ込んだ小動物は容易に繁殖します。そして草食動物なら農作物に、肉食動物なら島特有の動物に多大な損害を与えます。既に飼育を始められているということなら、台風などで檻が壊れないよう、厳重な注意が必要です」
「羗が逃げたなら、すぐに捕獲か駆除すればいいのでは?」と町長が口をはさんだ。
「いえ、小動物の完全な駆除は不可能に近いですよ。人間が入り込めない繁みの中などにすぐに逃げ込みますから。罠を仕掛けても効果は限定的でしょう」
「わ、わかりました。檻の見直しを進めましょう」と奈良井さん。
「ほかには何かあるのかな?」と聞く町長。
「島を一周する観光バスはとてもいい企画ですが、さらに外周道路を整備し、ところどころに展望台のような休憩スペースを設けましょう。そして町内にレンタサイクル屋を開いて、サイクリングできるようにしてはいかがでしょうか。天気が良ければ、バスよりも島の自然を肌で感じられます」
「なるほど」メモを取る奈良井さん。
「島を一周する観光船巡りもあるといいかもしれません。また、グラスボートを港において、海底や魚を観察するのも楽しいでしょう」
「グラスボートとは何だね?」と聞き返す町長。
「船底にガラス窓を付けた小型のボートのことです。ただ、少し沖合に出ると、海底は見えなくなってしまいますが」
「ふむ」
「それからマリンスポーツを充実させましょう」
「マリンスポーツとは?」
「シュノーケリングやスキューバダイビングなどです。シュノーケリングとはシュノーケルという呼吸用の筒を口にくわえて、浅い海の中を遊泳することです。スキューバダイビングは酸素ボンベを背負ってより深く海に潜ることですね」
「まるで外国の海のようだな。導入を検討してみるべきだろう」と町長。
マリンスポーツにはほかにサーフィン、水上スキー、パラセーリングなどいろいろあるが、この島でできるのか、安全面での問題はないのかなどの懸念があり、専門的な知識がないので、言及するのは控えておこうと思った。
「それからせっかく東洋のハワイと呼ばれているのですから、ハワイっぽい歓迎行事を導入したらいいのかもしれませんね」
「ハワイっぽい行事?」聞き返す奈良井さん。
「福島県に常磐ハワイアンセンターという観光施設があって、フラダンスなどを披露しています。しかし、八畳島の方がハワイに近いですから、本場のハワイのように腰みのをつけた女性が観光客に花のレイ、つまり首飾りを首にかけるとか、フラダンスで出迎えるとかしてみたらいかがでしょうか?」
「そ、それはけっこう派手な演出ですね・・・」と少しあきれたような声を出す奈良井さん。
「若い娘をアルバイトで雇えば可能だろう」けっこう乗り気の町長。
「それからお料理と飲み物ですが・・・」と俺が言いかけると、町長が制止した。
「料理と飲み物については、実際に飲食しながら話を伺おう。・・・奈良井君?」
「わかりました、町長。では、藤野さん、これから私の実家の民宿に行って、八畳島の幸を堪能していただきましょう」
奈良井さんの言葉から、これから宴会を始めようと考えていることがわかった。しかも町長も参加するようだ。
身支度を整えると俺たちは役場を出(まだ五時前だった)、車に乗り込んで奈良井さんの実家だという民宿「八畳」に向かった。
町中の民家風の建物の前に降ろされる。
「ようこそいらっしゃいました、お嬢さん。それに町長さん」と出迎える初老の女性。おそらく奈良井さんの母親なのだろう。
「うまい飯と酒をいつものように頼むよ」と機嫌の良い声の町長。常連かな?
俺はまず寝室となる六畳間に通され、そこに鞄を置いた。そして食堂らしきちょっと広めの和室に案内された。大きな木製の座卓が置かれ、既にお造りの盛り合わせや天ぷらなどの料理の数々、島寿司、そして果物の盛られた皿が並んでいた。
「藤野さんは島の焼酎を飲まれますか?」と聞く奈良井さん。
「いえ、私はお酒がだめなので、お茶をいただけますか?」
「島特産のパッションフルーツのジュースがあるから、それをお出ししましょう」と奈良井さんの母親が言った。
「パッションフルーツは島で昭和二十四年から栽培しているんだ。果物として食べてもいいし、生ジュースも人気なんだ」と奈良井さんが説明した。
「それは珍しいですね。ありがとうございます。いただきます」と俺がお礼を述べる間に町長と奈良井さんはコップに注いだ焼酎をお湯で割っていた。
「それでは、藤野さんの来島を祝してかんぱあ〜い!」と景気よく叫ぶ町長。
「乾杯」と俺も言ってジュースを一口飲んだ。濃い甘味と濃い酸味があって、けっこう刺激的なおいしさだった。
「これはおいしいですね!」と俺が感想を述べると、
「そうだろう、そうだろう」と上機嫌な町長が応じた。
「刺身も天ぷらも食ってくれ。天ぷらは魚以外に名物の明日葉の天ぷらもあるぞ」
「ありがとうございます」刺身は赤身や白身の魚が並んでいた。何の魚か一見しただけではわからない。カツオのタタキだけは見分けがついた。どれも新鮮でおいしそうだ。
「海の幸は見ての通りだけど、名物料理を加えるならどんなのがいいか、意見を聞かせてほしい」と刺身をほおばっている俺に奈良井さんが聞いてきた。
登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科二年生。
相良須美子 秋花女子大学就職指導部の事務員。
奈良井 孝 八畳町役場観光振興課係長。
丹下佳奈 秋花女子短大英文学科二年生。
嶋田芽以 秋花女子短大英文学科二年生。
峰延喜代志 八畳町町長。
大型レジャー施設情報
常磐炭礦(常磐興産)/常磐ハワイアンセンター(1990年よりスパリゾートハワイアンズ)(1966年1月15日開園)




